岩の腕のティラニウス 四
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「っが、てめ……離、せ、ッ!」
たまらず拘束を解き、後退るケニー。掴まれた右手はミシミシと軋んでいる。
その瞬間、シェリーはヴァレンの背中に隠れていた。本能的な行動だった。
そこで漸う、ヴァレンは手を放した。
「……っ。テメェ、ヴァレンじゃねェか。どういうつもりだ。
その女、テメェの女だとでも言うつもりかよ?」
「いいえ。こちらの方とは、まだ契約中ですので」
「……あ? 契約中だ?」
どうやらケニーとヴァレンは顔見知りのようだった。
こんな時でもヴァレンは木石の如き無表情である。
それがケニーには酷く癇に障るのだろう。目つきに危険な光が宿りつつある。
「仰せの通りです。この方とは今、臨時に徒党を組んでいます。
初めて遺跡に挑まれる故、ご案内と、戦力提供の契約中です」
「おいおいヴァレンよ……テメェの女じゃねェってんなら話ァ別だぜ。
俺ァ誰のもンでもねェ女に粉ァかけただけってことじゃねェか。
テメェはたったそれだけの事で、人の手ェ握り潰そうとしたのかよ、あァ?」
「───トライドラの不文律。
中央通りで荒事は起こす者は殺せ。
金で誓った約束を裏切った者は殺せ。
他人の過去を詮索する者は殺せ」
「……急になンだ。俺がそれを知らねェとでも───」
「───ここは中央通りではない。
金で結んだ契約において助力を行うは当然。
こちらにどんな事情があろうと、そちらには関係が無いはず」
「っ、テ、メェ……」
「この秩序無き街における、たった三つの決まり事。
無法者たる住人たちにとって、これ以外に守る法は無し。
これがこちらの言い分です。返答や、いかに」
「ぐぬ、む」
思わず押し黙ってしまうケニー。
長くトライドラに居を構えている者ほど、この三つの不文律が如何に不可侵かつ無慈悲であるか、どれほど命を危険に晒すかを知っている。
そもそも性根からして無法者の破落戸である。
揉め事を話し合いで解決するような能力などまったく無い。
対立や諍いは、暴力と凶刃で解決するという常識の中で生きてきた。
理屈で反撃してくる者に理屈で返す常識など初めから持ち合わせていない。
ヴァレンはトライドラでもそこそこ腕と名の通った男である。
暴力での反撃が通用しない相手に舌戦など挑まれれば、無力であった。
「……おいヴァレン。テメェここをどこだと思ってんだ」
故に───
「ここはヒドラ商会本部の真ん前だぜ?
そして俺はな、商会お抱えの盗掘屋の一員なんだ」
───次に頼るものと言えば、寄る辺たる大樹の威光だった。
「この街で商会の人間に喧嘩売った奴がどうなるかは知ってるよなァ?
だいたい連れに手ェ出されんのが気に入らねェならよォ、テメェのそのよく回る舌で言やァ良かっただけの話だろうが」
「手を握っただけですが」
「手を握り潰そうとした、の間違いだろ?
喧嘩売ってきたと思われたってしょうがねェ。だよなァ?」
今度は、ヴァレンが押し黙る方だった。
……周囲から忍び笑いが漏れている。
ケニーの連れの三人の顔にも薄ら笑いが浮かんでいた。
この状況を見世物として楽しんでいるのだ。周りの連中は。
(おのれ、破落戸どもめッ!)
