29 戻ってきた夏
2015年9月12日 土曜日
長くて短い夏休みが終わり、二学期が始まった。
だが真理愛には会えない日々が続いた。
それでも歩夢の心は、常に真理愛で満ちていた。
彼女が好きだと言っていた音楽を聴き、泣けると語った映画で泣いた。
彼女の歩いた道を歩き、触った物に触れた。
震える手で、ノートに彼女の名前を書いては消した。
まぶたを閉じれば真理愛が見えた。
彼女との会話を妄想した。
彼女が夢に出た朝は、幸福感に包まれた。
けれど目が覚めてしまえば、破滅的な孤独感に襲われた。
真理愛の幻ばかり追いかけていると、彼女の存在は次第に現実感を伴わないものになっていった。
手に届かないからこそ、彼女の存在は大きく、美しくなっていく。
そんな歩夢の日常をかき乱す事態が起こった。
去ったはずの夏を引き戻すような強烈な西日が差し込む部室に、真理愛が飛び込んできたのだ。
歩夢はおびえるように驚き、挨拶の言葉さえ出てこない。
「みんなー、お祭りに行こうよ~。季節を感じるのも、地学部の大事な活動よ~」
今日は高校に近い長崎神社で祭りが催される。
歓声を上げて賛同する部員たちの中で、歩夢は一人迷っていた。
真理愛と一緒にいるのが、怖くてしかたなかった。
「皆の者、出陣じゃー。ほらぁ、日比野君もついてまいれー」
「あ……ぎょ、御意っ」
真理愛を先頭に、電車のように連れ立って行進していく地学部員たち。
その光景を、部活を終えた明差陽が見つめていた。
友人たちに別れを告げ、一人駅に向かってダッシュしていく。
あれ? なんであたし、走ってんの?
よくわかんないけど、とにかく急がなきゃ。
長崎神社の例大祭は、豊島区内の数ある祭りの中でも出店の数が多いことで知られる。
狭い通り道に屋台がびっしりと並び、人出が多いため行き来がしづらい。
歩夢は真理愛だけは見失うまいと必死についていった。
もみくちゃになりながら真理愛の指示する食べ物を買い、みんなで食べる場所を探して誘導する。
「お祭りと言えばやっぱりソースせんべいよねー。……えっ、宝蔵院さん食べたことないの? 日比野君、ソースせんべいを探すのよ!」
「御意っ」
「お好み焼きとたこ焼きを食べたら、次は甘いものよねー。わたあめとー、りんご飴とー、チョコバナナも買ってきて~、日比野君」
「ぎょ、御意……」
歩夢は食べている間、真理愛の口元ばかり気にしていた。
小さい口に食べ物が次々と吸い込まれていくのが、超常現象のように感じられる。
あんなに食べるのに、なんでやせてんだろ。
なんか、栄養が足りてないように見えるんだよな。
はしゃいではいるけど、ちょっとやけになってるような気もするし。
少し広い場所に、浴衣姿の明差陽がいた。
周囲を見回しながら、一人立ちすくんでいる。
人込みの中に歩夢の姿を見つけると、魔王の城から救い出された姫のようなホッとした表情になった。
「日比野!」
明差陽は朝顔が描かれた白地の浴衣で、髪には赤い髪飾りをつけている。
着物の立ち姿では自慢のスタイルが目立たないが、かわいらしさは破壊力抜群だ。
明差陽はいったん自宅へ帰り、わざわざ浴衣に着替えてきたのだった。
勝負服だと思っている浴衣がなぜ今夜必要なのか、自分に説明できないまま。
「えっ、仲間? お前どうしたんだ? 彼氏とはぐれたのか?」
「彼氏なんていないし。一人で来たの。悪い?」
マジかっ。
こいつって彼氏いなかったの?
いつもチヤホヤされてモテまくってるから、彼氏くらい何人かいると思ってた。
「日比野君のお友達? じゃあ一緒に遊びましょう」
「ではお言葉に甘えて」
「ええっ、そうなのぅ?」
なんなんだこの異様な状況は。
そして俺は、なんでこんなに困ってるんだ?
