25 舞い降りた天使
2015年8月12日 水曜日
夏休みに入ると、歩夢は成増のハンバーガー屋でアルバイトを始めた。
親から受け取る生活費だけでは、服を買うこともままならないからだ。
中学時代の夏休みは、毎日一人でゲームをしていただけだった。
だがこの夏の予定は、バイトと部活で埋められている。
駅前でビラ配りをしていた歩夢を、小さな女の子がじっと見つめていた。
一学期の終業式の後、公園で歩夢が助けようとした女の子だ。
両親の命令で成増の学習塾へ通わされていた女の子は、うまくビラを渡せないでいる歩夢を見かけ、目が離せなくなっていた。
無言で通行人に近寄っては邪険にされる姿が、自分と重なるのだ。
しかし歩夢が自分の方へ振り向くと、女の子は慌てて去っていく。
女の子と入れ替わりで現れたのは明差陽だ。
明差陽の住所は練馬区小竹町、最寄り駅は小竹向原だが、中学から通っている塾が成増にあった。
短パンから伸びる健康的な美脚に、周囲の人々は釘付けになっている。
次から次へと男が声をかけてくるが、明差陽の目には歩夢しか映っていない。
「そんな消極的な渡し方じゃ、誰も受け取ってくれないよ」
「うわっ、お前か。なんでここにいるんだよ」
「あんたがやめた塾、あたしはまだ通ってるって言ったでしょ。なんかやたらどんくさいビラ配りがいると思ったら、日比野だし」
「はいはい、なんとでも言ってくれ。どうせ俺はビラさえ受け取ってもらえない、つまはじき者ですよ」
「なんだったら、あたしが手本を見せてあげようか? この前ビラ配りをやったら、あっという間になくなっちゃったけど」
「自慢かよ。いいからさっさと消えてくれ」
「ま、知り合いに見られていたら働きづらいよね。かわいそうだから消えてあげる。じゃあね」
フィギュアスケート並みのスピードできびすを返した明差陽は、少しだけほおをふくらませている。
あいつって、表面と中身が違いすぎるんだよね。
あぁなんか、あいつを変えてやりたくてしかたない。
なんでこう、あいつのことが気になるのかな。
なんかムカつくっ。
夏の風のように去っていく明差陽。
その躍動感のある動きを目で追いながら、歩夢は思う。
そりゃああいつなら、なにをやってもうまくいくんだろうよ。
うまくいかなきゃいけねえんだ、あいつは。
にしても、エロい体だな……。
アルバイトは常に忙しかったが、その時間は歩夢にとっていい気分転換になっていた。
暇になると、歩夢はどっぷりと思索にふけってしまうのだ。
歩夢は朝も、昼も、夜も、ただひたすら真理愛のことを考えていた。
記憶も、思考も、感覚も、すべて真理愛一色だ。
一人でいても真理愛の姿を思い浮かべないのは、自慰行為の時ぐらい。
あの人は、そういうことに使っちゃいけない。
そういう種類の人じゃないんだ。
夏休みの間も、地学部の部員は交代で登校し観測を行う。
それに夏合宿の準備もあった。
合宿のメインは、富士山五合目でのペルセウス座流星群の観測だ。
真理愛も夕方から合流すると知らされた歩夢は、知った日から合宿までの十日間、緊張しっぱなしとなった。
鏡を見る時間が百倍以上に増え、髪型を入念に検討する。
もともと前髪は長めにしてるけど、さらに伸ばしてクールな感じにしよう。
なで肩が目立たないように、姿勢には常に注意しないとな。
待ち遠しかった初めての給料は、服と整髪料の購入に消えている。
そしてこの日、地学部最大のイベントが開始された。
バスで五合目に到着した部員と小平先生は、レストランで早めの夕食を取る。
全員が食事を済ませると、小平先生の説明が始まった。
「少しだけおさらいをしておきますよ。流星とは、流星物質が地球の大気に衝突して発光したものでしたね。流星物質とは、すい星あるいは小惑星が太陽に近づいた時に放出するチリや小石などで、元になったすい星や小惑星と同じ軌道で太陽の周りを公転しています」
小平先生はきまじめを絵に描いたような教師だ。
大部分の生徒からは授業がつまらないと不評だが、口ぶりからは地学に対する熱意が伝わってくる。
「流星群とは、放射点を中心に放射状に出現する一群の流星のことでしたね。今夜観測するペルセウス座流星群の母天体は、スイフト・タットルすい星。毎年この時期に出現する、最もポピュラーな流星群です。先生も毎年楽しみでね」
トイレ休憩となり、レストランの前で再度集合することになった。
だが歩夢はいつまでも、トイレの鏡の前で長い前髪を直していた。
集合時間になり、心配した黒部が歩夢を呼びにやってくる。
「ひ、日比野君、集合に遅れちゃうよ。急いで急いで」
