40 偽物の血
2016年11月5日 土曜日
どんなにがんばっても、いい論文が書けない。
何度書き直しても、酷評しかされない。
誰もが認めざるをえないほどの実績を残して、研究者として評価されないといけないのに。
だけどこれ以上どこをどうすればいいのか、サッパリわからないわ。
わたしって、どうしてこんなにダメなんだろう。
真理愛は大学院の教員や学生たちに、研究への助力を頼んで回った。
しかし、協力してくれる人はどこにも見つからない。
「だから、僕と付き合ってくれるなら協力するって言ってるじゃないか」
「それとこれとは話が別ではありませんか」
「ここの男たちはみんな、君の体にしか興味がないんだよ。でも僕は違う。君とはちゃんと付き合うつもりだから」
「ですが、結婚されてますよね」
真理愛はしつこい男性の助手をなんとか振り切り、女性の大学院生に話を持ちかける。
しかし女性の先輩は、真理愛を鬼のような形相でにらみつけた。
「そんなに困ってるなら、いつもの手を使えばいいんじゃないの?」
「いつもの手とは、なんのことでしょうか」
「あら、ごまかすのがお上手なこと。みんな知ってるんだからね。あなたが汚いやり方をしているってこと」
「汚いやり方なんて、していないつもりですが」
「弱そうなふりをしてひきょうなことするなんて、それって人間として一番やってはいけないことなんじゃないのっ」
「ひきょうなこととは、具体的にどんなことでしょうか」
「あなた、それを人前で言われてもいいわけ?」
周囲の人たちが笑いをこらえている。
真理愛を親の仇のようににらむ女性もいる。
「ちょっとぐらいかわいいからってなによっ」
いくら弁明しても逆効果だと悟った真理愛は、先輩に頭を下げてその場を後にする。
どの人からも、同じようなことばかり言われる。
わたし、どこで間違えちゃったのかな。
なんでこんなに、人から嫌われるんだろう。
高校生の頃は、こんなんじゃなかったのに……。
真理愛は小平先生に、自分の論文を読んでもらいたいと考えていた。
だが部室には顔を出してよいものか迷う。
あまりに繊細な少年の、壊れやすい心が気になった。
でも元気なのかどうか、顔を見て確かめたいな。
わたしのことなんて、もうなんとも思っていなければいいんだけど。
まだ十代なんだし、とっくに心変わりしているかもしれないわ。
迷いながらも高校まで来てしまった真理愛は、意を決して部屋の扉をたたいた。
「あの、ちょっとおじゃましてもいーい?」
「真理愛先輩、久しぶりじゃないですか~」
再会を喜ぶ後輩たち。
今日もまた来ていた境も両手を上げて喜びを表現する。
「俺ってついてる~。すんごい忙しかったんだけど、無理して来て良かったな~」
たが歩夢だけは、真理愛と目を合わそうとしない。
挨拶されてもよそ見をしながらうなずくだけだ。
困惑した笑みを浮かべた真理愛は、地学準備室へ直行するしかなかった。
しばらくして部室に戻ってきた真理愛は、思いつめた顔をしていた。
それを見た一之瀬が、勢いよく立ち上がる。
「オーケー!」
「いきなりなにがオーケーなんだ? 一之瀬」
宝蔵院たちがあっけに取られている中、一之瀬は大きなボストンバッグを机の上に置くと、中からピンクやゴールドのド派手な衣装を取り出していった。
「なにを隠そう、あたしは筋金入りのレイヤーなのでーす」
一之瀬の趣味がコスプレであることは部員一同聞いていたが、実際にコスプレをしている姿を見たことはなかった。
一之瀬は教師不在の地学準備室にこもると、アニメのキャラをコピーした金ピカで超ミニの甲冑姿で登場してきた。
「ウォ~ッ、パーフェクトですよ、一之瀬さん!」
黒部のそれまで聞いたことのないような雄たけびが響き渡り、一同は驚きを隠せない。
「後でボスにも貸してあげまーす」
「このわたしがコスプレだと! しかし甲冑ということなら、やぶさかではないが」
「そうだ、パイセンも着てみましょうよー。レッツトラーイ」
「えっ、わたし? 無理無理。わたしがかわいい服を着るなんて犯罪だし」
「もっとポジティブにならなきゃ~。そうだ、このピンクの衣装なんてどうです? パイセンかわいいから絶対似合いますよ~。さあ何事もチャレンジですよっ」
「そうね。そうよね。わたし、変身しちゃおうかな」
地学準備室から真理愛が恥ずかしそうに出てきた時、一同は歓声を上げる前に思わず息をのんだ。
普段地味な服ばかり着ている真理愛は、この日も紫のシャツにジーパンという出で立ちだった。
それがフリルを多用した全身ピンクのスカート姿になってみると、駆け出しのアイドルか、アニメのヒロインそのものと言えるほど、あまりにもキュートだったのだ。
「ミラクルだーっ。その見目麗しきお姿、もはや地上のものではないぞ~っ」
境は黒部とハイタッチ。
二人は固く抱き合い、究極の美に出会えた喜びを分かち合う。
地上のものではない。
そう、あの人は俺たちみたいな俗世間の人間とは違う。
真理愛のコスプレ姿に目を奪われながらも、歩夢は冷めた表情を変えずにいた。
あの人は、俺たちみたいな世俗にまみれた人間が一緒にいられるような存在じゃないんだ。
汚れを知らない、澄みきった心を持った、完璧に清純な女性なんだ。
歩夢の脳裏に、外車に乗った長身の男性の姿が浮かび上がってくる。
そんな人が、どこの馬の骨ともわからない、その辺の男と付き合うなんてありえない。
妄想の中の真理愛が、男性に肩を抱かれホテルの中へ消えていく。
低俗な笑顔を浮かべながら。
あんな男と付き合うはずがない。
あの人が汚されるなんてありえない。
ぜっ、たいっ、にっ!
