体が弱いのを忘れがち 2
形ばかりのノックのあと、すぐに扉が開かれた。
顔がどうにか入るくらいの隙間から、サラと同じ制服を着た侍女が見える。
室内を見回し、私以外に誰もいないと思ったんだろう。すぐに大きく扉が開かれ、彼女の後ろにワゴンを押したもうひとりの侍女がいるのが見えた。
「誰もいないじゃない」
「だからさ、大丈夫だって言ったのよ。ずっとこいつの傍についているほど、眷属? だって暇じゃないでしょ」
明らかに私を馬鹿にして見下していることを隠そうとしないから、性格の悪さが表情に出ている。
せっかくそこそこかわいい顔をしているのに台無しだ。
足元にいるリムには全く視線が向かないってことは、ふたりには見えていないのね。
「ほら、食事を持ってきてあげたわよ」
「ここまで来るのは面倒なのよ。ああ、部屋が汚くて気分が悪いわ」
侍女がベッドの傍まで押してきたワゴンには、雑巾を絞った水のような具のないスープらしき物とカビの生えたパンが一つ載せられていた。
ひどいとは聞いていたけど、ここまでとは思わなかった。
むかむかしてきて、気弱な演技なんて出来ないよ。
「それがあなたたちには食べられる物に見えるの?」
レティシアが俯きもせず、堂々と自分たちの顔を見て話すのがよほど意外だったのか、ふたりは目を大きく見開いた。
「な、なによ」
「だったらまず、あなたが食べてみてくれない?」
「はあ? 何を言ってるの? 魔力のないやつが偉そうにしないでよ」
この子たちは、眷属がいることは聞いていたのに私に魔力が戻ったことは知らないの?
「ふうん。そこまで言うなら、あなたたちはさぞかし魔力のランクが高いんでしょうね」
ゆっくりと身を起こし、彼女たちのほうを向いて座り直す。
そっとリムの頭を撫でたら、侍女たちは怪訝な顔で手の動きを見つめた。
「私ね、魔力が戻ったの。今はランクBよ」
「え?」
「て、適当なことを言わないでよ!」
「あまり生意気なことを言うと……きゃあ!」
さっきからリムが身構えていたから、たぶん飛び出すとは思っていたけど、ざっくりと制服の袖を裂き、腕に爪のあとが残るほど本気で攻撃するとは思わなかった。
見えない何かに襲い掛かられた侍女は、傷口を反対の手で押さえ、真っ青な顔できょろきょろとあたりを見ている。
傷口に血が滲んで、すぐに腕を伝って床に垂れるほどに出血しだした。
「な、なにをしたの?!」
仲間の怪我を見たもうひとりの侍女もパニック状態だ。
「この部屋には妖精がいるの。あなたたちには見えないのね」
「まさか見えてるの? だって妖精は……」
「どうでもいいわよ! 私は戻るわ。怪我の手当てをしないと」
冗談でしょ。まだ逃がすわけにはいかないわ。
あなたたちには聞きたいことがたくさんあるのよ。
慌てて立ち上がろうとしたのがまずかった。
ずっと寝込んでいて栄養が足りていなかったんだろうな。
貧血なのか眩暈がして、やばいと思って何かにつかまらなくちゃって手を伸ばして、掴んだのは毛布だった。
ベッドのふちに座っていたら、たぶん顔から落ちたと思う。
でも、ふちまで少し距離がある場所で倒れたせいで、ベッドの木枠に腹を強打し、木の角にこすりながらずるずるとベッドからずり落ちた。
「うっ!」
木枠にぶつかるのも、ベッドからずり落ちるのも、普通の人ならお腹にあざが出来るくらいで済むことだ。
でもレティシアは死にかけた状態から戻ったばかり。
拒食症で栄養が不足して体はぼろぼろで、骨ももろくなっていた。
「ぐふっ!」
喉奥から何かがせりあがってきたので嘔吐するのかと思ったら、口の中に血の味が広がった。
胃のあたりの痛みがひどい。
もしかしたらろっ骨が折れて内臓に刺さったのかもしれない。
それか圧迫されて潰れたのかも。
痛みで気絶しそうだけど、今は駄目だ。
こいつらをこのまま帰したくない。
弱みを見せたくなくて、ベッドからずり落ちた体勢のまま、問題なんてないんだという顔を侍女に向けたつもりだったけど、よく考えたら床に腕をついてどうにか身を支え、ずり落ちてさかさまになった状態で、顔だけは自分のほうを見上げてくる黒髪を振り乱した女ってホラーだよね。
それにどんどん血が口に溜まっていたものだから、口角をあげて笑った顔を作ったら、口の端から血が溢れてつーっと顎を伝って床に垂れた。
「ひいい!」
「な、なななな」
ばたん!
