32 愛する資格
歩夢と有寿は途中何度もよろけながら、ようやく歩夢の家の前までたどり着いた。
歩夢の体調はさらに悪化し、立っているのもやっとだ。
二階への階段が、普段の何十倍も長いように感じる。
この階段を上りきれば、あたしはお兄ちゃんの家に入れるんだわ。
その希望が有寿にそれまで出したことのない力を与え、二人は見事に階段を上りきった。
達成感に包まれた有寿が、目と鼻の先にある歩夢の顔を見つめる。
しかし歩夢は、むずがゆい罪悪感を覚えながら顔をそむけた。
兄と妹の距離じゃないよな。
さすがにもう小さな子供じゃないんだから、少しは気をつけないと。
お兄ちゃんとか言われて調子に乗ってんじゃねえぞ、俺。
だが歩夢の病状悪化に気づいた有寿は、看病への意気込みをさらに増していたのだった。
「大丈夫だよお兄ちゃん。元気になるまで何日でも何週間でも、あたしがピッタリついて介抱してあげるからね」
「それはダメだ」
「なんでダメなのよ~」
歩夢は最後の力で有寿から離れ、玄関の扉に背中をつけてにおう立ちする。
「ここから先は、通さん」
「えっ、なんでそこまでかたくな? ……あのねお兄ちゃん、男の人がエッチな物を隠し持っていることくらい、あたし知ってるよ」
「あん? ……お前の想像を絶する代物だ。教育上好ましくない」
「なんかすごく興味わいてきた」
「絶対にダメ」
「そんなにエッチなの?」
「もはや犯罪だ」
「やだお兄ちゃん、そこまで追い込まれていたなんてー」
冗談ぽく話しながらも明らかに本気で心配している有寿に対し、歩夢は拝むように手を合わせた。
「お願いだから、今日のところは帰ってくれ」
「そんなに見せたくないの? そのエロいもの」
「この秘密、墓場まで持っていく」
「なんかすっごいずっごい見たいんだけどー、そこまで言うなら帰ってあげるよ~。でも次は絶対見せてね」
「考えておくよ」
「本当だよ。じゃあ、ちゃんと体休めてね」
「ありがとう。今度お礼をするよ」
有寿が階段を降りながら振り返るたびに、歩夢は顔をひきつらせて笑顔を作った。
そしてようやく有寿の姿が見えなくなってから、必死でカギを開ける。
危ねえ。
有寿にマリアを見られるところだった。
マリア以上にエロいものなんて、この地球上に存在しないからな。
一方一人駅へ向かう有寿は、厳しい目つきになっていた。
ちょっと、この何日か攻めすぎたかな。
大人になったところをアピールしたかったんだけど、かえって逆効果だったかも。
でも、あたしはもうすぐ二十歳になる。
そしたらもう、子供扱いなんかさせないんだから。
家の中に入ったとたん、歩夢はバッタリと倒れてしまった。
「マリ、ア……」
「歩夢、大丈夫? 歩夢!」
慌てたマリアが、危ういお姫様抱っこで歩夢を担ぎ上げる。
そして何度も壁や家具に衝突しながら、なんとかベッドまで運んでいった。
ベッドへ横になった歩夢は、温かな安心感が無限に広がっていくのを感じる。
やっぱり自分の家は落ち着く。
いや、この心の安らぎはマリアがいてくれるからなんだろうな。
マリアは手早くお粥を作ると、歩夢をゆっくりと抱き起こした。
お粥をフーフーしながら食べさせて、歩夢が飲み込むたびにニッコリと笑う。
お粥は刻んだネギとふっくらとした卵の入った、とても優しい味だった。
食べ終わった歩夢にかぜ薬を飲ませ、丁寧に寝かしつけるマリア。
「大丈夫よ歩夢、なにも心配いらないから。わたしが必ず助けてあげるからね」
「んん……マリア……」
マリアは意識がはっきりしない歩夢に添い寝して、体内を駆ける悪寒を温もりで塗りかえていく。
慈愛で満ちた表情で優しくなでられると、不思議と頭痛も引いていくのだった。
少しだけ眠った歩夢は、マリアがいなくなった気がしてひどく不安になる。
「マリア……マリア……」
「マリアはここにいるわ。ここにいるわよ」
歩夢の体を必死にさするマリア。
歩夢は今までに感じたことのない安ど感を覚えた。
だがしばらくして体調が回復してくると、歩夢は嵐のような罪悪感にさいなまれる。
幸福感なんて、俺が感じちゃいけないものなんじゃないのか。
マリアのおかげで喜びを得るなんて、一番あってはいけないことだ。
でもマリアとの生活は、俺自身が望んだこと。
俺がどうしてもかなえたいと願ったことだ。
俺の決意なんて、しょせんはそんなものなのか。
これじゃ真理愛さんに、顔向けできないよ。
いとおしそうに歩夢のほおに手を当てるマリア。
そんなマリアのほおに、歩夢も手を当てる。
「マリアは、本当に真理愛さんによく似ているな。真理愛さんっていうのはマリアじゃなくてね、俺が理想の女性だと思っている人だよ」
「歩夢は真理愛さんが好き。マリアわかった」
歩夢がハッとした顔をする。
マリアのほおに触れている手が、わずかに震えている。
「いや、俺には人を好きになる資格がないから」
「人を好きになるのに資格がいるの? マリアわからない」
「相手を守れない人間に付き合う資格はない。俺は真理愛さんを救えなかったから」
「歩夢は人を幸せにできる人だよ。いつか真理愛さんとお付き合いできるといいね」
「それはありえない。ありえないんだよ……」
「でもマリアはずっと歩夢のそばにいるよ。この身が壊れるまで一緒にいる。その人の代わりでもいい。他の人を好きになるまででもいい。せめて今だけでもいいから、わたしのことを愛して」
「ごめんな。俺は愛なんて持っていないんだ」
「歩夢は愛を持ってる。マリア知ってる」
マリアが知ってる愛ってなんだよ。
その愛には、どんな意味があるんだ?
愛っていうやつには、意味がなきゃいけないんだよ。
「ありがとうマリア。でもね、マリアとは一つになれないんだ。それだけは、死んでもできない」
「歩夢にとっては、マリアと愛し合わないということが、とっても大事なことなんだね……」
俺はマリアを真理愛さんの身代わりにしている。
だからマリアを抱くことは、真理愛さんに対する冒とくを意味する。
俺はあの人の身代わりを抱くわけにはいかない。
俺の人生は、あの時に決まったんだ。
俺はあの約束を、死ぬまで守らなきゃいけない。
それは俺にとって、生きていることを許される条件。
ゆっくりとうなずく歩夢を見て、ダイヤモンドのような美しい涙を流すマリア。
歩夢はマリアに背を向けるため寝返りをうつ。
しかしその手は、マリアの手をしっかりと握っていた。
手を握るのもダメですか? 真理愛さん。
でも今だけは、せめてこれぐらいは、許してください。




