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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第四の試練 俺は子ネコちゃんを抱くわけにはいかない
21/66

21 はがれた仮面

 2015年7月25日 土曜日



 終業式の日。

 教室でお互いの通知表を見せ合う生徒たち。


 歩夢が自分の成績を無感情のまま眺めていると、横から明差陽がのぞき込んできた。

 明差陽はその数値の低さに驚く。

 中学の時、偏差値が自分よりも高かったのを知っていたからだ。


「あんたさあ、教師に態度悪すぎるのよ。そんなんじゃ一生損しまくるよ」


 だが歩夢が気にしているのは、明差陽の白い夏服に透けて見えるブラジャーのラインだ。


「成績なんかどうでもいいし。目立つとろくなことはねえからな」

「ちょっと、その教科書、見せて」


 歩夢がスポーツバッグにしまおうとした教科書を、明差陽が素早く取り上げる。

 ページをめくると、黒く塗り潰されたり無残に破れたりしていた。

 無くなっている教科書もある。


「高校生になってまだこんなことされてるの? なにされても怒らないからいけないんじゃない?」

「怒る? 俺が怒りをぶつける対象は自分だけだ。世界は俺中心に回っているからな」


「一生言ってなよ。二学期からは、あたしが教科書借りてきてあげるから」

「本当におせっかいなやつだな。放っといてくれってあれほど言ったじゃねえか」

「放っておかないよ。意地でも放っといてやるもんですか」


 二人はにらみ合っているが、空気は和やかだ。



 鮮やかな雲。そよ風の調べ。笑顔の香り。

 今日は空気が甘いな。

 あぁ、世界は美しい。


 通学路はレッドカーペット。学校は劇場。教室は舞台。

 カラスもネズミもゴキブリも、みんなミュージカルスターだ。

 このぶんだと、世界から戦争も飢餓もなくなるかもしれないな。


 心が躍る日々が続いた。

 踊り疲れて息が切れるような、苦しい日々だった。


 放課後になると毎日、歩夢は真理愛が来ていないかと、常に辺りを見回している。

 とはいえOGの真理愛は、小平先生に用事がある時ぐらいしか来校しない。



 ところがその日、部室に入った歩夢は突然胸に痛みを感じた。

 ついに真理愛が現れたからだ。


 ようやく待ち望んでいた対面だが、いざとなると声がかけられない。

 話すことは頭の中で何度もシミュレーションしていたのに、挨拶以外なに一つ口から出てこない。

 それに真理愛とばかり話をすれば、他の部員たちに彼女への気持ちを誤解される恐れもある。


「今回も素晴らしい成績だわ。でも宝蔵院さん、数学の成績がちょっと下がっちゃったわね」

「面目次第もございません。わたくし腹を切っておわびいたします」

「女性がお腹を切っていいのは、緊急時の帝王切開とか、やむをえない手術の時だけよ」


 真理愛はずっと宝蔵院と話し込んでいるため、話しかけるきっかけが得られない。

 体の中がグツグツと煮えるような気分のまま、無情にも部活の時間は終了する。



 歩夢は後ろ髪を引かれる思いで部室を去り、一人寂しく要町駅までの道を進んだ。

 街を歩いていると、髪の長い女性がみんな真理愛に見えてきて、思わず振り返ってしまう。


 なんかそこら中にあの人がいるような気がする。

 俺、どうしちゃったんだ?

