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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第七の試練 俺は女神を抱くわけにはいかない
33/66

33 緊急の事態

 2015年10月20日 火曜日



 祭りの日以来通学路にある公園の前を通ると、歩夢の目は無意識に有寿の姿を探していた。

 有寿は決まって一人遊びをしていたが、元気そうな姿を見ると歩夢はホッとした。


「お兄ちゃん!」

「よう、有寿ちゃん」

 二人はぎこちない挨拶を交わし、不器用な会話をするようになっていった。


 歩夢を見つけると、有寿は無邪気な笑顔で走り寄ってくる。

 動物の子供のようなかわいさの有寿といると、一人っ子だった歩夢は「妹ってこんな感じなのかな」と思い、兄になった気分に浸ることができた。


 一方的に話す有寿の言葉を、歩夢はじっと聞いていた。

 言いたいことを一通り吐き出すと、有寿はマラソンを走り切った後のように笑う。

 すると歩夢は、自分が救われたような気がするのだ。


 有寿は流ちょうに話すことができず、どうしても会話がもたつく。

 だから同級生や教師たちからいつも侮辱されていた。

 親からも「お前はできそこないだ」と責められていた有寿は、自分でも「自分は失敗してできちゃったもの」だと思い込んでいた。


 しかし歩夢は、有寿のコミュニケーション能力は内向的な自分と大差ないと思えたし、たとえ軽度の発達障害だとしても、本人の価値は変わらないと考えていた。

 だから有寿にはそう伝えたし、伝え続けた。


 お絵描きをさせると、有寿は鮮やかな色彩で大胆な絵を描いた。

 絵の下手な歩夢は見るたびに感心して、素直にほめた。

 それは有寿にとって、最大級の喜びだった。



 入学から半年経ち、歩夢の教室での孤立はすっかり確立されていた。

 歩夢は人と交わる努力をするどころか、むしろ同級生を巻き込まないように配慮している。

 自分とかかわったクラスメイトがどんなに悲惨な目にあうか、経験上知っていたからだ。


 そんな歩夢が一番気にしていたのは、周囲が止めても声をかけてくる明差陽のことだった。


「ちょっと日比野、また寝ぐせついてるよ」

「こういう髪型なんだよ。百年ぐらい経ったらはやるからさ」

「だったら全部逆立ててパンクにしちゃいなよ。わりと日比野っぽいかも」

「意外な高評価サンキュ~。というわけで、今日の会話はこの辺で終わっとこうか」


「なにその時間制限。大人気キャラのグリーティングかなにかのつもり?」

「俺の会話継続能力のキャパが十秒以内なんだよ」

「短っ。とか言って、地学部の人たちとは平気で話すくせに。特にあのOGの人とは」


 とたんに歩夢の表情が硬くなる。

 声が低く重く鋭くなる。


「話しても話したことにはならない。許されない会話は、なかったことにしなくちゃいけない」

「そのいつもさあ、頭いい人のまねをしてる頭悪い人のふりをするの、やめようよ。ほんとはそこそこ頭いいくせにさあ」


「生き物にはテリトリーってものがあるんだ。そこからはみ出したやつは、群れから制裁を受けなきゃならない。たとえ幻を見ているだけも、心が罪を犯したことに変わりはない」