「卒業して八年以上経ってるのに、いつまで高校に来てるんですか」
うつろな顔の歩夢がそう言い放った時、その場にいた者全員が凍りついた。
真理愛はしかられた幼女のような顔で、小さなうなずきを何度も繰り返す。
「そうよね……。ごめんね……」
「いやいやいや、真理愛先輩なら大歓迎ですって。貴様なに思ってもいないこと口走ってんだ!」
「一応俺もOBなんだけどなー」
「いいえ宝蔵院さん、日比野君の言う通りなの。わたし今までの人生で高校時代だけが楽しかったから、いつまでも思い出にしがみついて、それにみんなを付き合わせていたの。迷惑かけて、本当にごめんなさい」
「迷惑なんて、とんでもないですよ! おい日比野! 貴様さっさと謝罪しろ!」
「俺もOBなんだけど、立場ねーなー」
「やめて宝蔵院さん。わたし今日はもう帰るね。あ、その前に着替えてこなきゃ」
「オゥシッド。なにこれ最悪。あたしも着替えてこよっと」
真理愛と一之瀬が地学準備室で着替えている間、宝蔵院は歩夢の首を絞め上げていた。
「貴様はなにをやってるんだっ。あんなこと言ったら真理愛先輩、来てくれなくなるじゃないかっ。それで一番辛いのは誰だ? 他の誰でもない、貴様自身だろうがっ」
「俺は、どうでもいいです」
歩夢の顔が赤黒くなっているのは、首を絞められているからではない。
宝蔵院はそう感じた。
突き飛ばすように歩夢を解放した宝蔵院は、自分の怒りをしずめようと胸を押さえる。
「みんな、今までごめんね。さようなら」
真理愛は顔を伏せながら部屋を後にした。
最後の視線は、空をにらんでいる歩夢に送られた。
「ユー、人間が小っちゃいんだよっ」
制服姿に戻った一之瀬が、目をつり上げながら言う。
口をぶざまにとがらせながら無言でいる歩夢にさらに腹を立て、彼の腹に飛びひざ蹴りをお見舞いする。
「ユー、目を覚ましなっ」
「うっ!」
「おいおい、まともに入ったぞ今~。いったいどんな新入生なんだ~?」
「だ、大丈夫? 日比野君」
歩夢は支えようとする黒部の手を振り払い、教室を飛び出していった。
「あの全部を台無しにする名人は、なんであそこまでパイセンのことを嫌ってるの?」
首をゆっくり横に振る一之瀬に、宝蔵院が頭を抱えながら答える。
「多分、好きすぎるからよ」
「アンビリーバボー。なんで気持ちと真逆のことを言っちゃうの。小学生かっ」
「日比野? ……ちょっと、日比野ってばっ」
外に走り出た歩夢は、見かけた明差陽の呼び声も耳に入らないまま、校舎の裏側へ駆け込んでいった。
そこは、初めて真理愛に遭遇した場所だ。
あの人は、ここにいて、ここにいなくて。
俺の前に現れて、俺の前から消えて。
歩夢は校舎の壁の角に頭をたたきつけた。
何度も何度も繰り返したたきつけた。
額が割れて、裂け目から血が流れる。
血に染まった瞳が、怪しく燃えている。
この血は偽物だ。
あの人も、偽物だ。
枯れ葉の季節も、雪の季節も、桜の季節も、歩夢が真理愛の姿を見ることはなかった。
真理愛の存在が、はるか彼方へ消えていく。
宇宙の膨張によって、光より速い速度で遠ざかっていく星たちのように。