11 大人の色気
2027年7月6日 火曜日
「あなた、起きて」
遠くのほうから、あの人の声がこだましている。
甘酸っぱくてほろ苦い味がする。
なんか昨日、あの人が家に来た夢を見たような……。
「え? えーっ!」
歩夢は目を覚ますと同時に、目の前にいた女性の姿に驚いた。
ベッドから飛び起きるほどに。
「なんでOLが俺んちに?」
縁の赤いメガネ、黒いジャケット、フリル付きの白いブラウス。タイトな黒のミニスカートに、黒の網タイツ、そして真っ赤なハイヒール。
いつも通勤の途中で羨望の眼差しを投げかける対象。
自分とは決してベクトルが重なることのない存在。
その名はセクシーOL。
「マリア? 昨日ここに来たマリアなんだよな? どうしたんだその格好はっ」
「未成年だと淫行になるから、マリア大人の女になってみた」
「いや、そうだけど、そうじゃない」
マリアがよろけながらソファに腰かけ、おもむろに足を組む。
そしてすぐに組み替える。
歩夢のムスコが起床する。
慌てて押さえつけるが、なかなか静まってくれない。
「ちょっと、なんで家の中で靴履いてんのっ」
「安心して。これはSMプレイ用の室内履きよ」
「あのねえ、朝からなに言ってんの?」
「SMプレイは夜にするのね。マリア覚えたわ」
「夜でもやらないから。よくMっぽいって言われるけど、決してMじゃないからっ」
「歩夢の欲望はMでいっぱいだから、決死のMプレイをするのね。マリア覚えたわ」
「間違い方が強引すぎるだろ。とにかく家の中でハイヒールはないって」
「SMプレイは屋外でするものなのね。マリア覚えたわ」
「あーもーっ、相変わらず話通じねえなあ。いいから靴を脱げーっ」
ようやく指示を理解したマリアは、片足ずつひざを曲げ、ぎこちない動きでハイヒールを脱いでいった。
歩夢はパンツが見えたらどうしようと心配しながら、その様子をガン見している。
「歩夢は、マリアのパンツが見たいのかしら」
「そのさあ、察知する能力が高すぎるの、なんとかならないかなー」
「パンツ見ようとしてるの気づいちゃダメなのね。マリア覚えておくわ」
「あ、の、な~」
マザーリリスの人たち、まさか会話まで聞いてるってことはないだろうなあ。
マリアはOLの格好のままエプロンをして、目玉焼きとハム、トーストと野菜ジュースの朝食を作った。
形は整っているが、全体的に調味料の使いすぎ。
歩夢が渋い顔で上を向くと、しわくちゃだったワイシャツがアイロンがけされて壁に掛けられていた。
なんだこのシチュエーションは。
新婚家庭かよ。共稼ぎかよ。
「なんか服装変わったら、キャラまで変わってないか?」
「昨日のマリアと今日のマリア、どっちのマリアが食べたい?」
「セーラー服も似合ってたし、タイトスカートに網タイツもエロいよなぁ……ってそんなこと考えてる時間はないっ。早く行かないと」
「歩夢は早くいっちゃう。マリア把握したわ」
「そんなことはない……わからないけど……って変なことを言うなっ」
マリアを数十回チラ見しながら、ようやく朝の支度を終えた歩夢。
「あなた、ちょっと待って」
マリアは新妻のようにゆるんだネクタイを締め直してくれるのだが、力の微妙な加減がわからないらしい。
歩夢は首を絞められもがき苦しむ。
「うぐっ……おい、殺す気かっ。もういいからっ」
「そんなに照れなくてもいいのに。歩夢ってやっぱりマゾヒストなのね。マリア確認したわ」
「なんで苦しがってるのが照れてるように見えるんだよ。肝心なところは鈍感なんだからなあ」
「マリア、歩夢の職場までついていっちゃおうかしら」
「はぁ? 冗談じゃないよ。いいか、俺はマリアが人に見られると困るんだ。だからくれぐれも家の外には出るなよ。ピンポンが鳴っても電話が鳴っても出ちゃダメだ。万が一人に見つかったら、なにも言うななにもするななんの反応も見せるな。これはオーナー命令だ。わかったなっ」
