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令嬢たちの恋模様(異世界恋愛短編、すべて完結済み)

【短編版】義母と義妹の策略でいわれなき冤罪に苦しむ侯爵令嬢が猫ちゃんを拾ったら~「お前を愛することはない」と言われた私が幸せな王太子妃になるまで~

作者: 綾森れん

長編化しました! 連載版はこちら⇒https://ncode.syosetu.com/n5152hw/

「ロミルダ、余がお前を愛することはない」


 ミケーレ第一王子は長い指先でブロンドに輝く前髪を整えながら、婚約者であるロミルダ・モンターニャ侯爵令嬢に冷ややかな視線を向けた。ミケーレ王子が背にしたガラス戸の向こうには、よく手入れされた庭園が広がっている。


 ロミルダ自身も愛ある結婚を期待しているわけではなかった。ここ百年近く王太子妃は公爵家から輩出されていたのだが、血が濃くなりすぎて幼少期に命を落とす王族が増えたことと、国王陛下が優秀な家臣であるモンターニャ侯爵を大変気に入ったことで、長女ロミルダは第一王子と、次女ドラベッラは第二王子と婚約したのだ。


「余には愛するディライラがいるからな」


 その名を口にした途端、ミケーレ王子の口もとには別人のようにあたたかい微笑が浮かんだ。優しいまなざしで見下ろすひざの上で、彼女は丸くなっていた。


「おお、ディライラ。お前はこの世でもっとも美しい!」


 ミケーレがひざに置いたブランケットの上で、つややかな毛並みの三毛猫が牙を見せてあくびをした。


 居並ぶ使用人たちさえ内心では呆れ返る中、空色の髪を結い上げたロミルダだけが、深い海の色をした瞳でいつくしむようにミケーレと猫を見つめている。


(こんなに猫ちゃんをかわいがっていらっしゃるなんて、心優しい方なんだわ。猫ちゃん好きに悪い人はいないもの!)


 ロミルダは満面の笑みを浮かべて、侍女のサラに目配せをする。渋い顔をしたまま侍女が手渡したバスケットの中には布に包まれた何かが入っているようだ。


「ミケーレ殿下、どうぞ召し上がってください。わたくしが手作りしましたクッキーですの」


 うやうやしくバスケットを差し出すロミルダに、ミケーレはふんと鼻を鳴らした。


「手土産を持ってくるならディライラの分も用意せよ。それから余に食べさせたいならお前の手作りではなく名パティシエに作らせるのだな」


(まあ、殿下は舌が肥えていらっしゃるのね!)


 ロミルダは納得してうなずいた。


「はい殿下。猫ちゃんのお食事についてシェフにうかがって、勉強してまいりますわ!」


 耳のうしろをかいている猫に目を細めるロミルダは、よもや知るはずもなかった。彼女がクッキーを焼く前に、何者かが侯爵邸キッチンの砂糖を恐ろしい魔法薬にすり替えたことなど―― 




