岩の腕のティラニウス 終
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青白い燐光が夜闇に淡く舞い散る中、その男は立っていた。
灰色の短髪は逆立ち、毛の一本一本まで闘志が満ち溢れている。
鍛え抜かれた逞しい体躯は、激情を宿して震えていた。
コート状の白い法衣が微風に靡く様は、白い炎にも見えようか。
右手には短いメイス、左手にはひしゃげた盾。
両足を肩幅ほどに開き、砂地を踏みしめ、頑として不動であった。
眼前に立つ大岩のような巨漢に、不退転と確固不抜を示していた。
背後には、腕を折られ、流れた涙もいまだ乾かぬ年若き少女。
身に纏った白い法衣で、背後の少女を隠すように立っている。
何があろうと一歩も退かぬと、その背中が言っている。
相手は常人の五割増しもの背丈に、大人二人分はある肩幅であった。
その丸太の如き両腕は、古代の邪法で肘から先が【岩】と化している。
盾にも槌にもなるそれは、岩の重量と硬度を備えていた。
街の支配者の一人である。
恐ろしき怪力と暴力の権化である。
決して逆らってはならない存在である。
それでもなお、その男───ヴァレンは立ち塞がっていた。
彼の背後で、その少女───シェリーは立ち尽くしていた。
彼女は驚愕に目を見開いている。
ヴァレンは見た事の無い表情をしていた。
表情の作り方を忘れた男だと思っていた。
出会ってたった一日半だが、こんな顔は見た事が無かった。
……赫怒だ。
これは怒りの表情だ。
街で過ごした一日半を思い出しながら、シェリーは何故か確信していた。
この破戒神官は、瞋恚の炎を胸に宿し、人ならぬ魔と化しているのだ、と。
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ヴァレンは突然歩き出した。もう待てぬと言わんばかりに。
ざくざくと砂を鳴らし、大股で、ずかずかと無遠慮に。
「なに考えてんだ、おまえ───」
呆れながらも放たれる超重量の右拳。
人の頭など赤瓜を割り砕くが如く破砕し得る超暴力。
振るった風圧だけで立木が揺れるその豪腕。
直接当てればへし折ることも可能だろう。
人骨など盾ごと破壊してのける一撃。ティラニウスは有効打を確信した。
たとえ防ごうとも腕一本を吹き飛ばし、続く左の拳で終わりかねない。
そのあとは【安心】の時間だ。そんな思惑があった。
「───っんん!?」
しかし、あるはずの手応えは無く、空を切った自慢の剛拳。
しかも外した勢いなのか、つんのめって転倒しかける無様さまで晒して。
羞恥と怒りで顔面への血流を感じつつも、踏ん張って二撃目の左拳を放とうとした時、ティラニウスは己の右脇腹で発生した衝撃に苦悶の声を漏らした。
「ぬぐぉッ!?!?」
硬い……固い何かが激突した。
ティラニウスの分厚い筋肉など無きもののように浸透した衝撃。
臓腑を捏ねくり回すような、呼吸困難を伴う痛みに暫時悶絶する。
メイスではない。当たった物体はメイスの突起よりも大きい。
いまだ触れているその【何か】の正体や如何に。
そんな考えに至る時間すら無く。
「うぇぼぁッッ……ッ?!」
再び同じ場所に突き刺さった……そう、貫通したと錯覚するほどの、脇腹から臓腑へ、臓腑から背中へと、突き抜けていったかのような重い衝撃。
たまらず膝から崩れ落ちるティラニウス。
しかしヴァレンは、己の目前に倒れることすら許さなかった。
「……」
突き放すような前蹴りでティラニウスの胸板を蹴っ飛ばす。
「ぅぇっ……!」
結果、ティラニウスは吐瀉物を撒き散らしながら仰向けに倒れ伏した。
それでも臓腑を抜けた苦しみは残り続けているのだろう。
