臆病なゴリラ 3
王都の屋敷の人は眷属にも転移魔法にももう慣れているだろうけど、領地の屋敷の人にとっては初めてのことなので、驚かせてしまわないようにあらかじめ使者を送った。
領地の屋敷にはヘインズ男爵という優秀な家令がいて、領地経営のほとんどを彼が指揮している。侍女長のスミスは子爵家の生まれで、侍女の仕事が気に入って結婚しないで働いているそうだ。
どうせ領地に行くのなら魔力吸収もしてしまおうと、ヘザーやクーパーも同行してもらうことにした。
領地に行くのにラングリッジ公爵領騎士団を呼ぶのはおかしいので、今回はクロヴィーラ侯爵騎士団を連れて行く。
騎士団長自ら同行してくれることになった。
「どうぞこちらからお入りください」
私たちが不意に中庭に転移魔法で現れても、初めて眷属に遭遇しても、へイング男爵は慌てた様子もなく部屋の中に案内してくれた。
カルヴィンは私がどんな状態に置かれていたか知ってすぐに、くそ親父を排除するために動きだして、彼らにも事情を説明して味方につけていたんだって。知らなかったわ。
くそ親父が問題を起こしたらすぐにわかるようにこまめにやり取りしていたとしても、カルヴィンもまさか暴力をふるうなんて思っていなかったみたいだ。
領地経営を疎かにするとか、カルヴィンや私にわからないように帳簿を誤魔化すとか、密かに一族の誰かと協力して返り咲きを狙うとか、そういうことを心配していたのに、起こした問題は一番弱い若い女性への暴力って……。
「旦那様は書斎におられます。おふたりは明後日にこちらにおいでになるので、歓迎の準備をするとお伝えしてあります。……それで朝からご機嫌がよろしくありません」
ここでは偉そうにしていられたのに、私が来たらそうはいかないもんね。
娘に馬鹿にされる様子を使用人に見られると考えたら、そりゃあ機嫌も悪くなるわ。
「暴力を振るうようになったのはいつくらいから?」
「二週間ほど前からです。被害にあった侍女が恐怖で報告できずにひとりで抱え込んでしまいまして、私どもが知るのが遅くなってしまいました。それで複数の侍女が被害にあっております」
ヘインズ男爵とカルヴィンの会話を聞いている間、私はぐっと拳を握りしめていた。
親だってひとりの人間なんだから、理想を押し付けてはいけないなんて考えていた自分を殴りたい。
日本の親も、あのくそ親父も、ひとりの人間として見たって最低最悪だ。
そんなやつらのために私が悩む必要なんてない。
私にまったく価値がないように扱った彼らはただの愚か者で、こんな優秀な人材をみすみす逃すことになっただけ。
彼らの言葉なんて気にする価値なんてないのに、いまだに心の奥で気にしていたんだとしたら、そんな自分の弱さが悔しい。
聖女が現れたら、私なんかのことは忘れて聖女を選ぶ?
この世界に来て私がやってきたことは、そんな軽いことだった?
そんな考えはもうひとりのレティシアにも、私を大事にしてくれる人たちにも失礼だ。
特に今の私は超ウルトラ希少価値のある巫子なのよ。
私に惚れる男のひとりやふたり、いて当たり前なの! ……たぶん。
あのくそ親父には、自分の愚かさのせいで私を敵に回したことを、一生後悔させてやる。
「不意を突いたほうがいいわ。証言はとれているんでしょう?」
「はい。侍女長が被害者を集めております。ただ彼女たちは……少々お待ちください」
小さなノックの音がしたため、ヘインズ男爵は話をいったんやめて扉を開けて外に出ていった。
まだ午後を回って少し経った時間だというのに、屋敷の中は静まり返っている。
くそ親父を刺激して、また暴力を振るわれたくはないから彼の部屋の近くには誰も近寄らないんだそうだ。
「若旦那様、侍女が書斎に呼びつけられたそうです。持ってきたお茶がぬるいとお怒りだとか」
「レティシア、行こう」
「部屋の前まで転移してもらいましょう。お願いしていい?」
振り返って尋ねると、眷属は三人揃って頷いてくれた。