 モンターニャ侯爵邸へ帰る馬車の中、向かいで揺られている侍女にロミルダはほほ笑みかけた。


「ミケーレ殿下、わたくしの愛情入りクッキー、召し上がってくださるかしら?」


「さあどうでしょう。ロミルダ様、愛情入りクッキーとは?」


「オーブンで焼きあがるまで石窯の前で『愛情愛情』って唱え続けたのですわよ」


「怪し――」


 本音をもらしかけて、侍女は慌てて咳払いした。


「コホン。ロミルダ様、魔女かと誤解されるような発言は、私の前だけにしてくださいね」


「魔女なんて本当にいるのかしら?」


 ロミルダはおっとりと首をかしげて、車窓に広がるオリーブ畑を見つめた。


「宮廷占星術師が、悪い魔女がこの国をのっとろうとしていると警告したそうです」


 侍女の話にロミルダが口を開きかけたとき、突然馬車の天井に何かがぶつかったような音がした。


「何でしょう?」


 侍女が窓を開けて外をのぞくが、かわいた風に彼女の栗色の髪が揺れるだけ。御者も何事もなかったかのように馬をあやつっている。


 侯爵邸へ到着するころには、二人とも何かが落ちてきたことなどすっかり忘れていた。




 その日の夕方、突如、王宮騎士団が押しかけて来て、モンターニャ侯爵邸が一気に騒がしくなった。


「ロミルダ嬢はいるか!?」


 わけが分からないまま、ロミルダは騎士団長の前に引き立てられた。


「ミケーレ殿下をどこへ隠した!?」


 家族と使用人たちが見守る中、詰問が始まった。家族と言ってもロミルダと血がつながっているのは父親であるモンターニャ侯爵だけ。実の母親はロミルダを産んだあとすぐに、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまった。後妻として侯爵に嫁いで来たのは、異国の王族だというアルチーナ王女。彼女とモンターニャ侯爵の間にはドラベッラという娘が生まれた。


「どこへ隠したとは――?」


 ロミルダは怪訝な様子で尋ねた。


「しらを切るな! ミケーレ殿下が姿を消した部屋には、お前の渡したクッキーが食べかけのまま残されていた」


「殿下ったら召し上がってくださったのですね!」


 喜びに顔を輝かせるロミルダを見て、騎士団長はますます眉をつり上げた。


「あのクッキーを宮廷魔術師に見せたところ、何か魔力を感じるとのことだったぞ。一体どんな細工をしたのだ!?」


 愛情を――と言いかけて、ロミルダは口をつぐんだ。


(言ってはいけないんでしたっけ)


「口を閉ざしおって! お前が魔女だな!?」


「そうですわ! お義姉(ねえ)様は魔女に違いありませんわ」


 口をはさんだのは義妹のドラベッラだった。


「わたくし見ていましたもの! お姉様が大きな石窯の前で、クッキーが焼けるまでずっと呪文を唱えていたのを」


「まあ怖い! クッキーに恐ろしい魔法をかけていたのですわ」


 アルチーナ夫人も口をそろえる。


(愛情愛情って繰り返していただけですのに――)


 しゅんとしてうつむいたロミルダに、騎士団長はサーベルの切っ先を突き付けた。


「魔女め、ミケーレ王太子殿下を消してこの国を乗っ取る魂胆だな。お前を王宮へ連行する!」


「騎士団長」


 立ち上がったのは、それまで成り行きを見守っていたロミルダの父親――モンターニャ侯爵だった。


「仮に娘が魔女だとするなら、なぜ婚約者であるミケーレ殿下をねらうのだ? おとなしく結婚して時を待ち、王妃となってからこの国を乗っ取ればよい」


 低い声で淡々と話す侯爵に、脳筋な騎士団長はたじたじとなった。


「む、むむむ!?」


 理解できているのかいないのか、妙な声を出す。


「それから王宮魔術師たちは、クッキーにかけられた魔術を特定できないのか? なにか魔力を感じる、ではあいまい過ぎるだろう」


 騎士団長の正面へ、ゆっくりとした足取りで近付いてくる。


「む、むむ。残された術式から魔術を特定するには時間がかかるらしく――」


 魔術について門外漢である騎士団長は声が小さくなった。


「では鑑定が終わってから再度来ていただこう。それまで娘を屋敷の外へ出さないことを約束する」


 静かな声で、しかし毅然と言い放つ侯爵に、


「いや、あの、魔女なら遠隔で魔法が使えるかもしれず、身柄はこちらで――」


 もごもごと反論する騎士団長。


「うちのロミルダはミケーレ殿下の婚約者であり、被害者かもしれぬ事をお忘れなく」


 侯爵のおだやかな声に凄みがこもった。頭一つ分背の高い騎士団長を射る視線には、有無を言わせぬ迫力がある。


「む。承知した」


 騎士団はぞろぞろと広間をあとにする。帰り際に、騎士団長は意地の悪い目でロミルダをにらんだ。


「魔女め、命拾いしおって」


 そのときだった。廊下からいきなり一匹の猫が飛び出し、騎士団長の顔に飛びついた。


「いてぇっ! いてててて!」


 屈強な図体に似合わず、顔じゅうひっかかれて壮絶な悲鳴をあげる騎士団長。周りの騎士たちが猫を引きはがそうとするが、騎士団長の背が高くて頭の上に登った猫まで手が届かない。