すぐに背中を丸めて悶え始めた。
メイスと盾はいつの間にか道端に転がっていた。
最初の一撃を捌く直前、投げ捨てていたのだ。
この一連の流れを、シェリーは驚愕の中で確と見た。
強烈無比な打撃力を成さしめた、その技術は理解し切れなかった。
だが客観的に見られた故に、その動きだけは把握できた。
───ティラニウスが右拳を放った。ヴァレンはメイスを投げ捨てた。
───ヴァレンは左足でやや外側へ踏み込む。盾すら捨てた。そして。
───ティラニウスの右拳を己の左掌で押し流すように逸らした。
───間髪入れずに右足の踏み込み。同時に放たれるヴァレンの右拳。
───ティラニウスの右腕に隠れるようにして、右脇腹に命中。
───脇腹に右拳を押し当てたまま、踏み込みも突き出しも無い全身運動。
───その押し当てた右拳から発生した、一撃目に匹敵する衝撃の二撃目。
(今のは、まさか───)
───知っていた。いや、正確には、聞いたことがあった。
【貫甲流】を学ぶ時、初伝にも至らぬ雛鳥でも伝聞する逸話。
かつて剣聖ジグライテが【貫甲流兵法】を練る際に、己が好敵手たる神官戦士が使っていた戦闘技術を、大いに参考にしたという話が伝わっているのだ。
当時、無敵無双を誇った剣聖ジグライテの傍らに常にあり、修行の旅に同行し、ともに戦い、己と伯仲した実力であると剣聖に言わしめたその神官は、三大国とは違う文化圏から流れ着いた人物であるという。
元々は天星教とは別の神を祀っていたが、故国とともにそれを捨て、天星教に新たな信仰を見い出し、のちに天星教の聖戦士として時の大司教に召し抱えられ、ついには【聖堂騎士】の称号を賜るに至った。異邦人でありながら。
だが、生まれも故国も違う者が栄誉を賜ったことを妬む者達により、かの人物は、長い年月をかけて天星教の歴史から名前を消されてしまい、今に至る。
しかしその極めて高い戦闘技術だけは惜しまれ、今もひっそりと【聖堂騎士】の一部に伝授されている。
シェリーは知らないことだが、剣聖ジグライテが書き記した『四刃の書』には、写本によっては削除されてしまっているくだりに、今の三種の技が挿し絵付きで呼び名とともに載っていた。
激流の如き重撃を、静水の如き軽妙さで制する【軽煽流泳】。
踏み込みとともに突き出される、基本にして奥義たる【穿芯拳】。
押し当てた拳へと、最小限の動きで激烈な衝撃を伝えて放つ【短剄】。
攻防合一、一撃一殺、追撃自在。
己を活かすを活人拳、己を殺すを殺人拳と呼ぶ。
活殺自在の霊気功術を、徒手空拳の技として練り上げた超人拳法。
無手をもって武器を凌ぎ、軽妙巧緻をもって重打神速を制す。
しかして、その流派の呼び名だけはシェリーも知っていた。
「───【神院流拳法】……!」
またの名を、天星教神院拳。
三大王国の神教聖堂では、正式にはこちらの名が使われた。
妬心と虚飾によって源流から強奪された、名も無き武人の遺産である。
「貴方……【聖堂騎士】だったの? それになんだか───」
まだシェリーは困惑したままだった。
地面で悶えるティラニウスは視界に入れてはいたものの、ヴァレンのあまりの豹変ぶりに、問わずにはいられなかった。
「───シェリー。なんでもすると言ったな」
しかし問いに答えることもなく、逆にヴァレンが問いかける。
雰囲気もそうだが、言葉遣いすら遠慮がなくなっている。
「そう俺に言ったはずだ。そうだな?」
「い、言った、けど」
改めて確認されると、なんとも肯定し辛い問いだった。
場合が場合ではあるが、何を要求されるか不安が無いわけではない。
「聖女ストレアの物語は知っているか」
そんな不安をよそに、ヴァレンは簡潔に聞いた。
意外な問いにシェリーの目が丸くなる。一応知ってはいた。