思わず胸中で毒づいたシェリーだったが、焦燥感は消えない。
シェリーの目的はこの街にいる仇を探すことである。
故に目立つような真似は慎むべきなのだ。
だがいかに焦っても妙案は浮かばない。
いよいよ窮し、苦し紛れにシェリーも口を挟もうとした、その時。
「───承知。そちらの言い分は理解しました」
事態はすでに、再度動き出していた。
変わらぬ無表情で、ヴァレンの口が開かれる。
「まずは言葉で制止せよとの訴え、実に然り。私の落ち度です。
よもや其方のお手、それほど脆いものとは知りませんでしたので」
「な、テメェふざ───」
「であれば、ここはトライドラの掟に従い、金で手を打って頂きたい」
「───けンな……はァーン? ほうほう、金、ねェ」
「なっ?! ヴァレン!?」
「で、いくら払ってくれるンだ? はした金じゃァ済まさねェぜ?」
「どうぞ、お確かめを」
「へへ、どれどれ……ッッッ?! ッな、ァ!?」
ヴァレンが布財布から取り出したのは、金色の輝き。
紛うこと無き西方連合王国金貨、その額は───
「───西方シルヴ金貨、六枚。しめて六百万シルヴ。
私のほぼ全財産です。どうかご遠慮なくお納め下さい」
……実に、五、六年は暮らせる額であった。
それもこの街でではなく、ロムニオスの都市部で、だ。
ケニーも、その仲間も、下卑た笑いで見物していた周囲も。
目を剥いて驚愕に息を呑んだ。金貨など滅多に見られないからだ。
このトライドラで、全財産を持ち歩く者は決して少なくない。
下手に自分の目の届かない場所に置いておけば、常に盗まれる危険がつきまとうのが、このトライドラという無法街である。
それならば、いっそ常に持っている方がマシなのだ。
無論、前提として、自衛できる力量を持つ者に限られるが。
「ちょ、ちょっとヴァレン! 待って、待ってよ!?」
「はい、なんでしょう?」
「いや、なんでしょう? じゃないわよ! 何よその大金!」
「偽物ではありませんが」
「いや偽金だなんて疑ってるんじゃなくて! 払い過ぎよ!」
「噛んでみますか。歯形がつきます」
「聞きなさいよ?!」
あまりに飛躍した事態にシェリーも冷静さを失っていた。
絡まれた側が金を払って解決するなど業腹の極みだが、法無き世界で立場の弱い側が取る手段としては珍しくない事など、納得せずとも知ってはいる。
だとしても限度というものがある。
こんな大金など払っては、悪党であればなおさら図に乗ってくる。
骨の髄まで舐め尽くされ、ますます事を悪化させるだけでしかない。
「…………っ、クソが」
(あ、れ?)
そうシェリーは思ったのだが。
予想に反してケニーは受け取ろうとしない。
「ぇ? ……え?」
「いかがしました。どうぞ、ご遠慮無く」
「ふざけンじゃねェぞ生臭神官が……!
一枚だ。一枚でいい。早く寄越せクソが!」
「いいえ、六枚全て受け取って頂きたい」
「欲しいわけねェだろ! 小賢しい真似しやがって!!」
わけがわからない。これがシェリーの正直な感想だ。
一体なぜケニーは目の前の大金に手を出さず、あまつさえ減額を要求するのか。
「理解できない、って顔してるぜ、新顔」
そんなシェリーに声をかけたのは受付の髭面だった。
小憎らしい中年の訳知り顔に、胡乱げな表情で問うシェリー。
「……教えてくれと言ったら、教えてくれるのか?」
「ああいいぜ。ククッ、こんな見世物は久々で気分がいいんでな」
髭面の男はさも楽しそうに話し出す。
「お前さん、ヴァレンと組んでるなら『初日の洗礼』はもう済んだろ?
なら、この街の住人がどういう連中なのか、多少はわかってる筈だ」
「つい昨晩、身に染みた。それが?」
「トライドラの不文律じゃ『金は殺して奪い取れ』ってのは禁じてねえぜ?」
「……? どういう意味だ」
「周りを見な。野次馬どもがすっかり目の色変えてるぜ」
言われて周囲を見渡した。
そうして気づく。雰囲気が一変していることに。
辺りには……途轍もなく、剣呑な雰囲気が漂っていたのだ。
「このトライドラにはな、商いに身を置く者に必要な条件がある」
「条件?」
「大きな後ろ盾、と言うかヒドラ商会の庇護下に入っていること。
或いは、商う者自身が、客の狼藉を力づくでねじ伏せることができ、時には無理矢理にでも品を買わせることができる暴力の権化であることだ」
「っ! まさか……」
「お察しの通りさ」
もはや一人として、笑みなど浮かべていないのだ。
露店の店主、客、その他含めてざっと二十数人。
(これは、ヴァレンの仕掛けた奸計か!?)