「いまいましい猫め!」


 なんとか首根っこをつかんで放り投げた。弧を描いて宙を飛ぶ三毛猫。


「猫ちゃん!」


 ロミルダが走って、天井から落ちてくる猫を抱きとめた。




「この子、ディライラちゃんじゃないかしら?」


 自室に戻ったロミルダはカーペットにひざをついて、寝そべる三毛猫をなでていた。


「でもディライラって名前からすると雌ですよね?」


 侍女のサラがカーペットに這いつくばって、猫の後ろから尻の下をのぞいている。


「三毛猫ちゃんなんだから、この子も女の子でしょう?」


「普通はそうなんですが――えいっ」


「にゃ、にゃぁぁぁっ!!」


 サラがいきなり後ろ足を持ってひっくり返したので、三毛猫は悲鳴をあげた。


「まあ、かわいそうよ!」


 焦るロミルダに、


「ご覧ください。タマタマがついてるでしょう?」


「にゃ、にゃっ! にゃにゃあああ!」


 猫がうるさく抗議するので、サラはカーペットの上に戻してやった。 


「本当ですわ! じゃあこの子は三毛猫のミケくんって呼びましょう」


 ロミルダはいそいそと、ミケのために飲み水を用意してやった。




 王宮からの沙汰を待つあいだ、猫のミケは不安なロミルダの心の支えとなってくれた。


「ロミルダ様、猫のエサ作って来ましたよ」


 部屋に入ってきた侍女を、いつもは優しいロミルダが珍しくにらんだ。


「サラ、猫ちゃんのお食事と言ってくださいな」


 エサと言ってはいけないらしい。ロミルダは綿棒で猫の耳の中をふきながら、


「それじゃあ耳掃除はこのくらいにしましょうねぇ」


 とろけるような声で話しかけた。サラが冷めた目でながめているのも意に介さず、


「お食事ですよ」


 手ずから、とろっとしたペースト状のエサを与えた。猫のミケは喜んで食べ、ついでにロミルダの指についた分までなめようと、器用に両手で彼女の手をはさんだ。


「きゃぁ、ミケくんの舌の感触ザラっとして最高ですわ!」


「猫の舌って痛くないですか?」


「この刺激がたまらないのよっ」


 食事が終わるとミケはロミルダのひざの上に乗って、ぺろぺろと毛づくろいを始めた。そのうち前脚を隠したまま、目が開いたり閉じたりうつらうつら……。


「はぁぁ。かわいい……」


 ロミルダはうっとりとミケを見つめながら、そのやわらかい曲線を描く背中を優しくなでてやる。 


 ロミルダとミケは寝るときも一緒だった。枕の横で眠るミケの尻をぽんぽんとやわらかくたたきながら、ロミルダもいつの間にか眠ってしまった。




 しかし翌日の夕方――


「ミケ、ミケ! どこに行ったの!?」


 三毛猫は忽然と姿を消してしまった。


「おかしいわ! 窓もドアも閉めきっているのに」


 ロミルダはベッドの中、クッションの下、クローゼットの中など部屋中を探し回った。


「猫は小さなすき間でも通ってしまいますから」


 悲嘆にくれるロミルダのために、侍女のサラはほかの使用人たちにもお願いして、屋敷じゅう探してもらったがどこにも見つからない。


「あんなになついてくれる猫ちゃん、初めてだったのに――」


 ロミルダは魂の抜け殻になって立ち尽くしていた。日が暮れたのも気づかず、夕食にも手をつけず、ベッドのはしに腰かけぼうっとしていたとき、また突然騎士団がやってきた。


「こんな夜中に!?」


 サラが驚いて窓から正門を見下ろす。


「ロミルダ様、騎士団長がいらっしゃいましたよ!」


 放心状態のロミルダを立たせて、身だしなみを整える。だが今か今かと待っているのに騎士団はやってこない。かわりにアルチーナ夫人の金切り声が聞こえてきた。


「この無礼者! 私が魔女だなんてどこから出た嘘ですの!?」


「やめて! さわらないでよ!」


 ドラベッラの叫び声も聞こえる。窓から見下ろすと、騎士団は無理やり引っ張ってきた母娘を馬車に押し込み、正門から出て王宮の方角へ消えてしまった。


