ぐるぐる回ったその先に(三十と一夜の短篇第77回)
「シャチョサン、マタきてネ」
その声に顔をあげたのは、不思議なイントネーションが耳についたから。
何気なく見上げた薄暗い階段のうえ、下着が見えてしまいそうなほど丈の短いワンピースを着た脚が目に入って、思わずうつむいた。
「ありがとね、また来るよ。アイちゃん」
暗がりで息をひそめる私に気づかず、男の足音が去っていく。
男は振り返り振り返りしているのか、なかなか足音が遠ざからない。耳を澄ましているせいか、街灯に集まる蛾の羽音がひどくうるさかった。
見送りに出てきた女性が立ち去ったら私も行こう。
そう決めて立ち尽くしていたのに、かたいピンヒールの足音は近づいてきて、細い脚の影がうつむいた視界のすみに伸びてくる。
「ドシタの? マイゴ?」
「は、いや。別に、塾の帰りです」
不意にかけられた声の近さに驚いて、言わなくても良い情報を口にしたと気づいたのは一拍遅れてから。
早くこの場を離れよう、そう思って足を踏み出したのに。
「ジュクはシラナイのコトバねえ。ダケド、カエルはワカルヨ!」
元気な声といっしょにぐい、と近づいてきた顔と、目があってしまった。
若い、と思ったのがはじめの感想。
きれいに化粧をしているけど、たぶん同い年くらい。タイトなワンピースで露わになった身体のラインは、女性というには肉が足りなくてお人形さんみたい。
「きれい」
「キレイ? キレイもワカル! パプーリィよネ! アリガトー!」
頭に浮かんだ思いが口からこぼれていたと気づいたのは、彼女がうれしそうにお礼を言ってから。
ほんとうに、うれしそうに笑う顔はきれいというよりかわいくて。同性なのにどうしてか頬が熱くなって、慌てて身を引いた。
「あの、じゃあ」
目を逸らし、立ち去るわたしの耳に元気な声。
「ウン、ジャアマタね!」
彼女は身を翻し、軽やかに階段を駆け登り消えていく。
見送る形になったわたしは、どうしてか彼女に会いたくてたまらなかった。
塾の帰り道。解けなかった問題。わかりかけてきた設問。復習しなきゃいけない課題に、未来のために取り組まなければならない問題の山。
考えるべきこともやるべきこともいくらでもあるはずなのに、頭のなかを占めるのは明るい彼女の声と薄い背中。
※※※
どうしてこんなに彼女のことが気になるんだろう。
もしかしてわたし、彼女のことが好きなのかな?
そう思ってみるけれど、何かちがう。だけどどうしてか頭に浮かぶのは明るい声と細い背中。
ぐるぐると巡る思考は翌日、学校に行っても消えてくれずにわたしを苛む。
勉強の悩みなら教師に。進路の悩みなら親に。
だったら、どちらでもないこの悩みは誰に相談したら良いのだろう。
放課後になっても消えないもやもやを持て余して、購買前の学習スペースに腰掛ける。
壁にもたれてぼんやりするわたしの前をパタパタと通り過ぎていくたくさんの脚。華奢な脚、日焼けした脚、筋肉のしっかりついた脚、怪我の痕がうっすら残る脚。
色んな脚があるけれど、どれもみんな違っている。違っているけどみんな同じ、学校指定のサンダルを履いている。
そこへ、ペッタンペッタン。
サンダルじゃないものを履いた、学生ズボンの脚がやってきた。
「あ、ヤマさん」
思わずつぶやいたわたしの声は聞こえただろうに、立ち止まりもしなければ視線もくれない、華奢な男子。それがヤマさん。
学校指定のサンダルじゃなくて、先生たちが履いてる室内シューズでもなくて、白いふわふわのスリッパを履いてる変わり者。それも一年中。
明らかな校則違反だけど、学校の誰より頭が良いから注意もされない有名人。
三年生だけど先輩と呼ばれたくないからと、誰からも「さん」付けで呼ばれてる、つまり変人。
いつもならヤモリが横切ったくらいの感じでスルーするその猫背に声をかけたのは、どうしてなのか。自分でもわからなかったけど、気づいたら呼び止めてた。
「ヤマさん!」
ペタ。
ふわもこサンダルが立ち止まる。
真っ白でふわふわなそれは、実はいくつも予備を持っているという噂。
立ち止まったけど振り返らない背中に焦って、立ち上がって声をかける。
「ねえヤマさん、質問があるの。教えてくれない?」
「それって難しい?」
ヤマさんの声、はじめて聞いた。ゆったりしてて、ふわふわスリッパによく似合う。
「難しい、と思う。わたしには誰に聞いて良いかもわからなかったから」
「じゃあ、どうしてボクに聞くの?」
ぺたぺたと足を止めないままのヤマさんがしたのは、もっともな質問。でもわたしだってきちんとした答えは持ってない。でも。
「ヤマさんならわかるかも、って思ったから、なんとなく」
「なんとなく。先生じゃなくて、同級生でもなくて、親でもない、話したことのない相手に、なんとなく」
「……うん、そう。なんとなく」
ヤマさんの足は止まらない。わたしのほうを見もしない。
だめかな、答えてくれないかな、失敗したな……。
「あの、購買でジュースおごるから、飲み終わるまでの間だけでも」
ダメ元で続けたら、ヤマさんが振り向いた。