皆の視線は行き来している。
ヴァレンの手の金貨と、ケニーをだ。
ぎらついた目に宿る剣呑な光は、大金を前にした欲望と、殺意だった。
名の通った実力者であるヴァレンの手にある大金が、ヴァレンより『与し易い相手』に渡ろうとしている。それは周囲の者にとって、どういう意味を持つのか。
「仮にだ。ケニーの野郎があの金を全部頂いたとしよう。
そしたらあいつ、生きて明日を迎えられるのかねえ?」
(これが……これがトライドラ。屑と外道と狂人の坩堝)
トライドラの住人は、並のならず者と比べて悪辣さの格が違う。
命乞いでもすれば無事に済むはず、などと思った者は、逃げることも、この街で明日を迎えることもできはせず、なにもかも奪われて屍を晒す。
ケニーがあの大金を受け取った瞬間、今ここにいる悪党すべてから、極めて執拗に、そして蛇のような慎重さと執念深さで付け狙われることになるのだ。
窃盗、暴行、殺人など、屁とも思っていない悪党に。
「金貨六枚なら山分けでも大儲けだ。いや……」
そしてその悪党とは───
「『三人』で山分けなら、一人二枚のボロ儲けだな」
───連んでいたあの三人も、例外ではない。
「よぉ、どうしたよケニー」
「貰っちまえばいいじゃねえか。なぁ?」
「おうともよ。何を躊躇ってんだ? ん?」
色帯頭巾の三人は言葉こそ軽薄だが、目が笑っていない。
ケニーと行動を共にしているのなら、辺りの野次馬を出し抜く案も、さぞや多かろうというものである。
対してケニーは顔を歪め、焦燥に呻いていた。
日に焼けているはずの肌が青白く見えるほどに。
「……今は見逃してやらァ。だが覚えとけ」
「承知」
忌々しそうな舌打ちを一つ残し、踵を返して去っていくケニー。
連れの三人は瞬く間に軽薄な空気を纏うと、下卑た笑みを浮かべながらその背を追って歩み去った。
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───砂色のカラス亭にて。
食事中のヴァレンの姿は余裕に満ちていた。
大金を見せびらかしたせいで、周囲から物騒な視線を浴びせられているにもかかわらず、である。
己の実力で無力化できぬ者は周囲に居ないと、無言で訴えている。
だとしても、シェリーは一言、言わずにはいられなかった。
「ありがとう。それと、ごめん」
柳眉の端は下がり、濡れた碧眼は揺れ、うつむき気味に伏せられている。
表情からは、虚勢交じりの強気な表情はすっかり失せていた。
まるで叱られた童女のように、年齢以上に幼く見える。
「先ほどの事なら、礼には及びません」
「でも私を助けるために、要らない危険を買ったようなものでしょ?」
隙を見せれば今にも何かが起こりそうな空気の中、しかしヴァレンは泰然と佇んで、腸詰を美味そうに食べながら、気にもしていないように見えた。
「結局、奴は一シルヴも取らずに退散してしまった。
大金を晒した貴方だけが面倒事を背負ったようなものじゃない」
「お気になさらず。私だけではないではありませんか」
「え?」
「貴女は私より命の危険が増した筈です」
「私が? 危険が増した?」
「貴族の令嬢など、この街の住人にとっては垂涎の獲物ですから」
それはそうだが、それとこれとは───いや、待て、と。
「どうして、それを」
はっとして顔を上げ、シェリーは目を剥く。
危うく聞き逃すところだった発言に、目の色を変えた。
自分が貴族───ロムニオス辺境の子爵家の血を引く娘であることなど、教えた覚えは無いからだ。
「まずはその美しい金の御髪です。
金髪は、砂漠王国シャハーラーマでは勿論、この街でもほぼ皆無。
西方ロムニオスでも北方スラビェーリャでも珍しく、金髪は人口の三割ほどしかいないと言われています」
思わず息を呑んだシェリーは、食べていた腸詰を、刺したフォークごと取り落とすところだった。
「その三割の大多数は、貴族階級や王族」
我知らず腰間の剣に手が伸びる。
聞き耳を立てている輩もいるであろうに。
これ以上喋らせていいものかと迷いながら。
「次に、お腰の得物、トライドラでは目立ちます。
この街で、短剣ではなく長剣を帯びる者は少ないのです」
わずかに体が跳ねた。柄を握ろうとした掌に汗が滲む。
「よく見れば刀身は細長く、強度より軽さ鋭さを重視した【刺突長剣】。
この街の住人が好む、肉厚で頑強な片刃の【偃月剣】とは対極の器械」
だからどうしたというのか。業物の上、祝福儀礼こそかかっているものの、剣としてはありふれた造りであり、出自を示すようなものではない。それがシェリーの認識だ。
「本日は、これを使いこなす技量も拝見させて頂きました。
斬撃よりも刺突を多く用いる。そしてその技の数々は───」
(技……まさか?!)
