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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第七の試練 俺は女神を抱くわけにはいかない
31/66

31 思い出の服

 2027年7月11日 日曜日



 早番のため五時に起床した歩夢は、自分がまだ夢を見ているのかと思った。


 薄闇の中に浮かび上がる、水色のワンピース。

 それは歩夢の心を揺さぶる、最も思い出深い服だった。


 窓から朝の光が差し込んで、夏色の服を照らしていく。

 辺りは一面の草原で、彼女は草むらを駆け回る少女だ。


「真理愛、さん」

「歩夢」


 歩夢の目の前にちらつくフラッシュバック。

 次々と真理愛が現れては、はかなく消えていく。


「真理愛さん、行かないで……マリア、ここにいてくれ」


 歩夢は夢うつつの状態で立ち上がり、マリアを静かに抱きしめる。

 胸から胸へ、鼓動が直に伝わってくる。


「歩夢、嬉しい」

 マリアが幸せそうに目を閉じる。

 まつ毛が濡れている。


「あぁ、マリア」

 歩夢がマリアの顔を見つめる。

 背中に回していた手を離す。


「ごめんね、歩夢」

「なんで、マリアが謝るの?」

「歩夢がすごく、辛そうな顔をしているから」


 歩夢はマリアの肩に手を置き、彼女の瞳をのぞき込む。

 苦しそうなのは、マリアのほうだ。


 マリアを抱きしめたい。

 一つになりたい。

 でもそれが許されないことも理解している。


 だってマリアは、俺の女神なんだから。

 俺に許されているのは、ただ崇拝することだけ。


 俺は女神を抱くわけにはいかない。


 これは試練。

 罪深い俺に与えられた、せつない罰。



「歩夢、具合が悪そう。今日はゆっくり休んで。マリアがずっとそばにいるから」

「でも、仕事に行かないと」


 仕事は逃してくれない。

 はってでも行かなくてはいけない。

 生きていくため。

 マリアとの生活を守るため。

 でも、それは言い訳だ。


 自分は今意識がもうろうとして、判断力を失っている。

 いったんマリアのもとを離れて、冷静になるべきだ。

 俺の理性が、そう命令している。



 歩夢はマリアの忠告を聞き入れず、朝の支度を続けた。


「なんともないから心配するな。行ってくる」

「行かないで歩夢っ。マリアと一緒にいてっ」


 悲痛な表情を浮かべるマリアの制止を振り切って、歩夢は家を出ていった。



 めまいを覚えながら職場にたどり着いた歩夢は、ふらつきながら業務を続けた。


「ちょっと店長代理、大丈夫なんですかっ? 体調が悪いようにしか見えないんですけどっ」

「平気だよ。ただ、もうおじいちゃんなんでね。ヨボヨボだよ、もうヨボヨボ」


 心配そうな結衣は笑わせてごまかしたが、夕方には店の奥で倒れかけ、壁にぶつかるドンッという鈍い音が店内に響き渡った。


「えっ、何事?」


 様子を探りにきた結衣から隠すように、日下部が歩夢の肩を担いで休憩室へ連れていく。


「後は俺が全部やっときますから帰ってください。今日で十九日連続勤務っすよね」

「日下部だって十二日連続だろ。いつも本当にすまないな。俺なら大丈夫。なんとかなるよ」

「なんとかなりませんよ! とっとと帰って休んでください!」

「わ、わかった。悪いな、日下部。お前も、無理すんなよ」


 日下部が初めて見せた真剣な眼差しに気おされて、歩夢は早退を決意した。


 日下部、前に言っていたな。親御さんが過労死したんだって。

 だから疲れている人を見ると、放っておけないんだろうよ。


 日下部が時間を惜しんだり、子供を作ることにやたら積極的だったりするのも、死を身近に感じているからなのかもしれないな。



 青白い顔の歩夢が、壁に手をつきながら店を出ていく。

 それに気づいた結衣が、仕事を放り出して追いかけてきた。


「ちょっと店長代理っ、全然大丈夫じゃないじゃないですかっ」

「いやちょっとカゼっぽいだけだよ。半日寝れば治るから」

「なんか死んだ人の顔になってますよっ。あたしが家まで送りますからっ」

「いやいや、死んでないし。それより設楽、まだ仕事中だろう」


「あたしも早退させてくださいっ。いいですかっ? いいですねっ」

「いやダメだって。俺がいなくても問題ないけど、設楽がいないと店が回らなくなる」

「バイト一人いなくなると回らなくなる店って、どうなんでしょうね」

「それも、そうだな」


「このまま一人で帰したら死んじゃうんじゃないかって、気になって仕事になりませんよっ」

「そうなったらそうなったでいいじゃんか。俺がこの世からいなくなったって、誰も困らないんだし」

「その俺なんかっていう言い方、やめてもらえませんかっ。大人が十代に見せるべき態度じゃないですよっ」

「ごもっともです」


「たまには人を頼ったっていいじゃないですかっ。失礼しまっす」


 結衣は強引に歩夢の右腕を引っ張り、自分の肩にかけた。

 結衣のみずみずしい肌が触れ、歩夢はわかりやすく動揺する。


「あいやっ、なにするんだよ、やめろって」


 休日のサンシャインシティは、大勢の買い物客で混雑している。

 二人のそばを通る人々のほとんどが、二人の様子に注目していた。


「あたしが店長代理の家まで……店長代理のベッドまで送り届けてあげますからっ」