 だが王家の紋章付きの立派な馬車がもう一台、屋敷の下に止まったままだ。サラが不思議に思っていると扉がノックされ、モンターニャ侯爵を先頭に、複数の衛兵に囲まれたミケーレ殿下が姿を現した。


「ロミルダ嬢、余の部下が無礼を働いたこと、どうか許してほしい」


 謝罪するミケーレ第一王子に、ロミルダもサラも目を見開いた。


「とんでもないことでございます、殿下!」


 ロミルダは涙のあとを隠すように、微笑を作った。


「ロミルダ、父からも謝罪させてくれ。私が再婚した女は魔女だったのだ」


「なっ……」


 この告白にはロミルダもサラも言葉を失った。


「この十五年間、私は何も気づかずに魔女と暮らしていた――」


 モンターニャ侯爵はうなだれ、唇をかんだ。


「お父様、お顔をあげてください」


 ロミルダの声はいつもと変わらずやわらかい。


(お父様は宮廷でのお仕事が大好きな方ですもの。お義母(かあ)様と過ごす時間なんてほとんどなかったのだから、無理もありませんわ)


 父親を抱きしめ、その背中を優しくたたくロミルダを見ながら、ミケーレは小さくうなずいた。


「ロミルダ、君は心優しい女性だ。君を愛さないなどと言った余が間違っていた」


「まあ、殿下――」


 振り返ったロミルダの目に映ったミケーレの表情は、今まで見たことないほど優しかった。


(こんなお顔、猫ちゃんにしかされませんでしたのに……)


 不思議に思っていると、ミケーレがロミルダの手を取り、その甲に唇を近づけた。


「君がいとおしくてたまらないんだ。これから余のことはミケと呼んでくれ」


(んんん!?)


 ロミルダはぽかんとした。




 * * *




 余は物心ついたときから、この国の王となるべく育てられた。父母からは遠く離され、家臣たちはいつもうやうやしく頭を下げ、何を考えているか分からない。教育係は厳しく、法律の勉強に剣術、乗馬と休む間もなくしつけられた。心を許せる者は一人もいなかった。


 王宮内の人間模様を観察するうちに、宰相や大臣たちが水面下で権力闘争を繰り広げていることに気が付いた。人間には表の顔と裏の顔があり、誰も信用できないことを学んだ。余の前で家来がこびへつらうのは魂胆があってのこと。友人役を演じる貴族令息たちも、道化でさえ本当のことは口にしない。


 そんな殺伐とした生活の中で、余は三毛猫のディライラに出会った。余に愛情が育っていないと考えた教育係が、父に動物を飼うことを進言したのだ。なぜディライラが選ばれたのかは知らない。だが生まれて数ヶ月しか経たない彼女は母猫から引き離され、余のもとへ連れてこられた。


「分かるよ。僕も両親の顔なんてめったに見られないから」


 余が話しかけるとディライラは、


「ニャ」


 と返事をしてくれた。彼女と過ごすようになって初めて、今までの自分が孤独だったと知った。ディライラだけは本物の愛情を表現してくれた。それは余がこの国の第一王子だからではない。ディライラはそんなこと気にしないのだ。嫌なときは嫌、構ってほしいと寄って来たから遊んでやったのに、飽きたら寝る。裏表のまったく無い気ままなディライラがいとおしかった。


 いつの間にか余の知らないところで婚約が決まったが、人間の女を愛するつもりなどなかった。どうせ偽物の笑顔を向けるだけだ。余はディライラだけを愛して生きて行くのだ。彼女は決して嘘をつかないから――




 ある日、婚約者が手作りだとかいうクッキーを持ってきた。誰にでもへらへらとよく笑う女だ。何を考えているのかまったく分からないが、人間の頭の中になど興味はない。どうせドロドロとした欲望がつまっているだけだ。


 ちっとも甘くないまずいクッキーを二、三枚食べたとき、余の視界が変わった。周囲の家具がぐんぐんと伸び、巨大になってゆく。


(違う! 余が縮んだのだ!)


