35 夜の職場
2027年8月30日 月曜日
マリアが歩夢の家に来て八週間。
歩夢の生活に、マリアはいて当然の存在となっていた。
洗面台には歯ブラシが二本。
ベランダの物干しには男性ものの下着。
室内の物干しには女性ものの下着。
マリアの服がパイプハンガーに並んでいる。
部屋はパステルカラーの壁紙に張り替えられ、造花で華やかに彩られた。
朝と夜には、キッチンに包丁の軽快な音が響く。
「歩夢、洗濯物があったら出しておいてね」
マリアの会話能力は、人間並みとまではいかないものの、日常会話なら問題なく進められるようになっていた。
歩行も転ばない程度には上達している。
料理の腕前に至っては、もはやプロ並みだ。
けれど歩夢には、いまだに時折見せる未完成な部分も、マリアの魅力だと感じられるのだ。
「そんな言い方しなくてもいいじゃんかぁ。そう思わないぃ?」
「歩夢を傷つけるなんて、マリア許せないわ。かわいそうな歩夢を、マリアが慰めてあげる。よしよし」
歩夢は仕事から帰ると、マリアにひざ枕をしてもらいながら愚痴をこぼす。
そうすることでストレスを発散して、なんとか仕事を続けている。
誘惑を禁止されたマリアは、直接的に言い寄ってくることはなくなっていた。
ただ時折色っぽい動き、艶っぽい表情で暗に誘ってくる。
だがやはり、歩夢が手を出すことはなかった。
「マリア、制服のスカートをめくり上げていくのは、はしたないことなんだよ」
「スカートはめくっちゃダメ。マリア覚えた」
「ほんとは知ってたろぉ、それぇ」
歩夢のムスコは相変わらず元気ハツラツなのだが、時々慰められて落ち着きを取り戻す。
その際に思い浮かべるのは、マリアでも真理愛でもない。
一番多く登場するのは、相変わらず明差陽だ。
職場へ向かう歩夢は、スマホがバイブしていることに気づいた。
有寿からの電話だ。
「お兄ちゃん、おはよ~」
「おぉ、有寿か、おはよう。電話なんて珍しいじゃねえか。いつもメールなのに」
歩夢は高校を卒業してからも、有寿とは頻繁にメールのやり取りをしていた。
メールの内容は、ほとんどが有寿の相談だ。
学校ではいじめ、家庭ではネグレクト。
有寿にとって、歩夢とのメールは命綱だった。
だが小学生の頃は会話に支障があった有寿も、中学生になるとよくいる内気な子と思われる程度になり、いじめの回数も減っていった。
高校生になると美術部に入り、高校生活を楽しめるようになる。
絵画コンクールで入賞すると、ネグレクトしていた両親は手のひらを返すように我が子を自慢するようになった。
そして有寿は見事芸術系の大学に合格し、晴れて女子大生となっている。
歩夢は有寿に呼び出されて直接会うこともあったが、多い時でも数ヶ月に一度くらい。
それもどこかへ遊びにいくわけではなく、公園で話すか、せいぜいファミレスで食事をする程度。
それが近頃は、有寿が頻繁に店へ来るようになっている。
その変化に歩夢は戸惑い、心配性がさらに悪化していた。
「お兄ちゃん、来週はあたしの誕生日だってわかってるぅ?」
「あ……もちろんだよ」
「ひどーい、忘れてたんでしょ~。記念すべき二十歳の誕生日なのにぃ~」
だからこそ、連絡しなかったんだよ。
いつまでも過去の人間関係にとらわれていないで、もっと青春を楽しめばいいのに。
「わかってるけどさあ、今年も祝うのが俺でいいのか? いい加減、俺に気をつかわなくていいんだぞ」
「お兄ちゃんに気なんかつかわないよ~。しっかりおごってもらうから~。いつもよりいい店取っておいてねー」
「しょうがねえなあ。今年はちょっと奮発してやるかぁ」
「うわ~、楽しみ~」
電話を切った有寿は、スマホを抱きしめて空を見上げる。