だがそれが何を意味するのか、と、そう戸惑ったのは一瞬だけだった。
「……ええ。知ってる。知ってるわ」
「そうか。なら───彼女と同じことをやれ」
「ええ。任せて」
ヴァレンが言外に求めたことを理解し、到来するはずの機を待つ。
聞きたいことが山ほど増えたが、後で聞けばいいだけだと自重する。
そこで漸くティラニウスが起き上がった。
何をされたのか半分も理解できていないが、もはやそんなことはどうでもいいと、ついにその丸い童顔を憤怒の相に変えた。
「余裕見ぜやがっでぇ……後悔さぜでやるぞぁあああ!!」
いつの間にか巨漢の呪術師は、手を拳から剣手の形に石化させ直していた。
揃えて伸ばした五指は、剣のように鋭い石器の刃となっている。
その直後、次は自分の番だとばかりに、唸りを上げて左右の剣手を迸らせる。
「ッシァアアアッッッ!!」
ティラニウスは巨体に見合わぬ高速をもって突きかかった。
悪漢蔓延る無法街で練り上げた体術は、我流ではあるが侮れぬ技量であった。
手首だけ石化を解き、直線的な突きだけではなく、掬い上げ、振り下ろし、角度を変えた鉤手打ちも交えた、我流ならではの不規則な連続突き。
加えてこの剣手と腕は、小さな刃でびっしりと覆われていた。
欠けだらけの鉱石がそうであるように、剣手と前腕のあちこちには、剃刀の如き突起が無数に並んでおり、素手で払えばごっそりと肉を削られよう。
(なんで)
この凶悪な突きの数々を、しかしヴァレンは捌き切る。
ヴァレンは時に速度を合わせ、時にはそっと指先で触れるかのような柔らかさでことごとくを流し、いなし、むしろ手前に引っ張る力さえ加えて巧みに逸らし、信じ難い精妙さであらぬ方向へと容易く受け流し続ける。
加えて、どうだ。ヴァレンの掌は無傷なのだ。
(なんでだ……!)
結果、剣手が逸れるに釣られてティラニウスの体までも不格好に泳ぐ。
当たらない。そして皮一枚切り裂くことができない。
ティラニウスは起きながら悪夢を見ている心地であった。
殺意と憤怒を剣手に込めて、頭と言わず胸と言わず、全身を怒涛の勢いで狙い続けているにもかかわらず、傷をつけるどころか、たった一歩後退させることすら出来ずにいるのだ。
(なんで!! 当たらないんだぁッ!!)
これこそが軽妙巧緻の技法の極み。
【神院流拳法】は活人拳の一つ……【軽煽流泳】の真骨頂であった。
「ぬぅうううッッッ!!」
雨霰と降り注ぐ刃腕を危なげ無く捌き続けるヴァレン。
それでもティラニウスは、構うものかと矢継ぎ早に攻め立てる。
初手の時のように反撃を受けてはいないし、もう一つ狙いもあるからだ。
……一撃捌く度に、神霊術の淡い燐光が宙を舞っている。
聖印が弾けて消える。鈴を鳴らすような音を響かせながら。
(……ヴァレンの法衣に刻まれた【護光聖印】が、剥がれ落ちてる?)
その青白き光が舞うごとに、ティラニウスに余裕が戻りつつあった。
憤怒の相も少しずつなりを潜め、今では微笑すら浮かべている。
「っ!? ヴァレン、だめ!! 奴は新たな【呪詛】を使ってる!!」
「今ざら気づいだっでもう遅いぞぉあああッッッ!!」
この【石化呪詛】は状況に応じて、設定する条件を様々に変えられた。
ティラニウスは『自分を傷付けたら』という石化の条件を『自分に触れたら』と変更していたのである。
並の【呪詛】ならいざ知らず、古代遺跡で出土した邪悪なる秘術である。
しかも、いかに無数の聖印を刻んであるとはいえ、捌くに際して自ら【呪詛】に触れ続けるということは、連続して呪いを浴び続けるようなもの。
いずれ限度を迎え、守護も消え失せるのは自明の理。
「着でいるものには全で刻んだって言っでだよなぁ~~~ッ!!
