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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第八の試練 俺はバイトを抱くわけにはいかない
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39 黒い世界

 2016年10月18日 火曜日



 再会から五ヶ月後。

 歩夢は自宅の電話の前で、熊のようにグルグルと歩き回っていた。

 手には電話番号などが書かれた現金書留の封筒を握りしめている。


 明後日は真理愛の誕生日だ。

 妄想の中では、歩夢は真理愛と二人で誕生日のお祝いをしている。

 歩夢はどうしたら真理愛の誕生日にかかわれるか、思案していた。


 当日は予定があるかもしれない。

 でも、夕方ならいいだろ? プレゼント渡すだけだし。

 このペンは気をつかわせるほどの値段じゃない。

 大学でも使えるし、迷惑ってことはないはず。


 歩夢は息を荒くしながら、電話機の前で七度思いとどまり、八度目には一気にダイヤルをプッシュした。


「はい」

「あっ、高良先輩、ですか? あの、豊西学園の、地学部の、後輩の、日比野、です」

「あぁ日比野君、久しぶり。どうしたの?」


「いや、あの、部活に来ないなーなんて思ったりなんかしたりなんかして」

「でもわたしなんかがいつまでも顔出してたら、迷惑でしょう?」

「そっ、そんなことないですよ! そんなこと絶対にありえない!」

「あ、ありがとう……。遊びに行きたいんだけど、論文作るのに忙しくて。わたし書くの遅いから」


「あー、あの、誕生日プレゼントを……」

「誕生日? あ、わたしもうすぐ二十七歳になっちゃうんだー。でも、プレゼントなんていいよ~」

「でも、地学部全員で買った物を預かってて、俺が誕生日当日に渡すって約束しちゃって……」


 ウソをついちまった。

 真理愛先輩を裏切り、部員たちを裏切り、自分を裏切った。

 最低だ。


「なんかみんなに気をつかわせて、悪いことしちゃったな。でもその日はちょっと用事があって……」

「あっ、ですよねー。でも渡すだけですから。家の近くまで行きますから」

「そんな、わざわざ来てもらうなんて……あぁ……じゃあ上福岡駅東口で夜九時……やっぱり七時でいい?」

「はいっ、喜んで!」



 電話を切った後、約束を取りつけた達成感と、ひきょうな手段を使った罪悪感で、歩夢の心は煮えたぎった。


 もう、引き返せない。

 こうなったら、やるしかない。



 2016年10月20日 木曜日



 歩夢は上福岡駅に約束の三十分前に到着した。

 辺りはすでに薄暗く、空は灰色の雲でおおわれている。


 髪型は何度も直したし、風は強くない。

 今までに買った服の中で一番高かった、大人っぽい黒いシャツを着てきた。

 歯も入念に磨いた。

 風呂で体を隅々まで洗って、制汗スプレーも大量に浴びておいた。


 プレゼントを渡すだけだけど、もしかしたら夕食に誘ってくれるかもしれない。

 話題は恐竜……じゃなくて、今年の流行とか?

 でも話題に困ったら、恐竜。



 約束の五分前。

 駅前ロータリーの向こう側に、いかにも高そうな外車が停車する。

 中から黒のレディーススーツに身を包んだ、ロングヘアの女性が降りてきた。


 いや、真理愛先輩は歩きか電車で来るはずだ。

 そう言われたわけじゃないけど。


 運転席から背の高い男性が降りて、女性に話しかけている。

 男性の銀縁のメガネが光る。

 男性の手が女性の腕をつかむ。


 あの首をかしげる動き、長い髪の揺れ方、真理愛先輩だ。

 あの男、誰だよ。

 彼氏はいないって言ってたはず。

 去年の話だけど。


 あの男は、いわゆるイケメンなのか?

 でも真理愛先輩とはどう見ても不釣り合いだ。

 あの二人が付き合っているはずはない。


 真理愛がなにか言って、背の高い男性は腕を離した。

 男性は不満げに車へ乗り込む。

 車は高いエンジン音を鳴らし、大量の排気ガスをまき散らしながら走り去っていった。



 真理愛がこちらへ来る。

 歩夢はいったん駅の構内に隠れてから、今着いたかのように飛び出した。


「ああ、高良先輩、こんばんは」


 そう、なにも見なかったように振る舞えばいい。

 それが、大人の対応ってやつだ。


「日比野君? こんばんは。ごめんね、こんな所まで来てもらっちゃって。今来たとこ?」

「はい、今、です。高良先輩は?」

「うん、今」


「電車で?」

「えっ……あぁ、あのぅ、大学の知り合いが、車で送ってくれて」

「知り合い?」

「ええ、知り合い……」


「あの人、誰なんですか?」


 歩夢の胸にどす黒い痛みが走る。

 視界がねじ曲がり奇怪にゆがんでいく。


 真理愛はなにか言おうとしたが、歩夢の表情に驚いた顔をして、言葉を飲み込んだ。

 そして目が座ってきて、あらためて言葉を口にする。


「あの人と、お付き合いをしているの」


 歩夢は、すべてが黒く塗り潰された気がした。

 世界も、未来も、自分自身も。


 いや、そんなはずはない。

 俺はなにも聞いてない。

 俺は認めない。


「でっ、でもあの人、先輩の見た目だけじゃなくて、性格っていうか、中身っていうか、先輩の感性とか、知性とか、理性とか、先輩のいいところ全部、ちゃんと理解してるんですか? 先輩は他の人とは違う。先輩は特別な人なんですよ。先輩は相手を選ぶべきなんだっ」


 この人は困ってる。

 迷惑だっていう顔してる。

 ああ、お前なんか消えてほしいっていう顔だ!