真理愛と明差陽に挟まれて、歩夢はなにも話せない。
周囲の男たちがどんなにうらやましがっても、その幸運を味わう余裕はまったくなかった。
「おい日比野-っ。お前我が校一のセックスシンボルと仲良かったのか~っ?」
歩夢を引き寄せてささやいた境は、尋ねているというよりは責めていた。
「いや中学の時塾が同じだったっていうだけですよ。全然仲良くなんかないですから」
境は歩夢の首を絞めて振りながら、「今夜のおかずは決まったな」とつぶやいた。
「仲間さんてほんとかわいいね。浴衣すっごく似合ってるわ。わたしも着たかったなー」
「ありがとうございます。OGの高良先輩、ですよね? 高良先輩こそ美人で有名ですよ。男子たちがあんなお姉さんと付き合ってみたいって言ってました」
「ウッソ~。わたしが男の子だったら、絶対仲間さんと付き合いたいけどなー」
しかし歩夢の視線は、紫色のシャツにジーパンといういで立ちの真理愛に釘付けだった。
明差陽は自分のほうを向こうとしない歩夢をにらんで、ほおをふくらませている。
「高良先輩はきれいだしもう大人なんだから、当然彼氏くらいいるんですよね」
明差陽が真理愛に放った断定的な質問に、歩夢は不意打ちをくらったような思いがした。
えっ、そんなこと、考えもしなかった。
いるはずないって、思い込んでた……。
「いないいない~。わたしそういうの、苦手だからー」
そうだ。
この人が彼氏なんか作るはずないんだよ。
そういう俗っぽいこととは無縁の人だ。
「そんな、その年で男と付き合うの苦手とか言います?」
「男の人といるの面倒で。なんか男の人が怖いんだよね」
「男が怖いなんて、それまじめに言ってるんですか? 大人の女が言うことじゃないですよね」
バカだな仲間。
この人は男ってものを軽蔑してるんだ。
お前とは人間の種類が違うんだよっ。
「日比野~、お前ばっかりいい思いしてないで、ちょっとこっち来いよ~」
境が女性陣にいいところを見せようと、黒部と歩夢を誘って射的を始める。
宝蔵院は必死の男性陣を至近距離からからかっていたが、真理愛と明差陽は少し離れて話を続けていた。
「ところで仲間さんって、日比野君と仲がいいんだね」
「そんなことないですよ。前に塾が同じで、今はクラスが同じっていうだけです。むしろ、お互い嫌ってるし」
「あれあれ~、日比野君に会いに来たのかと思ったんだけどなー」
「ち、違います。あんなの、眼中にないですよ。あたし、男には困ってないんで」
「うわ~、異性のことで悩まないなんて、うらやましいな~。でも眼中にない男子を相手にしてあげるなんて、仲間さんて優しいのね」
「あんなやつ相手にしてない……というか、されてない、というか……」
「だけどホッとしたよー。だって日比野君、クラスでは浮いてるって自分で言ってたから」
「浮きまくってますよ。でもそんなの今に始まったことじゃ……」
明差陽は口をつぐんでちゅうちょしていたが、首をかしげている真理愛を見て口を開いた。
「あたしが中学の時、あたしの母親が女性と手をつないでいるところを見られて……」
そこまで言うと、明差陽は真理愛の表情を確かめた。
真理愛は驚きもせず、「うんうん」と言いながらうなずいている。
「あたしの母親は同性愛者で、女性のパートナーと同居してて、二人は子供を欲しがったんです。それでパートナーが知り合いの男性から精子を提供してもらって、母親は体外受精で妊娠しました。そうして生まれたのがあたしです」
真理愛はやはり平然と相づちを入れている。
明差陽は少し悔しそうに話を続ける。
「中学の時母親の同性愛がバレて、通ってた塾で話題にされたんです。そしたら普段無口なあいつが、『恋愛なんか遺伝子に命令されてるだけなんだ。大部分の人は遺伝子に異性を好きになれって命令されるけど、一部の人はそうじゃない。ただそれだけのことだろ。そんなつまんない話より、俺のことをネタにしたほうが盛り上がるんじゃねえの』って、言ってくれたんです」
「そっか~。それでその後、どうなったの?」
「おかげで話題がそれて、わたしはいじめを受けずに済みました。でもあいつは当時、悪い噂を流されて大変だったんです。それなのにあいつ、学校でも近所でも自分から噂に触れて、噂はみんな本当ですとか言っちゃって、自分へのバッシングをたきつけたんですよ」
「そうだったんだ。日比野君、きっと精一杯がんばったのね。仲間さんのために」
「だから絶対好きにはならないけど、まあ信用はしてるかな」
「だけど信用って、恋愛の基礎だと思うけどな~」
「信用なんかで恋に落ちませんよ。あたしはいつかイケメンの玉の輿を捕まえてやるんです」
「ご両親に強く望まれてこの世に生を受けたんだもん。意地でも幸せにならないといけないね」
真理愛が希望をふんだんに詰め込んだ笑顔を明差陽に送る。
明差陽は緊張の糸が切れたように表情をゆるませた。
あたし、この人には勝てないかも。
なんか純粋さが強情なんだもん。
あいつとこの人って、きっと同じ国の住人なんだわ。
射的のほうは、極度に緊張した男子三人は一つも命中せず、割り込んだ宝蔵院の圧勝に終わった。