それってよぉ~~~ッ! いづまでもつんだぁ~~~ッ!?」
ここに至り、ティラニウスは切り札の使用に踏み切った。
「さぁ、見ろぉッ!!!!」
蓄積した疲労で突きの速度が鈍るまさにその直前、両目をかっと見開いて、真正面からヴァレンの黒い瞳を覗き込んだ。その瞬間だった。
一際多く【護光聖印】の燐光が舞い散った。
鈴の音にも似た聖印が弾ける音が、まるで悲鳴のように響き渡る。
ヴァレンの手足は動きが鈍り、それに加え、ついに指先から石化が始まった。
ケニーにも使用した【呪眼の秘法】である。しかも今度は、右目で【呪縛】、左目で【石化】と、二種類の【呪詛】を同時にという念の入れようだった。
並の使い手なら【呪詛】を同時に二つなどという芸当は不可能。
このあたり、ティラニウスは【呪術師】として非凡であった。
「もらっだぁあああッッッ!!」
───今こそ勝機と右の刃腕を振り被ったティラニウス。
───何故かヴァレンは肩越しに後ろを向いていた。
───見ていただけのシェリーが剣を構えて突進していた。
───剣が突き出される。だが間合いがやや遠い。
───ティラニウスには届かない。右の刃腕はヴァレンを貫く。
(───んぇ?)
……貫けていない。そもそもヴァレンがいない。
いや、いた。踏み込んで、突き出された右の刃腕の影に隠れている。
初手と全く同じ動き。同じ回避、同じ捌き。
石化などしていない。【呪縛】などされていない。
なぜ? どうして? 【呪眼の秘法】はなぜ解けた?
(───あ)
……シェリーが剣を突き出したまま止している。
剣先が血に濡れている。血? 誰の血だ?
彼女の玉貌に焦慮は無い。むしろ安堵の色がある。
『何か』を成したのだ。
『何を』成したのだ?
その……祝福された長剣で。
───聖女ストレアの物語。
罪を背負って追放された聖女ストレアは、諸国を彷徨う。
ただ一人彼女の無実を叫んだ、聖堂騎士リーガルとともに。
咎人の聖女と聖堂騎士は、旅先で邪悪な呪術師に立ち向かう。
聖女を庇って呪詛を受けた騎士に、聖女はその手の槍を投げる。
祝福の槍は騎士の背中に突き刺さり、呪詛を祓った。
呪詛から解放された騎士は、邪悪を聖鉄槌にて叩き潰した。
ロムニオスにおいては名高い、聖女と騎士の物語。
童話、寓話、歌劇にもなった、乙女が好む恋物語。
男たるもの、かくあれと謳う、騎士の誉れの物語。
(『この街しか知らないけど』って、お前はそう言ったわよね)
シェリーは胸中で呟いた。
知る機会が無かったのだろう。
ずっとトライドラが拠点だったティラニウスには。
ヴァレンの法衣の背中には、小さな血の染みがあった。
シェリーがその手の刺突長剣で突き刺した部分であった。
祝福儀礼が施された剣は、臓器を傷つけぬよう指先ほどの浅さに留めて背の肉を突き、法衣の【護光聖印】で弱められた【呪詛】を、完全に祓ったのだ。
いざや終幕。破戒神官は鉄槌を下す。
目にも止まらぬ左右の拳での四連打。そして破砕音が四度。
シェリーの目に見えたのは、一撃目だけだった。
初手と同じ、捌いてからの右拳。しかし今度は右肘を裏側から痛打。
そこから胸元に踏み込んで───その後の拳の三連撃は見えなかった。
「っぎぇあッ!? ッ?!」
結果だけ言えば、右肘破砕、左膝破砕、右膝破砕、左上腕骨破砕。
振るわれた拳という鉄槌は両手両足を破壊せしめた。
だがそれだけでは済まさない。
ヴァレンは崩れ落ちるティラニウスの首を右手でひっ掴み、巨体を一瞬だけ支えると、足を引っかけ、投げ飛ばすようにして後頭部を地面に叩きつけた。
「ぉごッ!?」
「やったっ!!」