「マリアは日陰の身。ただ体をもてあそばれるだけの関係。マリア理解したわ」
「不倫相手みたいなことを言うなー。とにかく人に見られるのはマズいんだよ」
「歩夢はマリアを独り占めしたいのね。そういうことなら、マリア気をつけるわ」
「なんか都合のいい解釈されてるけど、気をつけてくれるならなんでもいいや。じゃあ行ってきます」
「いってらっしゃい、ア・ナ・タッ」
歩夢の高校時代の希望進路は、宇宙物理学あるいは天体物理学を学べる理系の学部に入学することだった。
しかし高三の時成績が急降下し、受験に対する意欲も失ってしまう。
そこで入学してから楽そうな文系の学部に志望を変え、結局二流大学の法学部政治学科へ進学した。
大学院へ進学して学者になるという夢も、とっくに諦めている。
そんな彼の就職先は、弱小ハンバーガーチェーン「スターバーガー」。
歩夢は就職するまで光が丘に住んでいたが、そこから歩いていける成増にも店舗があり、高一から大学卒業までアルバイトをしていた。
就職活動で一社も内定を取れなかったため、バイトからそのまま正社員に。
ネットではブラック企業だとたたかれていたが、「スター」という名称だから「まあいいか」と思って就職を決めた。
配属先であるサンシャインシティ店では、三ヶ月前に店長がうつ病になってドロップアウトしたため、歩夢が平社員の給料のまま店長代理となっている。
店は地下にあるため窓がなく、壁や天井には宇宙の絵。
テーブル六つとカウンターで客席三十六。
営業中のスタッフは社員一~二名、バイト二~三名。
制服は、男性が濃紺のシャツとスラックス。
女性は真っ赤なシャツとひざ上五センチスカート。
社員は絶えず店内の状況を監視し、その合間に在庫管理、勤怠管理、経理業務なども行う。
バイトが足りない時は、自ら接客や調理もしなければならない。
時々本社に呼び出されたり、眠いだけの研修に行かされたり。
早番なら出勤は朝七時、遅番なら終業は夜零時を過ぎる。
記録上は九時間勤務だが、平均三時間のサービス残業がある。
休日は月に二日あればいいほう。
混雑するランチタイムとディナータイム。バイトの少ない午前中と夜。切れる食材。故障する機械。客のクレーム。無断で休むバイト。
今日も仕事は激務だ。
だがこの日、歩夢が就業中に考えることはほぼすべて、マリアのことだった。
マリアのセクシーポーズを思い出すたびにムスコが反乱を起こすので、書類の束を置いたり、冷蔵庫の角に押しつけたりして、うまくごまかさなくてはいけない。
昨日の夜からほとんどムスコが立ちっぱなしだ。
これじゃ中高生と同じだな。
男の本能は女性の胸やお尻の膨らみ方で、子供をたくさん産めるかどうか判断する。
だけどいくら見た目が女性だからって、子供を作れないアンドロイドに性欲を感じるなんて、俺はオスとしてポンコツだな。
それにしてもこの下半身、バイトの子に見られたら最悪。
瞬く間にネットのえじきだ。
「ちょっと店長代理っ、なにボーッとしてるんですかっ」
「わっ、すいません」
高校三年生にしてバイトリーダーの設楽結衣は、なまけている者を見つければ社員でも堂々としかりつける。
高校生にしては大人びていて、ルックスもスタイルもモデル並み。
大きな瞳には気の強さが表れているが、その視線は常に柔らかい。
「またまた~。お客様ったら、からかわないでくださいよ~」
どこにいても目立つ結衣はよく客にナンパされるが、相手の機嫌を損ねないように軽やかに断るのがうまい。
こんな時給の安いバイトをやるよりアイドルでも目指せばいいのに、と歩夢は常日頃思っている。
仕事が終わり、休憩室へ向かう結衣。
それに気づいた歩夢は、事務作業をいったん止める。
「設楽、お疲れ様。今日もありがとう」
「あ、はい。お先に失礼します」
感謝の気持ちは言葉にする。
歩夢が常日頃から心がけていることだ。