14 押された背中
「今日の発表、しんどかったなー」
歩夢の視線にまったく気づかない真理愛は、明差陽を見つめたまま独り言のようにつぶやいた。
「大学院ってそんなに大変なんですか? 自分の好きなことができて、うらやましいですよ」
「それがそううまく行かないのよぉ。組織って結局、人間関係だから。わたし人付き合いが下手で、周りの人たちとうまくやれないの」
「先輩が、ですか? 地学部ではいつも楽しそうじゃないですか。学生の頃はすごい人気者だったって、先生から聞きましたよ」
「べつに人気者ではなかったけど、部員のみんなが味方でいてくれたの。毎日が充実してたなあ。辛いこともあったけど、それでも楽しかった」
「今は研究者として、がんばってるんじゃないんですか?」
「がんばってない。わたし全然がんばれてない。研究は好きだけど、研究機関には向いていないのかも。それでも続けているのは、やっぱり好きなことをしていたいから、なんだけど」
「だったら研究は趣味にして、別のことをやればいいじゃないですか。例えば結婚する、とか」
「結婚なんて、相撲よりも向いてないわ。子供は欲しいけど、結婚はしたくないかな。第一わたしと一生一緒にいてくれる男の人なんて、世界中探しても見つからないだろうし」
それは謙遜しすぎだろ。
自己評価低っ。
「先輩は俺と違って、誰とでもうまくやれそうに見えますけどね」
「そんなことないわ。わたしって究極のわがまま女なのよ。たとえ夫がいても子供ができても、自分の好きなことばっかりやっちゃうに決まってるから」
「それでなんの問題があるんですか? やりたいことを諦めて家族に尽くしても、家族にとってはかえって迷惑ですよ。自分のせいで不幸にしたって考えちゃうじゃないですか」
「そうなんだよね。人に合わせると、自分が自分じゃなくなりそうで怖いし。日比野君とわたしって、どこか似てるのかもね」
俺と似てるなんて、そんな言葉受け取るだけでも罪になる。
心の中の良心が、そう主張している。
「どこが似てるんですか。全然似てないですよ。一つも似てない」
「ごめんなさい。失礼だったわね。わたしなんかと似てるなんて」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
あなたは俺にないものをたくさん持っているじゃないか。
俺とは真逆の人間なんだよ。
「わたしは地学部にいると楽だからたまに逃げてくるんだけど、日比野君は合わないと思いながらがまんして続けてるんだもん。それってすごいことだと思うよ」
「いや、ほめられるようなことなんか、なにも……」
「わたしも、もっとがんばらないとな。日比野君やあの女の子みたいに。飛んでっ……飛んだわっ。新しい人類の誕生よ!」
多分この人はこの人なりに、必死にもがいているんだろうな。
なのに俺は、逃げてばっかりだ。
たかが部活ぐらい、とりあえずやめないでおくか。
歩夢は真理愛の後に続いて部室へ向かった。
彼女の髪と腰と脚を眺めながら。
そういえば俺、なんであんなに話せたんだろ。
女の人と会話するの、すごく苦手なのに。
あの人がずっと年上で、普段は会わない卒業生で、女の人だって意識する必要がないからかな。
真理愛が部室に入ったとたん、部員たちから喜びの声がわき上がる。
歩夢は話を切り出すタイミングを失い、一人離れた所で棒立ちになるしかなかった。
「日比野君、こっちこっち」
真理愛がなんでも許してくれそうな笑顔で呼んでいる。
歩夢は今なら言えそうな気がした。
「あの俺……熟慮の結果一応形式上は正式に入部するという正当な手続きをまっとうに完了することが立場上当然の義務であるという結論に到達し……でも反対する人が一人でもいるようなら……」
歩夢が全部言い終わる前に、部員たちから一斉に歓声があがった。
「ヤッホーイ! 日比野が俺たちの仲間になってくれたー。もうとっくに仲間だったけどな~」
「わたしにはこの結果が見えていた。ちなみにこの部には、退部という制度は存在しない。ここは地学部という名の底なし沼。一度はまれば二度と抜け出せんぞ。クックックッ」
笑いが止まらない先輩たち。
だが一番嬉しそうなのは、しきりにまばたきを繰り返す黒部だった。
「よ、良かった。う、嬉しいなぁ」
なんなんだこの反応。
部員が一人増えるくらいで、なにがそんなに嬉しいんだ?
安どしたような笑みの真理愛は、もともと下がっている目尻がさらに下がっている。
「正式な部員になったからには、日比野君のやりたいことをどんどん提案していってね」
「そんな、いきなり提案しろとか言われても……」
「そういえば、宇宙論をやりたいとか言ってたよな~。研究して成果を発表してくれよ~」
「日比野君らしいスケールの大きなテーマね。日比野君の話って、すっごく面白そうだし」
歩夢は猛烈なスピードで恥ずかしくなっていった。
ドロドロした後悔で胸が詰まる。
「いや……あの時は見栄を張っただけで、実は全然詳しくないんです。偉そうに話して、すいませんでした……」
「なにかに興味を持てるってことは、それだけで十分才能があるってことなのよ。人に教えることは自分自身の勉強にもなるから、みんなの肩を借りてその才能を伸ばすといいわ」
「俺は人に説明するのが苦手なんです。緊張してかみまくって失敗するに決まってますよ」
「わたしは努力する者をバカにしたりはしない。そんな不届き者は、ここには一人もいない」
「宝蔵院の言う通り。ここには変わり者しかいないから、なにをやらかしても平気だぞ~」
「部長と一緒にされるのは心外だが、もはや恥ずかしいという感情を失ってしまったのは事実だな」
笑っていないのは歩夢だけだった。
中学時代いやがらせで学級委員にされた時以来の重圧だ。
「学校は練習する場所。だからいくら失敗してもいいの。下ばかり見てないで、前へ進めー」
「痛っ。なにするんですかっ」
突然真理愛に背中をたたかれ、うろたえる歩夢。
こんなに腕細いのに、意外に痛かったんだけど……。
でもたたかれたことを暴力だと感じなかったのは、生まれて初めてかも。
小平先生が現れ、真理愛は部室を後にした。
それまでの中身が圧縮されたような時間、歩夢は体全体が心臓になったように感じていた。
あの人といると、どうも調子が狂うな。
力が湧いてきて、なんでもできそうな気がする。
背中を押されて……というより背中をたたかれて、らしくないことまでやるはめになっちまった。
半月後、真理愛は不在だったものの、歩夢はなんとか無事に発表を終わらせたのだった。