「女性も一緒に来てほしいわ」
「侍女長が外で待機しています」
「呼んで」
屋敷に一緒に来ているメンバーの中には、いつも通りヘザーもクーパーもいるけど、知っている女性がいたほうが心強いでしょ。
クーパーはさっそく厨房に向かい、ダニーは魔力吸収の準備のためのメンバーをつれて部屋を出ていった。
「ヘザー、つらい場面かもしれないけど大丈夫?」
「だいぶ鍛えられましたので問題ありません」
「うん。ごめん」
いろんなところに連れて行っているからなあ。
今日もこの後ゆっくりさせてあげようと思っていたのに、また仕事ですよ。
「じゃあよろしく」
フルンがさっそく私たちを転移してくれた。
広い廊下の突き当たりにある大きな扉の先が、レティシアの父親であるくそ親父の書斎だ。
無意識に腕まくりしようとした手をサラスティアに止められて、なんでよと眉を寄せている間に、アシュリーがそっと少しだけ扉を開けた。
侍女がひとり、呼びつけられているんだったわね。
いったい何をしているんだろう。
「お許しください。お願いします。い、いやあああ」
考える前に体が動いて、がしっとノブを掴んで扉を押し開けた。
床には転々と血が飛び、女性が体を縮こまらせて倒れていて、彼女のすぐ前に鞭を振り上げたくそ親父が立っていた。
「こ……」
おそらくカルヴィンも考える前に体が動いたんだろう。
私が叫ぶより早く、すぐ横を駆け抜けて迷いなく思いっきり自分の父親の顔を拳で殴りつけた。
「な、何をするんだ!」
「それは僕の台詞だ。いったい何をしているんですか!」
殴られたせいで鞭を落とし、書斎の大きな机の上に倒れ込み、そのまま転がって床に落ちたくそ親父は、頬を手で押さえて涙目でカルヴィンを見上げて怒鳴ったけど、目には恐怖が浮かんでいる。
弱い人って言葉でどうにかしようとするじゃない?
彼もそうしようと口を開きかけて、でもすぐに私や眷属がいることに気付いたようで、慌てて起き上がろうとして、
「そのままでじっとしてな」
アシュリーに背中を踏まれて床に倒れ込んだ。
フルンもサラスティアもいるんだからあっちは平気でしょ。
私はそれより被害者優先よ。
「怪我をしているの?」
侍女長が侍女の隣に膝をついて小さな声で話しかけていたので、私とヘザーも男性陣の視界を遮るようにふたりの傍にしゃがみこんだ。
「はい。あの鞭で打たれたそうです」
侍女長の方に顔を押し付けて震えている侍女の足元に、点々と血が飛んでいる。
「ヘザー、ポーション出して。ちょっと傷を見せてね」
多少暗いけど怪我をしているかどうかは見える。
でも服の外に出ている部分には問題がないようだ。
もしかしてと、そっとスカートをめくってみて、
「カルヴィン! その男は若い女の子の太腿に鞭を振り下ろして喜ぶ変態よ!」
血が滲むみみずばれをいくつも見つけて叫んだ。
それも今回だけじゃない。
治りかけた傷の上に鞭を振り下ろしたせいで、傷口が開いて出血がかなりひどい。
「ちょっと痛いけど我慢してね、傷が残らないように全部綺麗に治すから」
「手伝うわ」
サラスティアが浄化魔法をかけてくれたので、すぐにポーションを傷口に振りかけた。
「そ、そんなにたくさん」
痛みが引いて冷静になったのか、私がポーションをジャバジャバ振りかけているのを見て侍女が慌てだした。
「お嬢様、そんなにかけなくても大丈夫ですよ」
「そ、それ、高いのでは?」
侍女長まで一緒になって慌てないでよ。
「いいのよ。あんな性癖を持つド変態のせいで、何度も痛い思いをさせてしまったんですもの。傷跡なんて残らないようにしなくちゃ。他にも怪我をしている子がいるんでしょう? 古傷も治るポーションを持ってきたから、この際、関係ない傷でもかまわないわ。全員の傷を治してしまいましょう」
「性癖って……」
サラスティアがぼそっと呟いたので顔をあげたら、カルヴィンも眷属たちも呆れた顔で私を見ていた。
御令嬢は性癖やド変態って言葉は使わないのかな?