「───【ジグライテ貫甲流兵法】、片手一刃とお見受けします。
貴族階級の女性が嗜む剣としては、主流の一派です」
ジグライテ貫甲流兵法。
鎧の隙間から敵兵を刺し殺すことに主眼を置いた刺突器械による闘法だ。
またそれ以外に、魔生物の甲殻を貫くための技巧を追求してもいる。
主に長剣、短剣、槍など、斬撃と刺突を共にこなす器械を最適とする。
熟練の魔法使いしか行えない【物体強化】を凡人の域で成す為に、武器術の鍛錬によって自身と武器の合一を図り、それに伴う【肉体強化】に類似した特殊な魔力行使で、魔法を用いずに【武器と肉体を同時に強化】して使用する戦闘技術。
この流派の達人は、木剣であっても鋼の鎧を胸部から背面まで貫くという。
魔力を切っ先に集中させ、硬度、鋭利さ、貫通力を飛躍的に高めることを基本にして奥義とする。
かつての英雄、剣聖ジグライテが開祖と言われる総合兵法である。
長い歴史を持つ流派であり、伝統芸能のように脈々と受け継がれてきた。
主に三大王国の上流階級など、限られた者にだけ徹底的に伝授される。
流派における伝位があり、伝位認定試験によって師から伝位が授けられる。
これは初伝・中伝・奥伝・皆伝の四段階に分かれている。
開祖が記した『四刃の書』が源流とされ【片手一刃】【諸手一刃】【長柄百操】【長短二弓】の四章にて構成される。
「腕前は中伝から奥伝に迫る辺り。女人の身とは思えぬお手前。
ですが、貴女の技量を知らずとも、その剣の造形は一目瞭然」
「……造形?」
「俗に【ロムニオスの刺突長剣】と呼ばれる物ではありませんか?
名高き王国騎士団、そして【貫甲流】の正式採用品と聞きます」
絶句であった。
「金の長髪、若く美しい女性、貫甲流の刺突剣。十中八九、貴族です」
たったそれだけで看破されるとは思っていなかった。
目の前の破戒神官を、まだまだ侮っていたことに臍を噛む。
いや───
「この程度の目利きは、街の住人の大半ができると思われます」
───正確には、このトライドラ無法街という街を、だ。
もはや手遅れだが、己の見通しの甘さを呪うしかなかった。
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日没間もない薄闇の中、シェリーは途轍もない焦燥感に襲われながら、ある廃屋に隠れていた。
ヴァレンとは本契約を結んだ。基本報酬も先払いで渡してある。
一も二も無かった。内容には同行時の共闘も含まれるからだ。
すでに独力では危険を避けられないと判断しての決断である。
もはや疑いようもなく、ヴァレンの戦闘技術と危機管理能力は高い。
二人とも命の危険が同程度であるなら、いっそ協力してしまいたいとの訴えに、ヴァレンは拍子抜けする程あっさりと首を縦に振った。
断られることも覚悟していたシェリーは思わず安堵の息を吐いた。
契約時間は、日没から、翌日の日没まで。
相手の窮地を救えば、相手への報酬が発生する。
契約は一日ごとに更新する形となった。
しかし今、二人は別行動を取っていた。
なんでもヴァレンが知る限り、最も安全な塒があるという。
街の北東にあり、ヴァレンはそこを普段の拠点にしているらしい。
シェリーもそこに招きたいのだが、同居人が複数いるので、ひとまず話をつけに行くと言った。
待ち合わせ場所は初日に泊まった宿───の、裏手の廃屋。
シェリーは中央通りを堂々と横切って初日の宿に入り、部屋を取る。
その後【影潜みの黒外套】を纏って姿を消し、こっそりと抜け出して、西側裏手の廃屋に野良猫の如く忍び込んだのだった。
そしてしばらく経つと、案の定───
「おい、どこにもいねえぞ」
「本当にここなのか?」
「手下に見張らせてたが、ここからは出てねえとよ」
「クソがッ! あの女、どこ行きやがった!」
───襲撃者たちの声が聞こえてきた。
(もう、いい加減にしてよ!)
よく聞けば聞き覚えのある声だった。
夕方に絡んできた、色帯頭巾の四人に間違いなかろう。
ケニーと呼ばれた野卑な男の声は、忌々しいが印象に残っている。
「もうコーディックの旦那に売り飛ばすだけじゃ気が済まねえッ!!
泣いても喚いても一晩中、たっぷりと嬲り通してやらァ!」
この街に着いて二日。たった二日目だ。
まだ二日しか経っていないというのに、この体たらく。
憎き仇の顔を拝むどころか、居場所すら掴んでいないというのに。
これでは先が思いやられるどころの話ではない。
わかっているのは呼び名だけ。そう、岩の腕の───
「───ティラニウスの旦那まで出張ってンだぞッ!?」
逃げられましたじゃ済まねえンだよ馬鹿野郎ッ!!」