 頭がおかしくなったのかな。



 歩夢が公園の前を通ると、小さな女の子のすすり泣く声が聞こえてきた。

 見た目は幼稚園児だが、黒いランドセルを背負っている。

 丸顔で髪はボサボサ、黄色い服は泥で汚れていた。


 歩夢はそのまま通り過ぎようとしたが、その子の様子が気になってしかたない。

 ふいに目が合って、思わず声をかけてしまう。


「おいお前、親はどこだ? ん? そのネコはどうしたんだ」


 しゃがんでいる女の子の前に、茶色い子ネコがうずくまっていた。

 まぶたを閉じて震えている。


「死ぬ。死ぬぅ。死んじゃうぅ。この、子が、死んじゃう。死んじゃうよぉ」


 女の子は必死で話そうとしているが、どうもうまく話せないようだ。


「なんか、病気みたいだな。飼い主か、親ネコはいないのか?」

「ひぃ、一人ぼっちぃ。あたしと、おんなじぃ」


 歩夢は子ネコに触れようとするが、思い切って触ることができない。

 周囲を見回して、子ネコを見て、また周囲を見渡す。



「ちょっと! うちの子に話しかけないでよ! 警察呼ぶわよ!」

「えっ、いや、俺はべつに……」


 かんしゃくを起こしながら猛然と近づいてきた女性が、いやがる子供の手を強引に引っ張った。

 小さな娘はすがるような目つきで、歩夢のことを見つめている。


「そんな、母親なら子供に乱暴なことしないでくださいよ」

「なんなのよガキのくせに! あっ、お巡りさん助けてください! この人変態なんです!」


「なに! そこの君、ちょっと交番まで来なさい!」

「うわっ、痛い痛いっ」


 歩夢は駆けつけた若い男の警官に、いきなり取り押さえられてしまった。


「ほんと、腹の立つ子っ」


 母親は泣き叫ぶ娘の首根っこをつかむと、逃げるように去っていった。

 歩夢は警官と激しくもみ合いながら、小さな娘の背中をじっと見送っていた。


「抵抗するな! おとなしくしろ!」

「お巡りさんさあ、俺なんかを捕まえるより、他にもっとやるべきことがあるんじゃないですか?」

「黙れ! 口答えするな!」


 あーあ、これで俺は前科者かぁ。

 名実共に悪人ってわけだな。

 ま、どうでもいいか。

 俺がどうなろうと、俺にはどうでもいいことだ。



「日比野君! どうしたの!」


 歩夢が聞き覚えのある声に驚いて振り返ると、そこには顔を青くした真理愛が立っていた。

 歩夢は人生で最も立場を悪くした状況を、よりによって真理愛に見られてしまった不運を呪う。


「なんでもないです。俺がロリコンの変質者だってバレただけで」

「お前、やっぱり変質者だったんだな!」

「もう、日比野君ったら! お巡りさん、この子は決して悪い子じゃありません!」


 歩夢は真理愛が自分をかばってくれたことよりも、子供扱いされたことが気になる。


「ちなみに俺を刑務所に入れると、刑務所が汚染されてしまいますけど構わないですか?」

「なんだこいつ、頭おかしいのか?」

「この子は天文学的に不器用なだけで、本当はすごく正義感が強い子なんです!」


 真理愛は歩夢を羽交い締めにした警官の腕をつかみ、全力で引っ張っていた。

 けれど体格のいい警官はびくともしない。


「この子を傷つけたら、わたし訴えますよ! 署名運動して、弁護士雇って、最高裁まで戦いますから!」

「うるさいっ。本官に逆らうと、君も公務執行妨害で逮捕するぞ!」

「構いません! 殺人罪でも、強制わいせつ罪でも、好きな罪名で逮捕してください! わたし絶対泣き寝入りしませんから! 必ずこの子の潔白を証明しますから!」


 真理愛の言葉は、警官よりも歩夢に対して効果的だった。

 真理愛のためなら、言いたくないことを言ってもいいと思わせたのだ。


「あー先輩、わかりましたよ。あのお巡りさん、俺が悪かったです。すいませんでしたー」

「やっとわかったのか! 初めから素直に謝ればいいものをっ」


「この子のことを理解していただき、心から感謝いたします」

「本官はなにも、見逃してやるとは言ってないぞ」


「お巡りさんはこの子が善人だと見抜いているはずです。見てください、このピュアな瞳を」

「そうかぁ? 死んだ魚のような目をしてるけどな」

「いいえお巡りさんには、この子の目の奥にあるイノセントな心が見えているはずです」


 ジタバタもがく歩夢をねじ伏せることに集中していた警官は、あらためて真理愛の顔を見た。


「んっ、そう言う君の瞳がきれいすぎる……。まあ今日のところは、彼女に免じて許してやるか」


 警官は乱暴に歩夢を突き放すと、ばつが悪そうに去っていった。



「あー怖かったっ。日比野君が死刑にならなくて良かったよぉ」

「そんな大げさな。高良先輩、なんでわざわざ面倒に巻き込まれるような真似するんですか」


「だって、日比野君がかっこよく子供を助けてるところ、見ちゃったんだもん」

「いや、助けようとなんか、してないですよ」


 真理愛はいたずらをする子供のような表情で、歩夢の顔をのぞき込んだ。


「仮面をはがされると困るんだ~。本性がバレるの怖いんだな~」

「そんなことないですって」


「日比野君は、追い詰められれば追い詰められるほど自分を悪く言っちゃうところ、直さないとね」

「なに、言ってるんですか」


 歩夢は怒ろうとした。

 文句を言ってやろうとした。

 だがその時の歩夢は、人に悪意を向ける方法を忘れていた。


 分厚い仮面がはがれ落ちた顔を、甘酸っぱい風が優しくはたいていく。

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