 ディライラと視線の高さが同じになって、初めて気が付いた。急に小さくなった余に驚いて、ディライラは身をひるがえして逃げてしまった。


(あの女め、余に何を食べさせたのだ!? やはりあの笑顔には裏があったか――)


 毒見を通さず口にしたことを後悔した。まさか婚約者が余に毒を盛るなんて考えもしなかったのだ。姿見の前へ移動して、余は息を呑んだ。


(ディライラ……!)


 余の姿は、彼女そっくりの美しいお猫様になっていたのだ!!


(これは素晴らしい! 人間には飽き飽きしていたところだ。猫なら気ままに生きられる)


 しかも愛するディライラと結婚できるかも知れない。余は心を躍らせて、お気に入りのキャットタワーで寝ているディライラのもとへ走った。このキャットタワーは、宮廷ご用達の家具職人に作らせたものだ。


「にゃにゃ、にゃにゃにゃ」

(ディライラ。余が分かるかい?)


 人間の言葉を話しているのに、すべてニャになってしまう。でも猫同士、ディライラには通じるはず。しかし――


「シャーッ」


 ディライラはキャットタワーの上から余を威嚇した。耳はイカ耳になり、全身の毛が逆立っている。


(そんな―― ディライラと心が通じないなんて……!)


 そのとき部屋の扉がノックされた。


「にゃ」

(入れ)


 いかん。人間の言葉がしゃべれない。


「ミケーレ殿下、いらっしゃらないのですか?」


 使用人が入ってきて、扉の前で見上げる余に視線を落とした。


「ディライラ様?」


 しかしキャットタワーの上で毛づくろいする本物と見比べて、


「ああ、金箔の首輪をしていらっしゃるから、あっちがディライラ様だな。まったくディライラ様、野良猫を連れ込んではだめですよ」


 使用人は腰をかがめると、余の首根っこをつかんだ。


「にゃーっ!」

(何をする、無礼者め!)


 驚くことに使用人は窓から余を放り投げた! 余の小さな身体は風に乗り、庭園の大きな木の上に乗っかった。と思ったら枝をすべって通りのほうへ――


 ボンッ! と音を立てて落ちたところは走っている馬車の上。


「何でしょう?」


 窓から侍女が顔を出すが、馬車の屋根の上で軽く打った腰をなめる余には気付かず引っ込んでしまった。


(あの侍女、見覚えがあるぞ…… あ。婚約者と一緒にいた――)


 名前は思い出せないが、クッキーを持っていたあの女だ。


(ということは、この馬車に乗っているのは余の婚約者か)


 予想通り、馬車はモンターニャ侯爵邸に着いた。余は素早く馬車から飛び降りると、使用人たちの足元をすり抜け、城壁脇の草むらを走り中庭へ入った。


(一体なぜ余は猫にされたのだ?)


 中庭に立つひときわ高い木によじ登り、開いている窓から屋敷の中にすべり込む。書斎机と壁に並ぶ本棚から察するに、この部屋は侯爵の執務室だろうか? 扉のあいだをひょろりとすり抜け、うす暗い廊下を歩く。


「大成功ですわ、お母様」


 若い女の声が聞こえて、余は足を止めた。


「あの粉を使ってロミルダはクッキーを焼きましたのよ。わたくしキッチンをのぞいて確認しましたわ」


「ふっふっふっ。私が入れ替えたこの魔法薬を使ったのかい」


 ドアの下からのぞくと、紫の髪をした女がコルクのふたをはめた怪しげな瓶を傾けている。中には白い粉が入っているようだ。 


(あの女は確か、モンターニャ侯爵の後妻だったな)


「第一王子は彼自身の宝物に姿を変えているだろう。今ごろ使用人が見つけて宝物庫に閉じ込めているころさ」


 女はくっくと笑い声を上げた。


「これで私の婚約者、カルロ様が王太子ね!」


 藤色の髪の少女がほくそ笑む。


(あれは弟と婚約したドラベッラだな)


「そうだとも! お前は未来の妃。私たち母娘でこの国を乗っ取るのだ」


 母親が両手を広げた。その手には、妖しくねじ曲がった古い杖が握られている。


(こいつが魔女だったとは――!)


