38 完璧な存在
2016年5月6日 金曜日
「仲間さん、だよね。ちょっといいかな」
宝蔵院が二年B組を訪れ、明差陽に声をかけた。
決闘に挑むような表情の宝蔵院に戸惑う明差陽だったが、「日比野のことで」と言われると素直に屋上までついていった。
「日比野がな、深爪で血だらけなんだ。切りすぎたというよりは、自分で裂いたって感じでな」
「それ、中学の時からありましたよ。ストレスなんでしょうね。いつも手先が血まみれでした」
「誰かに服を焼かれたりするらしいな。本人はたき火に使ったと言い張っているが。今は五月だぞって言ったら、のろしを上げて宇宙人を呼ぶんだ、とか言い出す始末だ。事実を認めないのは追いつめられている証拠じゃないかと、わたしは思うのだが」
「もう慣れっこなんじゃないでしょうか。わざわざ着替えまで用意しているみだいだし」
「なら彼がなぜあんなに後ろ向きなのか、理由を知っているなら教えてほしいんだがな」
「でも人の秘密を明かすのはあんまり……」
明差陽は宝蔵院の真剣な眼差しに気づき、自分の胸が温かくなるのを感じた。
できたんじゃん、味方になってくれる人。
あんなにいらないって強がっていたくせに。
「まああたしが隠したところで、ネットにも流れちゃってるから……」
宝蔵院に話しながら、明差陽は歩夢のことを思う。
あいつ、どれだけ辛かっただろう。
どうすればあいつは、過去の自分と決別できるのかな。
その頃、大学院にいた真理愛は自分が師事する教授に呼び出されていた。
「教授、お呼びでしょうか」
初老の教授は大きないすにふんぞり返りながら、口角を上げて茶色い歯を見せた。
「君、今夜空いているかね」
真理愛は肉食動物と鉢合わせしてしまった草食動物のようにたじろぎながら、警戒心を露わにする。
「そのお話でしたら、何度もお断りしたはずですが」
「君にとって悪い話ではないと思うのだがね。僕の提案を受け入れなければ、君に研究者としての未来はないのだから」
「どうか研究成果だけで、ご判断いただけないでしょうか」
「研究成果だと? 君の研究など、取るに足らんのだよ!」
真理愛は泣きそうな目に悔しさをにじませ、黙って頭を下げた。
うなだれたまま部屋を出ていく真理愛に、教授が追い討ちをかける。
「よく覚えておきなさい。女性には賞味期限というものがある。特別扱いしてもらえるのも、今のうちだけなんだぞっ」
教授の個室から廊下に出た真理愛は、窓の上の方に少しだけ見える空を眺め、深いため息をついた。
わたしって、どうしてそんな風にしか見てもらえないんだろう。
どうすれば誰かと、同じ目標に向かって歩んでいけるのかしら。
あーあ、高校時代に戻りたいな。
歩夢が最後に真理愛を見てから、七ヶ月が経過していた。
会えない時間が長ければ長いほど、心の中で真理愛の存在が大きくなっていく。
頭の中で思い描いた真理愛は、すべてが完璧な女性に作り上げられていた。
あまりに理想的すぎて、もはや人間の領域を超越している。
歩夢にとって、空想と現実の境界はあいまいになっていた。
空想の世界で彼女の姿を追い求めるように、現実の世界でも彼女の姿を探し続けた。
だが、街で見かける髪の長い女性はすべて別人だった。
何人見ても何万人見ても、ことごとく別人だった。
俺が未熟な人間じゃなかったら、あの人は空から降りてきてくれるのかな。
でもあの人が地上に降りた時、俺は地下に潜っているだろう。
汚れを知らないあの人と、汚れの中から生まれてきた俺。
俺とあの人の距離は、一生縮まるはずがないんだから。
本物の真理愛が姿を見せたのは、タンポポの綿毛が空を舞う夕暮れ時だった。
部室を訪れたのは八ヶ月ぶり。
迷い込んだ風が、ワンピースのすそをはためかせている。
「皆さん、ごぶさた」
しかし真理愛の顔を見た部員たちは、笑顔のままではいられなかった。