「扉が!!」
「いやあああ!」
このタイミングで扉が閉まるのってすごい演出だな。
リムがやったのかな。
ともかくこの体勢がつらいから、ベッドに戻るか床に降りるかを選ばないといけないんだけど、ベッドに身を戻す筋力なんてあるわけがない。
じゃあ、床までうまく滑り降りられるかって言うとそれも難しい。
たぶんどさっと落ちてしまうだろう。
「レティ! 大丈夫? どうしよう!」
慌てふためくリムを安心させたくて、つい口を開いてしまった。
「かはっ!」
口の中に大量の血がたまっているのに口を開けたらどうなるかなんて、誰にだってわかる。
何か言わなくちゃって中途半端に息を吸おうとしたせいで咳き込んで、一気に血を吐き出してしまった。
ぼたぼたぼたと床に血が飛び散り、服が真っ赤に染まった。
「レティ!!!」
安心させるつもりが、余計に心配させちゃっている。
リムはどうしていいかわからずに、空中に浮かんだまま右往左往している。
侍女たちのほうは、口の端から血を流しているくせに笑顔で侍女を見ていた女が、突然大量の血を吐きだしたものだから驚きすぎて悲鳴も出ない。
こっちは痛みに耐えているっていうのに、侍女のひとりは気を失って、もうひとりは腰を抜かして扉まで這って逃げようとしている。
少しくらい助けようって気はないのか。
「レティ! 何をやってるんだ!」
ああ、さすがにこの状態だとフルンも慌てるのか。
「おろすから掴まれ」
「血が……」
「喋るな」
フルンに支えられて、どうにか床に座ることが出来た。
でも体を少しでも動かすと激痛が走る。
「これを飲め」
フルンが差し出してくれたのは、女神が用意してくれたポーションだ。
ありがたいんだけど、血はどんどんせりあがってきてるから、また口内が血だらけなのよ。
ポーションを飲むためには、これをどうにかしなくちゃいけない。
ここはしかたない。
あとで自分で掃除をするから、今は許してほしい。
俯いて口を開けたら、またどばっと血が床にこぼれた。
「レティ!!!」
今度はサラが戻ってきて、大量の血を吐く私を見て悲鳴を上げた。
「どうしたの? 何が起こったの?」
ちょっと待ってね。今、ポーションを飲んじゃうから。
「フルン! あんたがついていながらレティが死にかけてるってどういうことなの!」
「俺も出ていた」
「彼女をひとりにしたの?!」
やばい。修羅場になってしまう。
急いでふたを開けてポーションを一口だけ飲んでみた。
「おいしい」
あれよ、乳酸菌飲料っぽい味よ。
あまり甘くない分、乳酸菌飲料より好きかもしれない。
小瓶に入っている量も、ちょうど一日一本、この量を飲めばいいという容器と同じくらいじゃないかな。
「すごい。瞬時によくなるのね」
飲み込んだ途端に喉の不快感が消え、胃のあたりの激痛がスーッと消えていった。
普通に考えたら、吸収されるのに時間がかかるんじゃないかと思うところだけど、そこがファンタジーよ。
それとも女神のくれたポーションは特別なのかな。
『ポーションを作るのには魔法が使われているの。それは胃で吸収されているんじゃないのよ』
女神が説明に来てくれたよ。
この人、ずっと背後霊みたいについて回っているの?