 何年も前から侯爵家に入り込んで、機会をうかがっていたのだ。


(父上に伝えなければ)


 だがどうやって? 王宮に戻る方法すら見つからない。猫の小さな足で侯爵邸を歩きまわっていると、日が暮れてきた。突如騒がしくなったと思ったら、騎士団の連中がやって来たようだ。人の集まっている広間へ急ぐ。


「魔女め、ミケーレ王太子殿下を消してこの国を乗っ取る魂胆だな。お前を王宮へ連行する!」


 つかまったのか、と安堵して廊下からのぞくと、あろうことか騎士団長はロミルダを拘束している。


(そっちじゃない!)


 教えたいが伝えるすべがない。やきもきしているとモンターニャ侯爵が出てきて騎士団長を追い返した。


(やはりあいつは優秀なんだな)


 ロミルダを魔女と勘違いしている騎士団長は去り際に、


「魔女め、命拾いしおって」


 にくにくしげに吐き捨てた。


(ちっがーう! 魔女はすぐそこにおろうが!!)


 たまらず余は飛び出した。


(目を覚ませ、騎士団長!)


 額にしがみつき、目をのぞきこむが―― 


「いてぇっ! いてててて!」


 大騒ぎしやがる。余の考えはまったく伝わらないのか! 余はいつもディライラの考えていることが分かったぞ!?


「いまいましい猫め!」


 騎士団長は余の首根っこをつかむと、ぽーんと放り投げた。居並ぶ騎士たちの頭がすごい勢いで眼下を流れてゆく。


(落ちる――)


 身構えたとき、


「猫ちゃん!」


 やわらかい両腕に、余は抱きとめられた。深い海のように美しい瞳が余を見下ろす。


「かわいそうに、怖かったわね」


(余の婚約者――)


 ロミルダは人差し指で、余の小さな額をなでてくれた。それからぎゅっと胸に抱き寄せて、余を自分の部屋に連れて行った。余の小さな頬にロミルダの胸が当たっている。母親の胸にすら一度も抱かれたことのない余が―― うん、猫でいるって最高だ。


 しかし侍女は曲者だった。あろうことか余の両脚をつかむとひっくり返して、余のデリケートな部分を白昼の元にさらしたのだ!


「にゃ、にゃぁぁぁっ!!」

(や、やめろぉぉぉっ!!)


「ご覧ください。タマタマがついてるでしょう?」


「にゃ、にゃっ! にゃにゃあああ!」

(余の……余の―― ニャン玉があああ!)


 とんでもない女だ! 不敬罪で投獄してやりたい!


 すっかりすねて一人で毛づくろいしていると、ロミルダが飲み水を持ってきてくれた。この女は優しい。


 舌を出してぺちゃぺちゃと水を飲む余を、いとおしそうに見下ろしている。飲み終わって見上げると、ここへどうぞと言わんばかりに自分のひざをぽんぽんとたたいた。彼女の身体はやわらかくて気持ちいいので、遠慮なく乗らせていただく。


 首のあたりをさすられて、うっとり目を細めていると、


「あら、お耳の中がよごれていますわね?」


 と、余の尊い耳を引っ張ってのぞいた。


「にゃにゃ?」

(やめてくれないか?)