「あーあ。この人また一人でどっかに行っちゃったよ~」



 真理愛が高校に来てくれない。

 家でも学校でも通学途中でも、歩夢は妄想の中で彼女に会うしかなかった。

 彼女と共にいる自分を想像しなければ、絶望に押し潰されてしまう。


 妄想の中の真理愛は、一つ屋根の下で暮らす家族だったり、悪と戦う勇者だったりする。

 想像上の彼女は、想像すれば想像するほど洗練され、浄化され、清廉潔白な人物となっていく。


 しかし歩夢は、自分から本物の真理愛に会いに行こうとはしない。

 偶発的な事故としての遭遇を待つだけ。

 それが自分に許した唯一の逃げ道だった。



 部活が終わる時間、地学準備室にいた小平先生が書類の束を持って現れた。

「これ高良君に頼まれた資料なんだけど、急ぐらしいから、すまないが誰か、高良君の家まで届けてくれないかな」


「ならわたしが」と言いかけた宝蔵院は、刀で猛然と斬りかかってくるような殺気を感じた。

「ぬぬ、この部屋に曲者が紛れ込んでいるな」


「ひ、日比野君が近いです」

 黒部が思い切ったように進言した。

 戸惑っている歩夢に向かって、何度もうなずいてみせる。


「じゃあ日比野君、悪いけど頼むよ」

 小平先生はそう言って、歩夢に書類と住所のメモ、そして交通費を手渡した。



 真理愛は埼玉県ふじみ野市福岡で一人暮らしをしている。

 歩夢は小平先生に渡された住所のメモをしっかりと握りしめながら、東武東上線の上福岡駅で下車する。


 メモに従ってたどり着いた場所には、ひどく古びたアパートが建っていた。

 しかし歩夢にとっては、壁のシミさえ味わい深い。


 階段を昇る。緊張が高まる。

 部屋番号を確かめる。お腹が痛くなってきた。

 扉の前に立つ。目の前がクラクラする。

 インターホンを鳴らす。指が震えてる。

 返事がない。なんか気持ち悪い。

 もう一度鳴らしてみる。心臓が口から飛び出しそう。



「は、い?」


 いた、いたっ、いたっ!

 どうしよう! 俺どうしよう!


「あ、あの、後輩の、地学部の、日比野、という者で、決して、怪しい者ではなくって……」


 扉がゆっくりと開く。

 急いで前髪を直す歩夢だったが、格好を気にしている場合ではなかった。

 現れた真理愛の顔が、死人のように青ざめていたからだ。


「あぁ、日比野君、資料、持ってきて、くれたのね。わざわざ、ありがとう、ごめんね」


 水色のワンピースを着た真理愛は、封筒を受け取ったとたんその場で倒れてしまう。


「先輩っ!」


 歩夢はとっさに真理愛の両肩をつかんで抱き上げたが、触れてしまったことに罪を感じ、離れなきゃいけないと思った。

 とはいえ、このまま放っておくわけにもいかない。


「ごめんなさい。ちょっとかぜっぽくて」

「すいません。ベッドまで連れていきます。ほんとすいません」


 歩夢は恐る恐る真理愛の体を回転させ、足の感覚で靴を脱いだ。

 背後から真理愛の肩を抱きかかえたまま、部屋の奥へ進んでいく。

 しなやかな体が密着しているのを感じたが、遠慮している余裕はない。


 ワンルームなのでベッドは近かった。

 爆発物を扱うように慎重に、そっとベッドへ横たえる。


「ありがとう。助かったわ」


 真理愛先輩が大変だ。

 真理愛先輩を助けられるのは、少なくとも今は、俺しかいない。



「すいません、ちょっと換気します」

「日比野君、もう帰っていいよ。かぜうつっちゃうから」

「すいません。ちょっとだけ、手伝わせてください。すいません」

「日比野君、謝ってばっかり」


「あの、薬箱、開けていいですか? あと、冷蔵庫も。それから、台所と洗面、それに、タオルお借りしてもいいですか? いいですねっ」


 真理愛がうなずくのを確認すると、歩夢は体温計を渡し、お湯を沸かし、かぜ薬を用意した。


 体温は三十九度六分だ。

 タオルを丁寧に洗い、しっかり絞って、ゆっくりと真理愛の額へ乗せる。


「手際がいいのね。男の子なのに」

「一人暮らしが長いもんで」

「一人暮らし? 高校生なのに?」

「いやちょっと、親は忙しいもんで」

「そっか。大変なんだね」


「もう慣れましたよ。男子高校生とは思えないほど、所帯じみちゃいましたけど」

「なんかそれってとってもいいわ。家事ができる人って、頼りになるもん。ゴホッ、ゴホッ」


 せき込む真理愛の背中をさすろうとして、慌てて手を引く歩夢。



「あの、すいません。玄関に置いてあるカギ、お借りできませんか? ちょっと買い足したいものがあるんで」

「そんな、これで十分だよ。日比野君に、わたしのウイルスがうつっちゃうよ」


「うつりたい」

「え?」


「あっ、いやっ、俺、変ですよね……。でも俺、変なことはしませんから。先輩がいやがるようなことは、決してしません。お願いです、信じてください」

「そんな、どうしたの? 日比野君。もちろん、信じてるわ。信じてる」


 真理愛先輩が、俺のことを信じるって言ってくれた!

 こんな俺のことを!


 歩夢は泣きそうになるのをグッとこらえた。

 真理愛に顔を見られないように、急いで玄関へ向かう。


「あ、日比野君お金……」


 真理愛が財布の場所を教えようとした時には、すでに歩夢は外へ飛び出していた。


 役に立てる。

 俺が真理愛先輩の役に立てる!

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