22 おびえる二人
歩夢は真理愛にどういう態度を取ればいいのか迷っていた。
けれど真理愛の関心は、いつの間にかネコに移っている。
「その子ネコ、なんか病気っぽいね」
「やっぱり、そうですよね」
「日比野君は、その子をどうしたいの?」
「見捨てます」
「そっかー。どうしていいかわからないんだね」
「助けないってことは決まってるんですよ。俺んちでは飼えないんで」
「うちのアパートも飼えないのよね。じゃあせめて、ミルクだけでも飲ませてあげよっか」
真理愛はペットショップで子ネコ用のミルクを買ってくると、自分の胸に押し当てた。
「人肌くらいの温度がいいのかなと思って」
「いいかも、しれませんね……」
歩夢はだらしなく口を開け、真理愛の胸に抱かれた紙パックに羨望の眼差しを送る。
真理愛はまぶたを閉じた子ネコの口にミルクを注いだ紙の皿を近づけ、なめさせようとした。
子ネコは依然として元気はないが、少しは飲んでくれたようだ。
歩夢は反応の鈍い子ネコと、心配そうな真理愛の表情、それに水色のワンピースから出ている白い足首を、順番に見つめていく。
突然真理愛が振り返り、慌てて視線をそらす歩夢。
「今助けても、かえって残酷なだけかな」
「助からないとしても、なるべく楽にしてやりたいです。しょせんは自己満足ですが」
子ネコをなでている細くて白い指を、歩夢は芸術作品だと思いながら見とれる。
「あ、日比野君、ウェットティッシュだったら持ってるよ」
真理愛が差し出したウェットティッシュで手を拭くと、歩夢は子ネコの頭をなでた。
歩夢と子ネコの組み合わせを眺める真理愛は、たれ目がさらにたれて顔から落ちてしまいそうだった。
「かわいそうに。世界中の不幸を全部、一人で背負っちゃったのね」
歩夢は思い悩んだ末に持っていたノートをちぎり、「どなたか、この子ネコを助けてあげてください」と書いて置いた。
「俺は、子ネコ一匹救えない。いや、救おうとする気持ちがない」
「わたしも立派にはなれない人間なんだわ。残念な自分を受け入れるのって、辛いわよね。自分の弱さに気づいているだけでも、日比野君は偉いわ。日比野君って、いい人だよね」
歩夢のこめかみが引きつる。
その表情は、恐縮よりも恐怖を示していた。
「俺にそういう言葉を使わないでください。せっかくのきれいな言葉が腐ってしまいます」
「わたしには日比野君が、仙人の生き残りにしか見えないんだけどなー」
「俺は……俺は先輩を……いやらしい目で見ていたんです」
わずかに震える真理愛。
おびえていることを隠すのは、難しいことだった。
だがおびえているのは、真理愛だけではなかった。
みるみる青ざめていく歩夢の顔を見ると、真理愛の表情が次第にやわらいでいく。
「そんなこと言う男の子、珍しいね。人と違うってことは、いいことだと思うけど」
「俺は汚れた人間です。まともな人間じゃないんです」
真理愛の顔が曇る。
しかし真理愛は強引に、表情を晴れやかな笑みで上書きした。
「そんな言い方しないの。でもそういうことを言う人には、弱っている人の気持ちがわかるんだろうな」
「人の気持ちなんてわかりたくもない。死にそうなネコを見ても、むなしいとしか感じないし」
「命を終える者もいる。だからこそ、生きることのできる者は精一杯生きないといけないわ」
「生きることは、義務なんですか?」
「そうね。生きることは、この世に生を受けた者の使命よ。だから生きているだけで目標達成。わたしの生きがいは生きることです。なんちゃって」
歩夢と真理愛はそろって苦笑いをした。
相手がなにかを抱えていることを漠然と感じながら。
歩夢と真理愛は、二人並んで子ネコを見守っていた。
そうしているうちに、夕陽の色が濃くなってくる。
茜色に染まった真理愛の横顔を、そっと盗み見る歩夢。
真理愛が腕時計に視線を落とす。
歩夢の胸がざわめく。
こめかみに銃を突きつけられているような気分になる。
「日比野君、そろそろ帰ろっか」
恐れていた言葉が歩夢の耳を貫いた。
だが幸い、真理愛は同じ沿線だ。
歩夢が下車する地下鉄赤塚駅までは一緒にいられる。
でも、俺なんかがこの人のそばにいていいのか?
この人と一秒でも長く一緒にいたいなんて、思っちゃいけないんじゃないのか。
「俺、もう少しここにいます……」
「そっか。じゃあ、またね」
あぁ、あの人が行っちゃう。
でも、今ならまだ追いつける。
だけどこれ以上、あの人を汚染したらいけないし。
俺はいったい、どうしたいんだ?
もう自分でも、よくわからない。
歩夢が頭の中でなにを考えようと、足を動かさなければ真理愛との距離は離れていく。
真理愛が角を曲がれば、視界から消えてしまう。
これでいいんだ。
他に俺の進むべき道はない。
歩夢は真理愛の姿が消えた方向をずっと眺めていた。
頭の中では、彼女の気配がいつまでも消えてくれないから。
「日比野って、動物苦手なんじゃなかったっけ?」
不意に声をかけてきたのは明差陽だった。
いぶかしげな眼で歩夢を見ている。
「うっ、なんだお前か。外で俺なんかと話してるの誰かに見られたら、学校で袋だたきにあうよ」
「そんなの平気だよ。日比野って、なんでそんなに卑屈なの? もう昔のことなんて忘れなよ」
「お前こそ、人のこととやかく言ってる場合か? 聞きたくなくてもお前の噂が耳に入ってくるんだよ。たくさんの男の名前と一緒にな。お前さあ、いったい何人の男と付き合ってるんだよ」
「あんたが人の噂信じる? あたしはあんたと違ってうまくやるからご心配なく」
「あのな、男は本能に命令されて女に手を出してるだけなんだぞ。男の欲望なんかに負けるなよ」
「出たよそのつまんない理屈。そんなの本人の気持ちの問題じゃん」
歩夢は両手を腰に当て、色が暗くなってきた空を見上げた。
「あー、お前と議論したってしょうがねえか。ところでお前、いつから見てたんだ?」
「さっきの人、卒業生なんでしょ。男子たちがきれいな女の人が来てるって騒いでた。あんたにどうにかできるとでも思ってんの? 大人と子供じゃん」
「関係ねえよ。付き合えるかどうかって言う前に、そもそも俺は女なんか好きにならねえ」
「あんたもしょせんオスなんだよ。いくら本能に逆らったって、恋に落ちる時は落ちるんだから」
「性欲がもたらす恋なんか、クソくらえだっ。俺は本能を超える。超えてみせる」
あきれる明差陽には構わず、歩夢は沈みゆく太陽を見送る。
ふと、子ネコと目が合った気がした。
寂しくなんか、ないよな。