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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第九の試練 俺は妹を抱くわけにはいかない
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44 鋭い叫び声

 2017年5月6日 土曜日



「今地学準備室に、真理愛パイセン来てるらしいよ」


 部活中、トイレから戻った一之瀬が部員たちに告げる。

 黒部が歩夢の顔色をうかがう。


「あーあ~。どっかの誰かさんがあんなこと言ったから、ここに来てくれない~」

 そう言いながら歩夢の顔をのぞき込んだ一之瀬は、表情が変化しないことに首をかしげる。


 あの人がそこにいる?

 そんなの、とてもリアルとは思えない……。



 地学準備室では、小平先生が真理愛にお地蔵様のような顔で語りかけていた。


「日比野君がね、高良君が空いている日だけでも非常勤講師としてこの高校に来られるよう、先生方に頭を下げていたんだよ」

「日比野君が、ですか? そうだったんですか……」


「彼は君にひどいことをしてしまったと嘆いていたけれど、彼は君になにをしたのかね?」

「なにも、されてなんかいません。日比野君は、本当にいい人ですから」


 暗い声でそう言った真理愛は、無念そうに下を向く。


「事情はよくわからないが、もし彼のことを許してもらえるなら、顔を見せてあげられないだろうか。彼の落ち込み方が、見ていられなくてね」

「違うんです。ひどいことをしたのはわたしのほうなんです。だから日比野君には、合わせる顔がなくて」


「君たちは、同じようなことを言うんだね。どこか似ているところがあるのかもしれないな」

「日比野君よりもわたしのほうが、ずっと愚かな人間です。わたしには先輩を名乗る資格なんてないんですよ」

「では君は、このままでいいのかい?」



 地学実験室と地学準備室を隔てる引き戸が、ゆっくりと開いていく。

 少しやつれた顔がのぞく。

 水色のワンピースが現れる。


「すいません。ごぶさたしてます。ちょっと先生に用事があったので」


「レジェンドのパイセンキターッ!」

 所在なげにうつむく真理愛に、一之瀬が軽快な動きで飛びついていった。


「おっとー」

 反射的に受け止めた真理愛は、一之瀬の極上の笑顔につられて思わず笑ってしまう。


 黒部も嬉しそうに拍手していた。

 その一方で歩夢は、いまだ心ここにあらずという顔をしている。


 この人が、本物の真理愛先輩?

 なんかはかなげで、すごくもろそうな人だなぁ。


 歩夢のうつろな顔を見た真理愛は、一度首をかしげてから思い詰めた表情で語りかけた。


「日比野君、いろいろごめんね。それから非常勤講師の件、本当にありがとう」

「えっ……あっ、いえ、俺は、なにも……」


 我に返った歩夢は、真理愛から予想外の謝罪と礼を受けていることに衝撃を受ける。

 その瞬間、無表情の仮面と無感情のよろいがこっぱみじんに砕け散ってしまった。

 無防備になった心を、ざんげの大群が襲う。

 声が出せない。

 真理愛の顔を直視できない。



「一之瀬氏、誰このスリム系美人。俺のこと紹介してくださいよー」

「あぁ、この方はOGだけど、ユーを紹介する必要はないと判断した」

「あら、それは残念だわ」


「あーわかった。マスター氏が言ってた、地学部伝説の天然ボケ美人、高良先輩ですよね」

「天然ボケは心外だけど、OGの高良真理愛です」

「俺、速見俊介っす。高良先輩、俺と付き合ってください」


 その瞬間、鋭い叫び声が部屋中にこだました。

「てっめーっ! ふざけたこと言ってんじゃねーっ!」


 いきなり速見の胸倉をつかんですごんだ歩夢の迫力に、部員たちは度肝を抜かれる。

 しかし次の瞬間には、一之瀬が腹を抱えて爆笑していた。


「日比野っち、大きな声出せるんじゃなーい。面白すぎるんですけど」

「なんか俺、地雷踏んだ? こんなに怖い日比野氏、初めて見たんだけど。お願い、殺さないで」


 歩夢はこん身の力を込めてつかんだ襟をどうしていいかわからず、辺りをキョロキョロと見回していた。

 それから静かに手を放し、わざとらしくせき払いをする。

 それを真理愛が嬉しそうに眺めていた。

 久しぶりに見る真理愛の笑顔は、歩夢には失明しそうなほど輝いて見えた。



 その後、真理愛は自分の近況を語った。


 大学院は無事卒業したが、助手として大学に就職することはできず、ポストドクターという名の臨時研究員になった。

 給料はアルバイト以下、いつ契約を切られるかわからない。

 助手として登用する可能性は低いと、大学から申し渡されている。


 今取り組んでいる恐竜の研究に少しでも時間を割き、学会で認めてもらわなければならない。

 特に長崎市での発掘はどうしても推し進めたいのだと言う。



 歩夢が心を乱したまま、真理愛の短い滞在は終わってしまう。

 すっかりやせてしまった真理愛を、歩夢は加速する焦燥感と共に見送った。


 あの人を元気づけてあげたい。

 でもあの人に近づいちゃいけない。

 俺があの人にかかわれば、迷惑をかけるだけなんだから。


 歩夢の足は真理愛の後ろ姿に向かって進みかけるが、その微妙な震えが一歩となることはなかった。



「どうだ速見。地学部のレジェンド、きれいな人だろう」

「確かに。でも俺、意外なところで宝蔵院派なんだけど」

「ユー生意気なこと言ってると、ボスに本物の刀で斬られるよ」


「ありえそうでこえー。それはそうと俺、あの先輩の名前、最近ネットで見かけたんだけど」

「そ、それはどういうことですか? ろ、論文が紹介されていたとか?」

「この高校のこと検索してたら、先輩の名前とか、経歴とか、写真とか流れてて」

「パイセンの個人情報が漏れてるってこと?」


「なにが書かれてたんだ! どう書かれてたんだ! 言え! 早く言え!」


 再び歩夢が速見の襟をつかむ。

 速見は歩夢の剣幕にビビリながら話を続けた。


「それが、悪い話ばっかりなんすよ。大学で手当たり次第、男を誘ってるとか」

「お前、今なんて言った」

「いや、俺が書き込んだわけじゃないっすよぉ。殺さないでぇ」



 部員たちがネットで調べてみると、真理愛の悪評は数えきれないほど流れていた。


 高良真理愛は、誰とでも寝る淫乱女。

 東京科学大学の研究者で、彼女を抱いたことのない男は一人もいない。

 時々母校の豊西学園高校を訪れるが、その目的は男子高校生を誘惑すること。


 部員たちがいくら記事を削除しても、正義を装う悪意は尽きることがなかった。


 いったいなにが……なにが起こってるんだっ。

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