「もう治ったんだからいいだろう。騒ぐな」
「治ったって、さっきまで痛い思いをしたことに変わりないでしょ!」
「失礼する……なんだこれは!!!」
「え?」
うわ、カルヴィンまで加わってしまった。
「ノックをしても返事がないから何事かと思えば、これは……レティシア?」
「た、助けてください。あの女が」
腰を抜かしたほうの侍女がカルヴィンの足に縋り付いたが、彼は愕然とした顔で私を凝視していて、侍女の存在には気づいていないみたいだ。
「レティシア!? 血が! 怪我をしたのか?!」
カルヴィンが悲痛な声で叫びながら私に駆け寄ってきたものだから、縋り付いていた侍女は蹴られて床に倒れ込んだ。
「どうしてこんな」
「あ、そこに膝をつくと血がついてしまう」
「そんなことはどうでもいい。これはどういうことですか! なんでレティシアがこんな目にあっているんです?」
「まったくよ。彼女に怪我を負わせるなんて傍にいる意味がないじゃない!」
うわ、サラとカルヴィンのふたりでフルンを責め始めてしまった。
サラはまだしもカルヴィンまでが、そこまで怒るとは思ってもいなかった。
カルヴィンに蹴られて倒れていた侍女は、扉が開いていることに気付いて、今のうちにと四つん這いで廊下に逃げようとしている。
状況説明をするよりそっちに気を取られて、
「誰か……」
止めてというより早く、部屋に戻ってきたブーボが鋭い足の爪で彼女の背を上から蹴りつけた。
自業自得とはいえ、ぼこぼこにされているな。
「申し訳ないが、あなたにレティシアを任せられない」
「ちょっと待って。今まで彼女を守ってきたのは私たちよ。何もしてこなかったあなたが何を言ってるの?」
「ふたりとも少しは落ち着け」
「「あなたのせいでしょう!」」
あっちでもこっちでも同時に事が進んでいるせいで、収拾がつかなくなってしまっている。
「はい! 注目!!」
両手を合わせて音を出し、声を張り上げた。
「フルンのせいじゃないのよ! 私が自分でベッドから落ちたの!」
みんな、ちゃんと注目してくれたし話も聞いてくれたけど、全員で呆れた顔をしないで。
さすがに私もちょっと傷つく。
「女神さまのおかげで普通に生活できそうだったから、ついさっきまで死にかけていたのを忘れてしまって、急に動いて立ち上がろうとしたら眩暈がしてしまったのよ」
「なんでそんなことをしたんだ?」
眷属のフルンにきついことを言ってしまったカルヴィンは、ばつが悪いのか咳ばらいをしてから私の横にひざまずいた。
ああ、服に血がついてしまっている。
「あのワゴンの上を見て」
「ワゴン?」
私が真剣な表情で頷くと、カルヴィンはすぐに立ち上がりワゴンの傍に歩み寄った。
サラとフルンもワゴンの上の皿を覗き込み、皆の表情が同じように険しくなる。
気絶していた侍女をリムが猫パンチ三連続で起こしたので、侍女は目覚めてすぐ、凍り付きそうなほどに冷ややかなカルヴィンと目が合ってしまった。
「それがこの侍女たちが運んできた私の食事よ」
「な ん だ と」
手当をしていないから、侍女の腕からはまだ少し血が流れている。
ブーボの鋭い爪でのキックを食らったほうの侍女は、制服の背中が破れ血が滲んでいた。
でもそれを気にする者は誰もいない。
「ち、違うんです!」
この状況でまだ言い訳を思いつくなんて、感心する。
「侍女長がお嬢様の料理に毒を盛ったので、運ぶことが出来なかったんです!」
この世界に来て、まだ二時間ちょっとよね。
もう殺されそうになっているの?
ヘビーすぎる人生だな。
「侍女長が毒を盛ろうとしているのは本当だ」
ふわりとワゴンの上に舞い降りて、ブーボは胸を張った。
「だが、レティの料理にまだ毒は入れられていなかった。映像を撮ったから証拠はある」
「よくやったわ」
サラに褒められて、ブーボは嬉しそうだ。
「毒はよくわからないけど、あなたたちが運んでくる食事はいつもこんな感じよね」
また倒れたくないのでゆっくりと立ち上がる。
さすが最上級のポーションだけある。
骨も内臓もすっかり調子がいい。
ちょっとお腹がすいたと感じられるんだから、だいぶ元気になっているってことだよね。
「そ、そんなことは」
「あら、お嬢様が嘘を言っているというつもり? 何日か食事を持ってこないこともあったわよね」
サラの態度も今までとは違うので、侍女たちは何がどうなっているのかわからずにおどおどと皆の顔色を窺っている。
せめて素直に謝罪すれば……いや、許さないな。
「ちょっと聞きたいんだけど」
床に座り込んでいる侍女の正面に立った。
「育ち盛りだった私に、毎回こんな食事しか与えなかったら、死ぬとは思わなかったの? それもある意味人殺しよね?」
「そ、それは侍女長が、お嬢様をしつけるために食事は必要な時だけ別に与えているって」
「オグバーン伯爵にだけ優しくされて懐くように、私たちは冷たくしろって言われていたんです」
「だからレティシアを迫害したと?」
食いしばった歯の隙間から絞り出すような声で言いながら、カルヴィンは侍女の胸ぐらを掴んだ。
「この家の令嬢であるレティシアに、こんなことをして許されると思っているのか!」
「で、でも魔力が……」
「魔力があろうがなかろうが、彼女が僕の妹であることに変わりはない!」
う……わ。そんな台詞を聞くことになるとは思わなかった。
いやまだ信じちゃ駄目よ。
彼にとって私は、侯爵家再興のためにも自分の地位を確立するためにも、失っては困る最高の手駒なんだから。