笑顔はない。真顔だけど、はじめて目が合う。
「ヨーグルッペ」
「え、物で釣れた」
「面白そうだし、難しい問題は嫌いじゃない」
正面から見たヤマさんは、意外と整った顔をしてるんだってはじめて気がついた。
※※※
「飲み屋街、若い外国人の女の子、感謝の言葉、その子のことが気になってたまらない」
ヤマさんは向かいの席に座ってヨーグルッペの紙パックにいそいそとストローを刺しながら、わたしの話を聞いて要点を並べる。まるで数学の文章題から、必要な情報を抜き出すみたい。
そして、表情を変えないままヤマさんがうんとうなずく。
「あなたはたぶん、寂しいんだ」
あなた、なんて歳の近い男の子に言われたことがないからすこしドキッとしたけど、今はそれどころじゃない。
「寂しい? なんで? あの子とは初対面なのに。それに、どうして初対面のわたしの気持ちがわかるの?」
「質問ばっかりだ」
「だって」
椅子の背もたれにひじをついたヤマさんは、横顔もすんなりしてる。嫌味がないって言うのかな、どこか遠くを見る仕草がよく似合う。
ずびび、とストローを吸って薄い唇が静かに開く。
「ボクにあなたの気持ちはわからない、あなたにだってわかってないんだからわかるわけない」
「でも寂しいって」
「たぶん、を忘れてる」
澄ました顔で言われるとちょっとムカつく。
ずびび、ってストローの音がうるさい。
「聞いた範囲からの想像だけど、あなたが会ったのは出稼ぎに来た女の子なんだと思う。同い年くらいっていうのは、たぶん正解。飲み屋街で働ける年齢になってすぐ来るのはよくあること、と本で読んだ。そして、大人っぽい格好のその子が年相応に笑うのを見てあなたは寂しくなった。なぜかわかる?」
わかってたらヤマさんに話しかけてません。そう言うのもなんだか悔しくて、わたしは黙って首を横に振る。
ヤマさんは馬鹿にするでもなく「そう」と頷いてずびび。
「あなたはおそらく未来を重ねたんだ。その子の姿に、自分の未来を」
「わたしも出稼ぎに出る、ってこと?」
そんな予定はないのだけど。
幸いなことにわたしの家は両親がそろっていて、家族みんな健康で。贅沢三昧はできないけど、外国に出稼ぎに出なきゃいけないほど暮らしに困っていない。
進学先は少し考えなきゃだけど、いくつかのなかから選べるくらいの贅沢は許されてる。
「出稼ぎでなくても、この町は出るでしょう。よくあるところでは進学や就職のため、あるいは結婚ということも」
「あ……」
そこまで言われて、ようやくわたしは気がついた。
生まれてから今日まで暮らしてきたこの町に、一生住むわけじゃないってこと。
「そっか。わたし、あの子に自分を重ねてたのか。遠い町で暮らすあの子みたいに、いつかわたしも……」
いつかわたしも知らない町でひとり、暮らすのかもしれない。知らない誰かに笑いかける日が来るかもしれない。
塾の帰り、偶然出会った彼女の笑顔にそんな未来を見ていたのだと。ヤマさんに言われてようやく気がついた。
「だから……寂しい、なんだね」
教えられて、自分の胸のもやもやの正体が見えた。
寂しい。
口に出してみれば、たしかにこの胸にあるのは寂しさだ。はっきりとした形のない、弱々しい思いだけれど、寂しい。
自覚した思いを噛み締めるわたしを眺めて、ヤマさんはぽつり。
「渡り鳥は時期が来れば、また戻って来るんだ」
「?」
意味がわからない。
やっと自分の寂しさを理解したばっかりなのに、ヤマさんはまたわたしを混乱させる。
そしてずびび、とストローを鳴らして雰囲気を台無しにした。
「なぞなぞ? え、待って。さっきまでの話と繋がってるの? ヒント、ヒントちょうだい!」
「ヒントも何もないんだけど。大部分の道は一方通行じゃない、ってこと」
言って、ヤマさんは立ち上がる。
細長い指が持ち上げた紙パックのなかでかすかな水音。
「えっと、えっと……あ! 町を出たとしても帰って来れないわけじゃない、から寂しがる必要はないってこと!?」
ぺたぺたぺた。
ふわもこサンダルは立ち止まることなく、遠ざかっていく。
ヤマさんは振り返ることなく、だけど両手を頭の上に持っていき、指先をくっつけた。
その形は……三角?
「結論に飛躍が見られる。けど、不正解でもないので」
「え、え、いじわる!」
話が飛び飛びだから難しい。だから間違ってないなら丸をくれてもいいのに!
ヤマさんの採点の辛さに声を上げれば、細い猫背が揺れた。
「いずれにせよあなた次第、ということ」
それだけ言って、ヤマさんはぺたりぺたりと廊下の向こうに姿を消した。脚が長いからゆったり歩いてるようで、あっという間に行ってしまう。
だけどそんな発見より、貴重なことが。
「ヤマさんが笑ってるの、はじめて見た……」
あなたの笑った顔を見たら胸が熱くなったんだ、って言ったらヤマさんはどうするだろう。
笑うだろうか。わたしの心を解説してくれるだろうか。
「……明日、またヨーグルッペ買っとかなきゃ」
来たる明日の放課後を有意義な学びの時間にすべく、わたしは入念な計画を練ることにした。
敵は手強い。だけど未来はわたし次第。