 見上げると、相好を崩す。


「かっわいい! 耳掃除してあげましょ」


「にゃぁぁ」

(やめろと言ったのだが)


「お返事できて偉いわね!」


 抗議しているのだがな? もしかしたらディライラも、余に文句を言っていたのかもしれない。意外なほど猫の言葉は通じぬものだな。


 だがロミルダの耳掃除は格別だった。耳の中だけでなく耳の周りも指先でさすってくれるのだが、これが最高に気持ちいい。鼻から額にかけて指先でなでてもらうと、恍惚として昇天しそうだ。


 ロミルダのひざの上で至福の時を過ごしていると、食事が運ばれてきた。木のさじを使って、とろっとした食べ物を余の口まで運んでくれるのだが、ロミルダは不器用なので彼女の手にもおいしいものがたくさんついている。思わずぺろりとなめたら、


「きゃぁ、ミケくんの舌の感触ザラっとして最高ですわ!」


 歓喜の声を上げた。よほど余のことがかわいいのだな。


 食べ終わると眠くなってきて、毛づくろいもそこそこに目をつむる。


「はぁぁ。かわいい……」


 よだれを垂らしそうな声で絶賛された。これほど人間の女に愛されたのは初めてだ。余の背中をなでる手のひらはやわらかくて、あたたかくて彼女の愛が伝わってくる。生まれて初めて人間と心が通じたのだ。余はもう人の言葉は話せないが、こんなふうに愛されるならずっと猫でいるのも悪くないかもしれぬ。


 夜になるとロミルダは、余が彼女のベッドで眠るのを喜んで受け入れた。寝付くまでずっと、尻のあたりをぽんぽんとたたいてくれるのが気持ちいい。乳母さえ愛情をもって余を寝かしつけてはくれなかった。こんなふうに誰かと一緒に寝るのは、とても幸せなものだったのだな――


 深夜、余はふと目がさめた。猫の身体はしょっちゅう眠くなるが、人間ほど長時間眠らないようだ。


 ロミルダは寝息を立てている。


(愛らしい顔立ちをしておったのだな)


 婚約者の顔さえきちんと見たことがなかった。一生猫のままでロミルダと一緒にいたい。彼女に愛されていたい。


 余は彼女の頬をぺろりとなめた。精一杯の愛情表現だ。君はずっと孤独だった余に、初めて優しさを教えてくれた人間だから――




 だがその幸せは長く続かなかった。


 余は突然、王宮に戻されたのだ。


 昼のうたた寝から目をさますと、余は魔法陣の上に座っていた。周りを囲むのは宮廷魔術師たち。


「ミケーレ殿下!」


「転移魔法が成功した!」


「この猫が殿下だと!?」


「猫の姿にされておったのか!」


 口々に叫ぶ魔術師たち。


 どうやら余を王宮へ戻す転移魔法を使ったらしい。難しい魔術だから、大きな魔法陣と十人近い魔術師でようやく術を発動させられたのだろう。余が猫の姿に変えられてからずいぶん時間がかかったのも、そのために違いない。が、猫でいたときの時間感覚は人間と違うようで、何時間か何日か見当がつかぬ。


「ミケーレ殿下、こちらでお休みください。すぐに人間に戻すための魔法薬を作ってまいります」


 丁重に扱われ、ふかふかのクッションを敷いたゆりかごに乗せられた。だがどれほど丁寧に抱き上げられても、愛情のこもったロミルダの両腕にはかなわぬ。


 用意された水をなめたり、人間用の塩辛い食べ物に辟易したり、眠ったりしているうちに、魔術師たちがまずそうな丸薬をうやうやしく持ってきた。


(絶対苦いやつ――)


 一瞬、このまま逃げてしまおうかとも思った。


 だがロミルダの冤罪を晴らすには、余が人間に戻ってアルチーナの悪事を話さねばならぬ。


 意を決して、まずい魔法薬を飲み込んだ。


 視界がぐんぐんと縮んでいく。


「お帰りなさいませ、殿下」


 宮廷魔術師たちがそろってこうべを垂れる。


「すぐに騎士団長を呼べ」


 顔面にみみずばれを幾筋も作った騎士団長に、余は事の真相を話した。余の首根っこをつかんで放り投げたこの男を一発殴ってやりたいと思っていたが、顔面ストライプ柄を見て留飲を下げた。


