10 特別な人
歩夢は髪の長い女性の姿が頭を離れず、しばらく夢遊病者のようにさまよっていた。
生徒じゃない。
教師にも見えない。
幽霊?
なんか都市伝説的なやつ?
ようやく地学実験室の前にたどり着く。
中から部員たちの明るい声が響いてくる。
扉を開けると、歩夢は透明な壁に衝突したように立ち止まった。
野花を愛でていた女性が、そこにいる。
目尻を下げながら、宝蔵院に向かって笑いかけている。
その甘美で幼児性のある声は、天使の歌声を連想させた。
「遅かったな日比野。こちらはOGの高良真理愛先輩だ」
なんだ、ただの人間だったのか。
そりゃあ、そうだよな。
「はじめまして。高良真理愛です」
今、俺に言ったのか?
なんなんだ、このくすぐったい感覚は。
ささやくような声が、頭の奥まで響いてくる。
「あれ? さっき会ったよね」
なんかとろんとした目で、俺を見ている。
なんとなく眺めているのか、じっと凝視しているのかよくわからない。
とにかく返事をしなきゃ。
声を出せ、声を。
「はい、いえ、どうも……」
「日比野~、高良先輩が美人なんで緊張してるなー。まあ男としては当然の反応だけどな~」
「美人だなんて、わたし初めて言われたわ」
「真理愛先輩はそういう言葉が頭に入らないみたいですけど、どう見てもお人形さんにしか見えませんよ」
「あら、宝蔵院さんのほうがお人形さんっぽくてかわいいのに」
「こいつはせいぜいこけしでしょ~。なんか呪いが込められてるやつ~」
「部長、ほんと斬りますよ」
歩夢は楽しそうに笑う部員たちが、はるか遠くにいるような気がした。
「ねえ、日比野君」
優しくほおをなでるような呼び声が、さまよう歩夢の心を引き戻す。
「晴れと雨、どっちが好き?」
真理愛の表情が天真爛漫な幼稚園児になっている。
どうやらまじめに聞いているらしい。
「うわー、始まったよ~、高良先輩の質問攻め」
境の言葉に、宝蔵院もほくそ笑みながらうなずく。
「曇りですね。天気の中心に位置するものです」
歩夢はひどく混乱したまま、反射的に答えていた。
「じゃあ、イヌとネコ、どっちが好き?」
「育てるなら木ですね。動物はすぐ死ぬから嫌いです」
「この二人って会話がかみ合っているんだろうか。わたしにはわからん」
宝蔵院が笑いながらあきれている。
だが真理愛は、真剣に歩夢の様子を観察していた。
「そっかぁ。ところで、体ってなんでかゆくなるのかなぁ?」
「自分の体を破壊したいという衝動が、抑えきれずに漏れ出ているからです」
「いやいや、かゆみは皮膚に付いた異物を取り除けと脳が命令しているだけだろう」
宝蔵院のツッコミに、歩夢は無表情のまま答える。
「傷を悪化させるまでかきむしってしまうのは、自己破壊衝動以外の何物でもありません」
「そうなんだぁ。そしたら、宇宙ってなんで黒いんだっけ?」
「心に闇を抱えたやつが、マイナスオーラをまき散らしているんです」
「貴様はこの前、夜が暗いのは宇宙が有限である証拠だって言ってたじゃないか」
「この宇宙が有限だと思うと、俺は目の前真っ暗ですよ」
「それが日比野君の答えなんだね。では、日比野君にとって人生とはなに?」
「一言で言えば、体と心が枯れて朽ちていくのをただじっと待っていることです」
「おいおい、貴様のその、若者らしい悲観的な考え方、なんとかならないのか」
「わたしはなんとなくわかるけどな~。わたしまだ若いってことかしら」
「高良先輩、日比野がいっぱいいっぱいですって顔になってますよー。いいか日比野。高良先輩は筋金入りの不思議ちゃんだから、あんまり考えすぎるなよ~」
「不思議ちゃんの定義がよくわからないわ。この年でちゃん付けは嬉しいけど」