大丈夫、大丈夫。
あたしはもう、二十歳になるんだから。
もう子供のフリは、しなくてもいいよね。
わたしが大人になったってこと、思い知らせてやるんだから。
ビックリしてオドオドするお兄ちゃんが、目に浮かぶわ~。
歩夢はネットで池袋のレストランを検索し、夜景のきれいな店を予約しておいた。
もう二十歳になるっていうのに、まだ俺にくっついてくるなんて。
いつになったら兄離れできることやら。
その日店舗では、結衣以外のバイトが体調不良を理由に早退した。
しかも社員の日下部まで、残業を切り上げて帰ると言い出す。
「なんかよくわかんないっすけど、帰ったほうがいいみたいなんで帰りまーす」
店内に感染症が発生したのかと焦る歩夢。
けれど実際には、結衣がうまく言いくるめて帰らせたのだった。
夜十時の閉店までまだ二時間あるし、その後は閉店作業という重労働も待っている。
歩夢はどうやってこの難局を乗り切るか迷っていた。
未成年の結衣は原則夜八時までの就労としていたが、歩夢はやむをえず夜十時までの延長を依頼する。
「あたし今日で十八歳になったから、十時以降も働けますよっ」
「あ、そうだったっけ。でもさあ、なにも誕生日に一晩中仕事することないじゃん」
「あたし昔から、誕生日が大っ嫌いなんですよ。小さい頃から誕生日の夜も一人だったから。なので、逆にバイトで埋めたい、みたいな」
「へえ、俺と同じだな。そりゃ手伝ってくれるなら、こっちは助かるけどさあ」
「じゃあ決まりですねっ」
今日は特別な日だからツインテールなのか?
三次元でツインテールが似合う子、初めて見た。
日頃のお礼になんかごちそうしてやりたいところだけど、俺なんかが相手じゃいやだろうな。
子供を夜中に連れ回すわけにもいかないし。
三人分働く結衣のおかげで、無事閉店時間を迎える。
歩夢はあらためて、結衣のありがたみを痛感した。
「設楽、今日は本当にありがとう。あんまり遅くなるといけないから、これで上がっていいよ」
「いえ、今夜は最後まで働かせてください。クローズ作業、一度やってみたかったんです」
「そうなのか? じゃあ今夜だけ、お言葉に甘えようかな」
シャッターを閉めると、二人だけの世界ができあがる。
夜十時ですべての店舗が閉店するサンシャインシティは、人通りが激減していた。
静けさに包まれた夜の職場に、時折鈍い金属音がこだまする。
閉店時の作業は、通常は社員が男性のバイトと組んで行う。
パティを焼くグリル、フライドポテトのフライヤー、シェークを作るサーバー。
設備の清掃や洗浄には多少の腕力と根性を必要とするからだ。
歩夢は結衣に、筋力を要求されない仕事を指示していく。
なんか、設楽が俺の方をチラチラ見ているような気がするんだけど。
俺のこと、警戒してるのかな……。
でも設楽、心配しなくていいよ。
俺は草食系……いや、絶食系だからさ。
力仕事の連続で、歩夢は汗びっしょりになっていた。
結衣は歩夢のそばを通ると思う。
やっぱそうだ。店長代理の汗って臭くない。
なんか不思議といい匂いなんだよね。
今夜は最低限の作業で済ませることにして、夜十一時に業務終了。
結衣に申し訳ないことをしたと思っていた歩夢は、調理台の前に立っている結衣に礼を言おうとした。
しかし思い詰めたような表情の結衣を見て、言葉を詰まらせる。
「ねえ、店長代理、あたしと付き合ってくれませんか?」
え? この子はなにを言っている?
「あたしの話、聞いてます? 店長代理ぃ」
「ハハハ、子供はもっと子供らしい冗談を言いなよ」
「いきなり付き合うのが無理なら、とりあえず、あたしとセックスしてください」
「はぁ?」