2 突然の幸運
歩夢は地下鉄成増駅で下車し、スーパーで半額になった弁当を買う。
自宅は駅から徒歩十五分。
住所は板橋区だが、走れば十秒で埼玉県だ。
築五十年の三階建てマンション。
外壁がところどころはがれているが放置されている。
歩夢は照明が点滅している三階に上がり、外よりも暗い玄関に入った。
明かりは二回フェイントを入れてからつく。
1LDKの間取りは、家具が少ないおかげで一人には十分の広さ。
絵も花もない殺風景な部屋。壁は薄汚れた白。家具は黒で統一。
リビングの中央には、三人掛けのソファが置かれている。
だが彼以外の人間が座ったことは一度もない。
彼がこの家に引っ越してから、丸五年になる。
シャツとスラックスを脱ぎ捨て、落ちていた短パンを拾ってはく歩夢。
レンジで温めたせいで米がカピカピになったのり弁を食べ、ビールの代わりに炭酸水を飲む。
音楽も映像も流れず、聞こえるのは吹きすさぶ風の音だけ。
歩夢が風呂を沸かそうとして立ち上がった。
その時だ。
運命の電話が鳴り響いたのは。
どうせ宣伝だろ。
知り合いからの電話を期待しても、たいていは裏切られる。
だから歩夢は居留守を使う。
ところが留守電の応答メッセージが流れても、電話が切れる気配はない。
もっとも、メッセージを残すご丁寧な宣伝だってある。
歩夢は気にしないつもりでも、つい聞き耳を立ててしまう。
「日比野歩夢様のお宅で、間違いございませんでしょうか」
やっぱり宣伝か。
わかってはいたけど。
しかし電話をかけてきた女性は、続けて意外な言葉を発した。
「日比野歩夢様にどーしてもお伝えしたいことがございます。居留守なんかやめて、電話に出ていただけませんでしょうか~」
歩夢は慌てて周囲を見回した。
すべての窓がグレーの遮光カーテンでおおわれている。
誰かに見られているはずはない。
「日比野さーん。歩夢さーん。電話に出ましょうよー。出ないと大損しますよ~」
「はい。あっ、しまったっ」
なんで出ちまったんだ俺。
寂しいなんて、ちっとも思っていないのに。
「あーっ、日比野歩夢さんですよねっ。良かったー、電話に出てくれてー」
「間に合ってます」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「なんですか。いらないって言ってるじゃないですか」
「あの、なんか誤解されてません? 話を聞けば、絶対欲しくなりますから」
「やっぱり売り込みじゃないですか。なにも買いませんって」
「いえいえお代は一切いただきませんので、安月給でも問題ありません」
安月給って、なんで知ってるんだよ。
まあ、声が貧乏そうなのかもしれないけど。
「日比野さん、あなたはチョ~ラッキーです。あなたは見事、当選されましたー」
「そういう言い方するインチキ商法ありますよね。そういうの、俺引っかかりませんから」
「疑っている場合じゃないんですよー。賞品を聞いたらビックリしますよっ。当選したのはなんと、本物のアンドロイド一体です」
「はぁ? アンドロイドだぁ? どこの誰だか知りませんが、あなたなに言ってるんですか。もう切りますよ」
「あーっ、ごめんなさい。つい興奮して名乗るのを忘れていました。私『株式会社マザーリリス』の谷中薫子と申します」
「マザー、リリス?」
「弊社のこと、聞いたことありませんか? 最新鋭のアンドロイド『マイドール』を製造している会社です。今年の初めに販売を開始した時は、結構話題になったんですけどねー」
その会社名なら、ネットで見た覚えがある。
国、大学、メーカーが一丸となってロボット開発に取り組み、家庭用の高性能アンドロイドを開発した。
その製造と販売を担っているのが、成長著しいベンチャー企業マザーリリス。
そのアンドロイドがあまりに人間そっくりだと注目を集めたが、値段が高すぎてよっぽどの金持ちしか買えない、とかなんとか。
「知ってはいますが、そんなの申し込んだ覚え、ないですよ」
「日比野さんがお使いのクレジットカードで、申し込み不要のキャンペーンをやっているじゃないですかー。その特賞が、弊社のアンドロイドだった、というわけなんです」
「ちょっと、確認させてもらいます」
「どうぞどうぞ。わたし信用されてねー」
歩夢はスマートフォンを手に取り、自分が加入しているカード会社のサイトを開いた。
「ん? これか。年に一度の大抽選会、特賞は最新のアンドロイド一体……カード会員は申し込み不要で自動エントリー……」
「確認されました? やりましたね~」
「いりません」
「今、なんと?」
「そんなのもらっても、どうしていいかわかりません。それにオプションは別料金とか、月々の費用がかかるとか、どうせあるんですよね」
「もちろんあの手この手でお金を払わせていますが、今回だけは特別に、そういうの一切合切まとめて弊社が負担させていただきます。まさに至れり尽くせり。ヒューヒュ~」
「そんなの、話がうますぎるでしょ」
「実は弊社自慢のマイドール、出来がいいわりに売れ行きがいまいちでして。まずは利用者数を増やして、評判を上げたいと考えておりましてね。でないと、このプロジェクトが暗礁に……」
「それってアンケートに協力しろってこと? なんか面倒そうなんで、遠慮しときます」
「日比野っさーん、今回ご提供する『マイドールATZ108』、買ったらいくらすると思います? 定価七千九百八十万円ですよ」
「七千九百八十万? なっ、七千九百八十万!」
そんな額、百歳まで働いても貯められねえぞ。
「日比野さぁん、それでも権利放棄されますぅ?」
「なんか、信じられなくて。タダより高いものはないって言うでしょ」
「お話ごもっともです。そこでまずは弊社にお越しいただいて、説明を聞いていただいて、ご納得されてからお受け取りいただくってことでいかがでしょうか」
「なんか、怪しいんだよなあ。俺の勘がやめとけってささやいてる」
「それで、ご来社はいつになさいます? 場所は丸の内です。土日でも遅い時間でも構いませんから」
「あの、人の話聞いてます? まあいいや。わかりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」
「賢明なご判断ですぅ」
「ええと、明日も早番だから、早ければ夜七時くらいに行けると思いますけど」
普段は慎重すぎるほど慎重な歩夢が、突然の幸運を信じてしまったのには訳があった。
今日は、彼の誕生日だったのだ。
歩夢の毎日は、動画を繰り返し再生しているかのように似ている。
唯一の楽しみは、MMORPG「ファイナルヒロイン」で敵を無双すること。
彼が「マリア」と名付けた美少女戦士が、自分より大きな両手剣を振り回し、無数の敵をなぎ倒していく。
エネルギーが充填されると背後に流れ星が通り、声優の声で決めゼリフが発せられる。
「我は、君だけの女神になろう」
マリアの戦闘服がピンクからゴールドへ変化し、戦闘力が一分間三倍となる。
この瞬間こそ、彼にとって至福の時だ。
「行けマリア! 俺のマリア!」