「うるせえなあ。お前は先に行ってろよ」
外に出ると、強風で髪型はグチャグチャに乱れた。
集合場所にはもう真理愛が来ている。
またも名前入りのジャージ姿だ。
出遅れたために、他の部員たちと話し込む真理愛に近づくことすらできない。
歩夢は唇をとがらせ、一人あらぬ方向を眺めている。
「黒部君の装備完璧だね~。その帽子かっこいいな~」
「い、いや、先輩、か、かっこいいだなんてぇ」
おい黒部、お前が真理愛先輩としゃべってんじゃねえよ。
自分の身分をわきまえろってんだよ。
誰も俺を輪の中に入れてくれない。
うまくいかねえなあ。
なにもかも、うまくいかねえ。
境と宝蔵院が歩夢をチラチラ見ながら待っていることに、歩夢は気づいていない。
地学部一行はしばらく登山道を登り、頭上に放射点のある北東側の斜面に陣取った。
富士山の五合目は夏でも夜は冷え込む。
観測中は寝袋に入り、徹夜で夜空を凝視し続け、流星を見つけたら天体図に時間・長さ・明るさ・色などを書き込んでいかなければならない。
観測の準備が開始され、各自が思い思いに寝袋を置く場所を決めていく。
歩夢は思い切って真理愛の近くに陣取ることができず、二人の位置は少々離れてしまった。
その距離は地球と月ぐらいに、歩夢には感じられる。
観測開始まではまだ少し時間があった。
部員たちが談笑する声が、歩夢の耳に流れてくる。
「黒部は男ばかりの三兄弟の末っ子なのか~。それじゃ生の女の子になかなか慣れないのも無理はないな~」
「部長が生という単語を使うと、ひわいな話にしか聞こえませんが」
「俺はひわいなことしか言わないよ~。宝蔵院はよく知っているじゃないかー」
「一応部長なんですから、少しぐらいは品位ってものを持ってもらえませんか」
「と、ところで宝蔵院先輩は、名前からして武家の血筋なんですか? け、剣とか槍とかの、名門の家柄とか」
「いや、うちは代々農家だ。名字は先祖が適当につけただけだと聞いている」
「なんだよー、ただの農家なのか~」
「違います。由緒正しい農家です」
「それってメチャクチャ農家だってことじゃねえかよ~」
「農家が一番平和的で最高なんですっ」
「そうね。宝蔵院さんの言う通りよ。農家最高~、農作物最高~」
歩夢は彼らの笑い声が、自分とは無関係なものに思えてならない。
近頃は彼らとの距離が縮まったと感じる時もあるのだが、うまく交われないととたんに自信を失ってしまう。
歩夢は一人持ち場を離れ、誰もいない岩肌に腰を下ろした。
空には雲一つない。
標高二千三百メートルで見る満天の星空には、かつて歩夢が一人で通ったプラネタリウムでさえかなわない数の星が瞬いていた。
その壮大な輝きの洪水は、都会に暮らす者を圧倒する。
この広い宇宙で、俺は一人ぼっちだ。
家族も、友達も、みんな俺の前からいなくなっていった。
あいつらだって、絶対そうなるに決まってる。
子供の頃から感じている途方もないむなしさが、今もまた全身に染み渡る。
自分の体が、このまま先の見えない闇の底に沈んでしまいそうだ。
その時、天使が舞い降りた。
いつの間にか隣に、真理愛が座っている。
真理愛は無言で、ただそばにいるだけだ。
歩夢がそっとのぞき見ると、真理愛はわずかに首をかしげ、視線が斜め下に泳いでいく。
真理愛が首を傾けると、たれ目がさらにたれて見えるのだった。
俺は、なにか言うべきなのかな。
いや、今はなにも言いたくない。
夜空の星って、地球の近くにあるように見えて、実際には何光年も離れているんだよな。
でもそれだって、宇宙全体の大きさからみれば、近いとも言える。
結局遠いのかな。近いのかな。
それは、自分の考え方一つでどうにでもなる。
ですよね、真理愛先輩。
「生き物が死ぬと星になるって、信じる?」
真理愛が星空を眺めながらつぶやいた。
月明かりが白い肌を優しく照らしていた。
「生き物は死ぬと自然に帰って、星も死んでチリになって、それらが巡り巡って集まって、新しい星ができる。死んだら星になるって、科学的な真実だと思います」
真理愛は、一人宇宙空間を漂流しているところを助けられたような顔をしている。
歩夢は、この世で最も美しいものを知った。
あなたは生きながら輝く星です。
近くて遠い。明るくて暗い。穏やかで激しい。
あっ、流れ星。
たくさん降るって聞いてはいたけど、流れ星って本当にあるんだな。
でも早すぎて、願い事を言う暇なんてないじゃん。
あっ、真理愛先輩と……違う違う。
あっ、真理愛先輩が幸せになりますように……やっぱ間に合わねえな。
でも、たくさんの星さんたち。
真理愛先輩は、真理愛先輩だけは、幸せにしてあげてくれ。