 歩夢はいきなり走り出した。

 駅とは違う方向へ。

 プレゼントを握りしめたまま。


「あ、日比野君……」


 なんで気づかなかった。

 あの人に彼氏がいてもおかしくないのに。

 どうして誕生日に会いたいなんて言っちゃったんだろう。


 あの人にいやな思いをさせちまった。

 俺ってどこまでバカなんだ!



 一人残された真理愛は、全力で駆けていく歩夢を心配そうに見送っていた。

 歩夢が派手に転んだ時は、思わず助けに行きたくなった。

 けれど自分には会いたくないだろうと思い直し、踏みとどまる。


 悪いこと、しちゃったな。

 あの子だって男の子なのに。

 わたしが安心していたのがいけなかったんだわ。


 わたし、また失敗しちゃったんだ。

 どうしてていつも、こうなるんだろう。

 やっぱりわたしって、人とかかわっちゃいけないのかな。



 息を切らしながら走る歩夢。

 再び転んだ時、雨が降り出した。

 路地にあお向けになり、雨をまともにくらう。

 整えた髪も、新しいシャツも、水浸しで泥だらけだ。


 今、自分がどこにいるのかわからない。

 どこへ向かえばいいのかもわからない。


 でも、俺は知っている。

 あの人は処女だ。


 あの人がそんな汚いことをするはずがない。

 あの人は、特別な人なんだから。



 2016年11月1日 火曜日



 歩夢はかぜを理由に十月いっぱい学校を休んだ。

 最初の一日を除けばずる休みだ。

 その後は、高校へは通った。授業は受けた。

 ただし、生ける屍だった。


 想像上の真理愛を呼び出す力を、歩夢は失っていた。

 だから目の前にも、頭の中にも、真理愛は存在しない。

 たとえ思い出そうとしても、顔のない、黒い雲のようなものしか浮かんでこない。

 世界は闇に閉ざされ、人生は再びむなしいだけのものに戻った。



「ちょっと日比野、あんた大丈夫なの? 顔が真っ青になってるよ」


 廊下で歩夢を捕まえた明差陽は、まるで生気のない歩夢を見て事態の深刻さを感じ取った。


「それ、病気? どっちかって言うとメンタル? もしかして、あの人のせい? ちょっとっ」


 明差陽はまったく反応を見せない歩夢の、年寄り臭く丸まった背中を見送る。

「あれは女のことに決まってるわ」



 歩夢は部活への参加も避けていた。

 彼にとって、部室は地獄でしかなかった。


「ひ、日比野君、ぐ、具合はどう? あぁ」

 心配して教室を訪ねてくる黒部を、粗雑に押しのけて追い払う歩夢。


「おい日比野、いい加減部活に出てこい。少し顔を出すだけでもいい」

 宝蔵院も繰り返し誘いにきたが、歩夢は「具合悪いんで」と返すだけ。


 だが後輩の一之瀬は、強引さのレベルが違っていた。


「ヘイユー、なにサボってんの! さっさと行く!」

「やめろ一之瀬、腕に胸が当たってる、胸が当たってるってっ」


 体重をかけて引っ張る一之瀬に対抗するだけの覇気を、歩夢は持っていなかった。



 こうして地学部には復帰したものの、歩夢はほとんど口をきかなかった。

 故意に話さないというよりは、言葉を送り出すだけの活力がないのだ。


 部員たちは気にしながらもなかなか声をかけられない。

 一之瀬を除いては。


「あのさー、ユーがなに悩んでんのか知らないけど、周りの雰囲気まで暗くするのやめようよ」

「すいません」

「オゥノゥ。これは重傷ね。ユーは気温測定にでも行ってきなっ。ゴーゴーゴー!」

「痛っ、先輩を蹴るなって、パンツ見えそうだってっ」



 百葉箱の前で機械のように黙々と測定しながら、歩夢は深いため息をついていた。


 俺はこれからどうすればいい。

 誰でもいいから教えてくれよ。


 あぁ、そういえばどっかの誰かさんに言われたな。

「自分の気持ちに正直に生きているほうが、自分の居場所とか、共感できる相手とか、見つかるかもしれないよ」って。


 明差陽が棒高跳びの練習をしている。

 真理愛が力をもらった明差陽の跳躍だ。


 よみがえってくる。

 風になびく長い髪、弱々しいけどしっかりと前を向く瞳。


「想像して。日比野君なら、きっとできるわ」


 ネコのミルクを温める真理愛が、モノトーンの映像で浮かんでくる。

 それが次第に火を灯すように色づいてくると、星空の下、隣にちょこんと座っている姿になった。


 そうだ、俺にはあの人がいる。

 必ず俺の味方になってくれるあの人が。


 あの人が俺の信頼を裏切るはずがない。

 もし裏切ったとすれば、それは本物のあの人じゃないってことだ。


 信じよう、俺のことを信じてくれたあの人を。

 それが、俺が俺でいられる唯一の方法なんだから。



 明差陽が歩夢の様子をうかがっている。

 歩夢が明差陽にうなずき、明差陽もうなずき返す。


 校舎の陰には宝蔵院、黒部、一之瀬。

 互いの顔を見合って、嬉しそうにうなずいている。

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