鮮やかな連続攻撃に思わず歓声を上げてしまったシェリー。
残心するヴァレンは、しかし眉ひとつ動かさなかった。
さらに追撃するかと思ったシェリーだったが、様子が変わった。
ヴァレンは喉輪を握っていた右手を額に移して乗せたのだ。
淡く光るヴァレンの指。額に何らかの神聖文字を描く。
「神霊術【忘却封印】……条件設定、貴様は俺の問いに三つ返答するまで【呪詛】に関する何もかもを忘れる。この問いに対し、虚偽や忘却は返答と認めない」
徹底的に反撃手段を奪うのだろう。油断など微塵も無い。
それは慎重さと言うより、執念のようなものが感じられた。
「……な、に?!」
そして、忘れるというヴァレンの言葉に嘘は無かった。
ティラニウスは既に思い出せなかった。己が誇った【呪詛】の数々が。
背後を見せれば襲われ、弱者は強者に食い殺され、他人を信じる者から先に騙され利用される世界で、恵まれた体格だけでは生き抜くに足りず、故に必死で身に着けた【呪詛】の知識が、何もかも思い出せない。
四肢の骨を砕かれた今、身を守る術は【呪詛】のみ。
なのに、それすら使えないと言うのなら、もはやティラニウスは釘で留められた羽虫の標本にも等しい無力な存在でしかない───弱者だ。
「ぁ……ぁあああ……っ」
この街は弱者が大好きだ。貪り尽くせる獲物という意味で。
今ティラニウスはどうしようもなく弱者だった。
弱者だ。恐怖だ。もう恐怖しか無い。
「思い出したいか」
やにわに霜烈を纏うヴァレンの声音。
地獄の底から響くような、おぞましき誘いの言葉だ。
右膝を胸板に乗せてのしかかるように顔を覗き込むヴァレン。
膨れ上がった怖気で身動きを忘れ、冷たい汗が流れ落ちるティラニウス。
「思い出したいだろう。望んで止まぬだろう。決して忘れてはならぬ記憶だ。
思い出せるなら……問いの三つくらいは答える気になるだろう?」
「こ、答える」
「重ねて言う。虚偽や忘却は返答と認めない」
「答えるッ!! 嘘は言っ、言わない!!」
「ならば、まずは一つ目。十年前だ。よく思い出せ。
貴様は四人の仲間と小さな村で宣教神官の一家を襲い……」
一瞬言葉に詰まったヴァレンだったが、続く言葉を舌に乗せる。
「……惨たらしく、皆殺しにした。そうだな?」
「……えっ?」
絞り出したかのような、痛切な響きだった。
剣を構えて警戒していたシェリーは思わずヴァレンの顔を見た。
ヴァレンは無言でティラニウスの返答を待っている。
ティラニウスは暫時、記憶の棚をひっくり返して答えを探した。
蒼白になりながら冷や汗を流し、やがて目当ての記憶を掘り返した。
「あ、ああ、そうだ! おれたち五人で、やった!」
「そうとも。そうだろうさ。その巨体に不似合なこの童顔は忘れん」
また、見た事のない表情だった。
哀切と悔恨に歪み、口中からは歯が軋む音が聞こえた。
遅ればせながら、シェリーはヴァレンが豹変した理由に思い至る。
「ね、ねえ、ヴァレン」
しかしヴァレンは答えない。
「では二つ目だ。四人の仲間とは、コーディック、ナスティール、ライトリック、そしてセオドール……このトライドラを牛耳る、ヒドラ商会の幹部だな?」
無言で頷くティラニウス。今度は特に反応は変わらない。
まるで今の問いは単なる確認に過ぎないとでも言うように。
「最後の問いだ」
言葉とともに身を乗り出し、顔を近づけながら、問いかける。
ヴァレンの右手が拳を握り、音も無く右腰に据えられた。
「神官の一家から逃走する時、貴様は子供を一人殴り倒していったことを覚えているか?」
「ん、んん……?」
予想外の問いだった。逃走する時?
