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「独身主義じゃないから素敵な人がいたらちゃんと結婚するって」

「俺の頭がまともな間に見つけろ。でないと、騙されても見定めてやれん」

「もう」

「バカ者。家を持っている娘なんぞ、いいカモだろうが」

「だからぁ、わかってるって!」


 言ってから手で口を押えた。ここは介護施設だ。大勢の人がいる。いかに個室でも大声はご法度だし、なにより恥ずかしい。


「おじいちゃんにとっては、私はいつまでも小さな子どもなんだろうけど、もう二十五ですからね。大学も出て、立派な社会人ですからね。大人の扱いしてもらいたいわよ。私の心配は無用。自分の心配をして。あ、そうだ」


 多希は今頃になって持参した土産のことを思いだし、机に置いた。


「マドレーヌ焼いたのよ。味見してもらおうと思ってね」

「味見?」


「そうよ。おじいちゃんのマドレーヌ、ちゃんと再現できてるか見てもらおうと思って。勘違いしないでね、孫としては、家族が大事にしてきたものを失いたくないだけだから」


「…………」


「将来、私に家族ができて、子どもに恵まれたら伝えたいじゃない。だったら師匠から合格点をもらわないと」


 本当のことだ。ただ、別の真実を伝えていないだけだ。


 多希はわずかな罪悪感を覚えながらも、もう一つの真実を口にはせず、持参したマドレーヌを差しだした。


「オーブンの調子が悪いだろう」

「ホントよ。だからキッチンのオーブンで焼いたから」

「……そうか」


 大喜はマドレーヌに手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めてしまった。


「おじいちゃん?」

「悪いが、腹が減っていない。あとで食べる」

「えーーー」

「食べたら感想を送るから」

「そう? 絶対よ?」

「ああ」


 なんだか急に元気がなくなってしまったように思うのだが。多希は大喜の顔を覗き込み、それから雑誌に視線をやった。


 一緒にやろうよ――とても言えない。


 言葉をなくし、多希はしばらく無言で窓から見える澄んだ空を見つめた。だが、いつまでもこうしてもいられず、立ち上がった。


「そろそろ帰るわ。また来るね」

「ああ。わざわざ、ありがとう」

「どういたしまして」


 ニッコリと微笑み、戸口へ向かう。


「じゃあね」


 大喜が軽く手を挙げている。多希は戸を閉めようとして、もう一度大喜を見た。すると、完全に締まる前、隙間から見える大喜がマドレーヌに手を伸ばしている。


(おじいちゃん?)


 食べるのかと思いきや、大喜はあいている手を顔にやっている。

 泣いているように見えたが、気のせいだろうか?


(まさかね)


 逆光だったのでよくわからない。角度的に、そんなふうに見えただけだろう。泣くような難しい話はしていない。


 施設を出ると、多希は大きく深呼吸をしてから歩きだした。


 家に帰ると、店の前には数名の常連客がいた。全員六十代以上の男ばかりだ。


「やあ、多希ちゃん、おかえり」

「大喜さん、元気だったか?」

「そりゃあもう。でもみなさんは、ここでなにを?」


 すると常連客たちは困ったように笑い声を上げた。


「明日が待ちきれなくてねぇ」

「そうそう。多希ちゃん、ちゃんとやれるのかなぁとか」

「えーー! やれますい! 失礼な」

「悪い悪い。やっぱり心配でなぁ」

「俺ら、多希ちゃんが小学生の時から知ってるもんで」

「俺なんてウバウバ言ってた時から知ってらぁ」


 さすが常連だ。こっちが恥ずかしくなるようなネタで競っている。


「でもまぁ、俺らも変なヤツが来たら追っ払ってやるけど、ライナスさんがいるから大丈夫だろうなぁ」

「そうそう。それにしても、多希ちゃん、どこであんないい男を捕まえてきたんだ」


 恥ずかしい話に拍車がかかっている。


「外国のことはよく知らねぇけど、あの人、だいぶ育ちがいいんじゃないかな。なんたってこう……なんていうか……上品、っての?」

「スマートだよなぁ」

「顔もいいしなぁ」


 はははー! と笑いあっている。多希は恥ずかしすぎて顔から火を噴きそうだった。


 ライナスがいい男なのは認めるところだが。


(みんなが言いたいことはわかってる。だけど、私たち、そういう関係じゃないから。一番合ってる表現は、保護者、だから)


 とはいえ、心配のあまりフライングしてきた常連客を無下にはできないと思い、多希は店の扉を開けて、みなに声をかけた。


「再開は明日からだけど、みなさんにはプレオープンってことで、コーヒーをご馳走します。どうぞ」

「そうか?」

「実は期待してたんだ」


 おのおのそんなことを言いながら店に入っていく。そしてみな馴染んだ自分のお気に入りの席に腰を下ろした。


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