「なに言ってるんだよ。店の制服じゃ目立つだろ。すげえ見られてるじゃんかぁ」

「むしろ店の宣伝になりますよっ。売り上げ倍増で出世間違いなしですっ」

「おっしゃる通りです。……ん? そうか?」



「え? お兄ちゃん? やだー! お兄ちゃんが襲われてる~!」


 結衣に抱きかかえられた歩夢を見て、悲鳴に近い声を上げたのは有寿だった。


「有寿、お前どんだけ暇なんだよ」

「誰が襲ってるってっ? 自分は店長代理のストーカーのくせにっ」

「誰がストーカーよ~。あなたこそお兄ちゃんにつきまとう悪い虫じゃないの~」


 露骨な敵意を向ける結衣に、有寿は歩夢が見たことのない強気な表情を見せた。


「店長代理、こういう粘着質の女には気をつけたほうがいいですよっ。付き合うならずっとドライな関係でいられるような、サバサバした女でないと。店長代理みたいな淡白な男の人には、そういう女のほうが向いてますって」

「なにがドライな関係よ~。そんなの深い付き合いを避けているだけじゃないの~。ちょっとお兄ちゃん、なんなのこの、大人ぶろうとして空回りしている子は~」


「あたしは大人ぶってるんじゃなくて、立場上大人になるしかないんですっ。家でも職場でもっ」

「職場については、申し訳ない……」


「そちらはいいですよねっ。いつまでも子供っぽくいられてっ」

「あのねー、わたしは立場上まだ子供でいないといけないの~。でも見た目と中身は違うんだからね~」

「お兄ちゃんお兄ちゃんって甘えてる段階で、中身も十分子供じゃないですかっ。あーいやだいやだ、かわい子ぶって男に取り入ろうとする女」


「あなたにわたしのなにがわかるのよーっ」

「そちらにこそあたしのなにがわかるんですっ」

「あのぅ、なんで二人はもめてるの?」


 女の戦いに巻き込まれた歩夢は、青ざめた顔で二人を見比べる。

 人だかりができていることに気づいて焦るが、二人を止めるだけの気力も体力もない。


「だってこの、地下アイドルをやめてセクシータレントになるような感じの子が、ひどいこと言うんだも~ん」

「そっちなんか、子役が大人になっても子役っぽいまま、みたいな顔してるくせにっ」


「この顔のどこが……あれれ? お兄ちゃん、顔がゾンビになってるよ」

「なんだよ、二人そろって俺を殺すなよ」


 とりあえず静かにしてくれないかな、と歩夢は切に願う。

 早くマリアの待つ家に帰って休みたい。


「お兄ちゃん具合が悪いみたいだから、あたしが朝までつきっきりでお世話してあげるね~」

「いいえ、あたしが部下として上司の面倒をきっちりみますのでご心配なくっ」

「いえいえ~、赤の他人なんかよりもー、身内同然のあたしのほうがいいに決まってるんだからー、どうぞお構いなく~」

「いいやここはあたしがっ」

「いえいえあたしが~」


 小柄な有寿が歩夢の左脇にもぐり込み、足を踏ん張って支える。

 有寿の体はマシュマロのように柔らかくて、触れているとムニュムニュしていて心地よい。


 きらめくような女子大生と女子高生に腕を組まれた歩夢に、たくさんの男性がせんぼうの眼差しを送っている。

 しかし両側から引っ張られ右に左に大きく揺さぶられる歩夢は、乗り物酔いのようなめまいを覚えていた。


 なんか女の子に挟まれて、いい気分のような、悪い気分のような……。

 ううっ、やっぱ、気持ち悪い……。


「そんなに揺らさないでくれ。ちょっと、吐き気が……」

「あっ、すいません店長代理っ」

「あたしそんなつもりじゃ……ごめんなさい、お兄ちゃん」



 大勢の野次馬たちが見守る中、三人は息の合わない二人三脚を始める。

 狭いエスカレーターに長い階段、もはや言い合っている余裕などない。

 そうして三人は、なんとか東池袋駅の改札までたどり着く。


「おかげ様で地下鉄に乗れるよ。ありがとう設楽。もう店にもどってくれ」

「でもこの人に店長代理を任せるなんて、あたし納得いきませんっ」

「あたしはあなたがここまでついてきたことが納得いかないわ~」


「君たちの論争は論点がまったくもって不明だけど、設楽はひとまずひいてくれ。有寿にもすぐに帰ってもらうから」

「そういうことなら、あたしは仕事に戻ります。店長代理、今日はしっかり休んでくださいね。一人っきりでっ」


 有寿を威嚇するようににらみながら階段を上る結衣。

 結衣に向かって伸ばせるだけ舌を出す有寿。


「べーだ」


「有寿も、もう帰っていいから」

「そんな死にそうな顔をしたお兄ちゃんを、放っておけるわけないじゃない。いいからあたしにつかまって」


「だからもういいって。人が見てるだろ」

「あたし、人の目なんか気にしないもん。お兄ちゃん以外の人なんか、あたしにとってはどうでもいいんだから」


「お前、なんか最近おかしいって。毎日店に来るし、バイトの子に敵意むき出しだし」

「あ、ごめんなさい。あたし、迷惑なんだね……」


 わかりやすく落ち込んでしまった有寿を、冷たく突き放せる歩夢ではなかった。

 吐き気をこらえながら、笑顔の仮面をかぶるしかない。


「そんなことないよ。そこまで言ってくれるなら、家の前まで付き合ってもらおうかな」

「やった。あたしに任せて、お兄ちゃん」


 やる気満々の子供は、一段とかわいく見えるものだ。

 歩夢は今にも吐きそうな顔色のまま、本物の笑顔になる。

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