それは、今の話に出てきた神官一家の住居から退散する時のことか。
……思い出せた。
たしかに居た。たしかに殴り倒して行った。
仲間とともにひとしきり暴虐に興じた後、急ぎ退散する時だった。
庭先から入口に近づいてきた少年を、己の左裏拳で薙ぎ払った。
拳は左目の上あたりを強かに打ち付け、血を散らせて少年は昏倒した。
思い出したが、しかし解せぬと訝しむティラニウス。
なぜそんなことを知っているのか。
なぜ今それを問うのか。
「重ねて問う。覚えているか?」
覚えている、と、そう答える前に。
魔灯に照らされるヴァレンの顔を窺って、その時目に入ったのは───
「あ、わ……」
───左まぶたの上にある、裂傷の傷痕。
「悪かったッ!! すまなかった!! ゆる、許してくれっ!!」
すべてが───繋がった。
「な、なんでもするぞ! その女にも手は出さないし、金なら全部やる!!
おまえの手下にだってなる! 気に入らない奴は全部殺してやるぞ?!」
ヴァレンは無言だった。そんなことは求めていない故に。
シェリーも無言だった。かける言葉が見つからない故に。
破戒神官の瞳が言外に問う。答えろ、と。
腰に据えた右の拳が訴える。まだか、と。
そして、その身に纏うひとつの意志が、いま雄弁に問うている。
「死ぬのは嫌だ!! 嫌なんだっ!! おれは、おれは───」
言い残すことはそれだけか、と。
「───おれはもっと『安心』したいんだッ!!
だから殺さないでくれッッッ!!!」
ぐしゃり、と、乾いた音と湿った音が、同時に鳴った。
【下段・追い打ち穿芯】……突き落とされた右拳が赤黒く染まった。
転がった二つの眼球。潰された肉。
砕かれた頭蓋骨。抜け落ちた歯。
粘ついた血と、体液と、脳髄。
下顎以外は頭部の原型を失って、ティラニウスは死んだ。
拳を引く。胸板に乗せていた右膝を引く。
悠然と、或いは悄然と、ヴァレンは立ち上がった。
そんなヴァレンの背に向けて、シェリーは思わず呼びかける。
「……ヴァレン」
言いたいことは山ほどあった。
聞きたいことも無数にあった。
どんな顔をしているのか見たかった。
しかし……名を呼ぶしかできなかった。
助けてくれてありがとう。
面倒をかけてごめんなさい。
できれば私が殺したかった。
同じ悲しみを分かち合いたい。
心中に浮かぶ無数の言葉は、しかしひとつも音にならなかった。
ヴァレンは天を見上げた。
空には弓のように細い月が輝いている。
新月を過ぎ、うっすらと姿を現した鎌刃月。天星神教において、月とは蒼月神、女神リュナスの化身であり、探求、隠忍、義憤などを司る。
拳を血に濡らして立ち尽くし、月を見上げる破戒神官ヴァレンの姿は、しかし女神に祈りを捧げる敬虔な信徒のようにも見えた。
「……あと」
不意に、ヴァレンは呟いた。
シェリーの呼びかけに応じたものではない。
聞いていたかどうかすら定かではない。
ただ己の内に深く沈み、我知らず漏れ出た言葉だ。
「───あと、四頭」
かすかに聞こえたその声は、決意を込めた宣誓の如く。
幾千の想いを秘めて、夜闇の静寂に溶けていった。
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一章 岩の腕のティラニウス 終
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