「もう痛いところはない?」
「はい。ありがとうございます」
まだ涙が滲んでいる目で、でもけなげにお礼を言いながら頭を下げた侍女はなかなか可愛い子だった。
かわいい子を狙って言いがかりをつけていたんじゃないでしょうね。
「みんな、魔力吸収の準備をしているから、あなたもそっちを手伝って。あの男が二度とあなたたちに手出しできないようにするから、もう心配しなくて大丈夫よ」
侍女長が部屋の外まで侍女を送り出し、そこで待っていた人に彼女を託して戻ってきた。
アシュリーに踏みつけられたまま文句も言えずに横たわっている前侯爵は、それでもどうにか気丈に振舞おうとしているようで、眉をよせてカルヴィンを睨み上げた。
私じゃなくて、カルヴィンを。
「父親がこんな扱いを受けているのに、おまえは黙っているのか」
「父親? よくも恥ずかしげもなくその言葉を使えるものだ。あなたは一度も僕やレティシアに父親らしいことなどしたことがないじゃないか」
「ここまで……誰のおかげで……」
「あなたが何を言ってももう遅いってわからない?」
私の存在は無視しようと思ったのかもしれないけど、そんなのもうどうでもいい。
私も彼の意志は無視するつもりよ。
「私ね、この男に私と同じ目にあってほしいなと思うんだけど、フルンはどう思う?」
「その言葉を待っていた。このまま許してしまうのかと心配したぞ」
「まさか。神獣様の世話役でありながら、神獣様に魔力が届けられていないってわかっても気付かない振りをしていた罪は大きいわ。天候が悪くなってすぐに、侯爵の誰かに相談していたらこんな状態にはならなかったでしょ? 私のこともそう。魔力のない娘なんていなかったことにして、自分だけ平穏な生活をしようとしたのよ」
「そうね。嫌なことは見ない振りをして他人のせいにしてきたのよね」
話しながらフルンとサラスティアが前侯爵の傍に歩み寄ったので、彼は眷属三人に囲まれることになった。
「じゃあ彼を幽閉するのね? あなたが過ごしたような狭い部屋がいいわね」
「いいえ。それじゃ駄目よ。十年以上もあの狭い球体の中でじっとしていなくてはいけない神獣様のつらさも味わってもらわなくちゃ。自由に身動きも出来ず、ただじっとしているだけ。死なない程度に食事を与えて幽閉しましょう」
「待て……待ってくれ……」
チャンスはあげたのよ。
夫人はそのチャンスを掴んで、あなたは自分でチャンスを潰した。
「私には眷属がいたけど、あなたは大人だからひとりでも平気よね。そうして何年か閉じこもって反省してもらいましょう」
「いいね。気に入ったよ。この屋敷の人間は彼に関わる必要はないよ。全部こっちでやるから」
アシュリーが一番怖いって誰か言ってなかったっけ?
こんなに嬉しそうな彼を見るのは初めてだ。
「屋敷の敷地のはずれに小屋があります。昔は自然を楽しみながらそこで茶会を開いていたんだそうです。今は放置されて誰も近寄りません」
「いいね」
カルヴィンの提案にアシュリーは満足げに頷いた。
「もう彼のことは忘れていいよ。こちらで全部やるから」
「そうね。何年かして心を入れ替えるくらいに反省したら、解放してあげるわ」
「その前に狂うかもしれないがな」
解放される日なんてきっとこない。
処刑された国王やオグバーンと同じくらい、いやそれ以上に眷属は前侯爵に怒りを感じていた。
クロヴィーラ侯爵家が神獣の世話役になってもう何百年も経つのよ。
その間、ずっと魔力を神獣に捧げることでこの国を守ってもらっていた。
何世代にもわたる関係を、彼が壊した罪は大きい。
前侯爵を連れて眷属が転移して消えた後も、カルヴィンはしばらくその場で立ち尽くしていた。
彼にとっては実の父親の死刑判決を聞いたようなもんだからね。
ここはそっとしておいたほうがいいかもしれない。
「さて、魔力吸収とみんなの傷の手当てをしましょうか」
「レティシア様」
「私は大丈夫よ。彼と会話した記憶があまりないから、赤の他人と変わらないわ」
心配そうなヘザーと騎士団長に笑いかけようとして、侍女長が泣いているのに気付いた。
「ど、どうしたの?」
「カルヴィン様にお聞きしました。旦那様は、お嬢様は領地で病気療養していると屋敷の人達に話して放置していたんですよね。なんてひどい」
「眷属の方々には感謝してもしきれません」
ヘインズ男爵まで涙ぐんでいるじゃない。
うわ、誰もくそ親父の心配をしていないってことは、本当にひどかったんだな。
もしかして怪我人だらけだったり?
「と、ともかく怪我の手当てをしなくちゃ。その後で魔力吸収よ」
カルヴィンがどこまでそう話しているかわからないから、私からは何も言えない。
この話には触れないようにしよう。