 父上に報告している間に令状が作成され、馬車と馬の用意が整った。


 侯爵邸に訪問を告げては証拠隠滅される恐れがある。事前の通達はおこなわずに日暮れの街を駆け抜けて、我々はモンターニャ侯爵邸へ向かった。


 魔女の部屋は覚えている。位置記憶は人間より良いようだ。


「あの瓶に入っているのが魔法薬だ」


 余は砂糖によく似た白い粉を指差した。  


「この無礼者!」 


 騎士たちに両腕をつかまれた魔女が、紫の髪を振り乱して叫ぶ。


「気をつけろ! 魔法を使うかもしれぬぞ!」


 騎士団長が部下に向かって叫んだ。


「私が魔女だなんてどこから出た嘘ですの!?」


 魔女であることを隠すため、アルチーナは魔法を使わなかった。対抗する力はあるのに行使できないとは、忸怩(じくじ)たる思いだろうな。


 こうして我が王国乗っ取り計画は未然に阻止され、余は心優しいロミルダと結ばれた。




 * * *




「耳掃除を所望する」


 ミケーレはベッドの上で王太子妃ロミルダのひざに頭を乗せた。


「はいはい、殿下は本当に耳掃除がお好きですわね」


「殿下じゃなくてミケでいい」


 口調こそぶっきらぼうだか、子供のように――というより小動物のように甘える殿下にロミルダは内心驚いていた。


「それから余の頭をなでてくれ」


「こうでしょうか? 殿下」


「ミケと呼んでくれと……」


 心を閉ざした冷徹な青年という印象だったのに、妻である自分にはこんな愛らしい一面を見せてくれるなんて。


(かわいらしい方)


 ロミルダは、こっそりほほ笑んだ。


「ロミルダ、君にそろそろ真実を打ち明けようと思う」


 ひざに頭を乗せたまま、ミケーレは妻を見上げた。


「真実ですか?」


 ロミルダはきょとんとする。


「ああ、君ならば真実を知っても態度を変える事はないだろうから」


「わたくしは態度を変えるなんて器用なことのできる人間ではありません」


 ロミルダは笑った。教育係にも侍女にも、素直すぎるのは危険だといつも注意されてきた。


「確かにそうだな。君は猫のときと同じように、今も優しくしてくれる」


「猫……?」


 不思議そうな顔をするロミルダに、あのときの三毛猫は自分だったとミケーレは打ち明けた。


「だからミケと呼んでほしいのだ」


 ちょっと頬を赤らめてもう一度頼んでみる。


「まさかそんな……」


 ロミルダはあっけにとられて口元を押さえた。それからガバッと頭を下げると謝罪したのだった。


「ニャン玉見ちゃって申し訳ありませんでしたっ!!」


 ミケーレは真っ赤になった。


「それは忘れてくれ!!」

ブクマ、評価などいただけると今後の執筆の励みになります。


★★★★★の数で正直なところを聞かせていただけると、次回作のネタ作りに反映できますので大変勉強になります!


「しょーもないもん書くなボケェ!」の★ひとつでも構いませんのでお気持ち聞かせてくださいね!


※長編化しました! 連載版はページ下の猫ちゃんバナーから飛べます☆


※第2章まで完結済みのファンタジー長編もよろしくお願いします!


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『吟遊詩人にでもなれよと言われて追放された俺、実は歌声でモンスターを魅了して弱体化していたらしい。先祖返りによって伝説の竜王の力をそのまま受け継いでいたので、聖女になりたくない公爵令嬢と幸せになります』

精霊王の末裔
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― 新着の感想 ―
[一言] 猫の殿下をもっと長く読んでいたかったです。 可愛らしい話で楽しかったです。
[良い点] 後半のミケーレ視点で為人がわかって親近感が湧きました。ミケとロミルダの触れ合いにニヨニヨしました。 [気になる点] 猫になってるミケーレがロミルダにどっぷりハマっていくシーンがもっと見たか…
[一言] ニャン玉www
感想一覧
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