「真理愛先輩、顔色が良くないですよ。なんか、黄色くなってます」
「あらそう? でもなんでもないのよ宝蔵院さん。徹夜で論文を書いていたもんだから、ちょっと寝不足なだけ。今日はね、小平先生に論文のことで教えを請いたいと思って」
体調のことばかりたずねる部員たちの中、一人だけ明るい声で話しかける部員がいた。
「ハ~イ、わたし一之瀬アンナって言いまーす。ユーが噂の美人パイセンですね~」
「はじめまして、高良真理愛です。でもわたし、全然きれいなんかじゃないわ。一之瀬さんこそ、なんてかわいい女の子なの。まるで少女マンガの中から飛び出してきたみたいだわ」
努めて明るく話す真理愛だが、声に力がない。
歩夢の心中では歓喜の痛みが一転、心配の激痛へと変化する。
記憶の中の真理愛は、ずっと病に伏したままなのだ。
歩夢は胸の中で黒い虫がザワザワと暴れている気がして落ち着かず、ひとまずトイレに髪型を直しにいった。
しかしそんなことをしても意味がないと思い直し、すぐに部室へ引き返す。
すると扉の向こうから、宝蔵院が真理愛に話している声が聞こえてきた。
「レストランを経営していた父親がバイトの女の子に手を出して、母親も報復でパート先の店長と不倫したらしくて。両親はそれぞれ愛人宅に入り浸って、まだ小学生だった日比野をずっと放置していたそうです」
「そっか。でも宝蔵院さん、それって単なる噂? それとも本人から直接聞いたの?」
「お祭りで会った仲間明差陽って子から聞いたんです。その噂が近所に広まって、親は余計家に寄りつかなくなって、日比野は学校でひどいいじめにあったらしいんです」
「日本人のそういうとこ、くっだらないね。親なんか関係ないじゃーん」
「ひ、日比野君、かわいそうに。へ、平凡な家で育った僕なんかより、ずっと辛かっただろうな」
「宝蔵院さん。日比野君が心配なのはわかるけど、そのこと、これ以上誰にも言わないようにしてね。みんなも、お願いね。みんなが日比野君にしてあげられることは、これまで通り普通に接することだと思う。だってみんな、今でも十分優しいから。日比野君なら、きっと大丈夫よ」
少し待ってから部室に入った歩夢は、あえて別の話題を話し続ける部員たちと目を合わせられなった。
俺のことなんか気にかけてくれやがって。
まるでみんなが、同志みたいに思えてくるじゃねえか。
間もなく真理愛は地学準備室に入り、三十分ほどで戻ってきた。
真理愛は時折歩夢の顔をのぞき込んでくるが、歩夢はできそこないの笑顔で会釈することしかできない。
再会に七ヶ月もかかったのに、俺はなにをやってるんだ。
元気になってもらうどころか、かえって気をつかわせてるじゃねえか。
「日比野君、元気がないなー。高良サウルスが捕まえて食べちゃうぞ~。ガオー」
「子供っすか」
「そうね。むしろ子供になりたいわ。子供みたいに真っ直ぐな大人にこそ、いい仕事ができると思うから。日比野君は純粋なまま大人になってね。世界は日比野君みたいな人間を必要としているのよ」
「それ皮肉ですか? 俺は枯れ木として生まれて枯れ木のまま死んでいくんですよ」
久しぶりに聞く歩夢の鋭い声に、部員たちは固まった。
真理愛一人が、粘り強い笑顔で話し続ける。
「日比野君の言葉って、せつなくて心にしみるんだよね。小説家を目指してみる、っていうのはどうかなぁ」
「じょ、冗談はやめてください。こんな俺がなにかを表現して人に伝えるなんて」
「ねえねえ、ちょい役でいいからさー、わたしをモデルにした登場人物を描いてよ~。そしたらわたし、物語の中で永久に生きられるじゃなーい」
真理愛が帰った後、歩夢は胸の痛みを訴えて保健室に運ばれる。
そして夜になるまで起き上がることさえできなかった。
なに言ってるんだあの人、なにがちょい役だよ。
あんなに輝いている人、ヒロイン以外ありえねえし。