なんだろう。
この人の笑顔って、ちょっと憂いを帯びてる気がするけど、やたらリアルだな。
「ねえ日比野君、地学部は楽しい?」
「やってることが地味でつまらないですね」
「お前なあ、相変わらずはっきり言ってくれちゃうね~」
「ここが自分の居場所だと思えないの?」
「俺はここにいるような男じゃない。もっと大きなことをやるべき人間なんだっ」
歩夢はそう言い放った後ですかさず下を向いた。
真理愛の表情に一瞬影が差したが、歩夢に顔を近づけると下からのぞき込んでいった。
歩夢は自分の裸を見られているようで恥ずかしい。
「なんか、痛そう」
歩夢は同情されていると感じた。
だから反抗的な態度を取らなければならないと思った。
けれど攻撃的な言葉は、口から出ていこうとはしない。
「もしかして日比野君は、世界を良くしたくって悩んでるのかな」
「なんですかそれ。ガキじゃあるまいし」
そうだ。ガキの頃はできるって信じてた。
そうでもしないと、この世界にいちゃいけないって思ったから。
でも今は、そんなの無理だってわかってる。
「ねえ日比野君。原子核の周囲を回る電子と太陽の周りを公転する惑星、なんか似てるって思わない? 大きいとか小さいとかって、なんなのかしらね」
「形が似ていても、価値の違いは歴然としてるじゃないですか」
「例えば拾った石の中に小さな化石が見つかって、それが新種の恐竜だとわかる時もあるのよ」
「そういう地味な作業って、やりたい人がやればいいんじゃないですかね」
「わたしは地道な作業、大好きよ。小さいことと大きなことは、つながってるって思うから」
「理想論ですね。でも立派すぎる正論は空論に近づくものですよ。そもそも俺は、世間の常識に合わせられない人間ですから」
「常識? 他人がどう思うかなんて、どーでもいいわ!」
意外にも勇ましく響いた声に、歩夢はたじろいだ。
それはまさしく、大群を一人で蹴散らす英雄の雄たけびだった。
「それは暴論ですよ。世間の掟に従わない者は、存在することさえ認めてもらえない」
「誰かの命令に従うより、自分の気持ちに正直に生きるほうが、自分の居場所とか、共感できる相手とか、見つかるかもしれないよ」
「そこまで楽観的でいられるって、先輩ってきっと恵まれた人生を送ってきたんでしょうね。でも俺には無理ですよ。十五年も生きてきたのに、楽しい記憶なんか一つもないんですから」
「それが本当なら、日比野君は生きているだけでチョー楽しいはずだわ」
「生きているだけで楽しい? この俺が?」
「楽しいことばっかりだった人は楽しいことに慣れちゃうけど、楽しいことがなかった人はなにをやっても新鮮で、毎日がドキドキの連続なわけじゃない」
希望に満ちた未来の押し売りはやめてくれ。
おっとりした見た目のわりには面倒臭い人だな。
「わたしは死ぬまでわがままに生きたいわ。でなきゃたった一度の人生、もったいないもん」
この人、なんでこんなに目が輝いているんだろう。
キラキラしていて、目が痛いや。
「あ、先生、ごぶさたしております」
「やあ高良君。よく来たね」
地学部の顧問である地学教師、小平善行先生が現れた。
定年まであと三年の、小柄で人の良い教師だ。
真理愛は小平先生に用事があって訪れたらしい。
小平先生に招かれ、真理愛が地学準備室へ入っていく。
長い黒髪と足首まであるスカートのすそが、歩みに合わせて踊るように揺れている。
その姿が目に焼き付き、残像が脳にこびり付いて、歩夢は気になってしかたなかった。
あの人、他の誰とも違っているな。
なにがどう違うのかよくわからないけど、なんか特別な人って感じがする。