広がる波紋 1
ラングリッジ公爵は布団から出ている箇所には症状が見られなかったため、随分と衰弱しているなという印象しか受けなかった。
でも他の人たちは元の顔がわからないほど痣で変色してしまっていたり、腕が甲羅化していて指や爪の形が人間のものではなくなっていたり、気の弱い御令嬢では近付くのも難しそうな外見になってしまっている人が多かった。
症状が進んでいれば痛みも強いようで、もがき苦しんでいる人やもう死にたいと叫んでいる人もいる。
同じ立場の人たちのそのような様子を見聞きしながら、自分ももう助からないと覚悟しなくてはいけないなんて……。自ら命を絶った人も多いんじゃないかな。
一周し終わって、もう一度ラングリッジ公爵のベッドから二度目の吸収を進めていく時には、手伝いの人たちも私のやり方に慣れていて、事務的にサクサク動いてくれていた。
医療関係者ってすごいと思うわ。
本当は私もひとりひとりに寄り添って、もっと丁寧に対応したほうがいいんだろうけど、こっちの精神が持ちそうにない。
いや、彼らだってよく知らない女に同情されるより、無駄なく魔力吸収の回数を重ねて、早く痛みが軽減されるほうが嬉しいはずだ。
「痣の色が……少し薄くなっていませんか」
二周目が終わりそうなときに、何列か離れたベッドの患者を診ていた医師が呟くのがかすかに聞こえた。
「そうですね。気のせいではないですよね」
「このあたりまで痣があったと記されていますから、少しですが回復していますね」
その声は他の人にも届いていたようで、すぐに何人かが医師の元に集まりカルテを片手に患部を覗き込んでいる。
「あの……痛みが少し……楽になった気がします」
医師たちに囲まれていた若い騎士が、自信なさそうな声で言った。
顔の下半分が痣になり、首や肩の一部が甲羅化している患者だ。
言われてみれば痣の色が多少は薄くなったような気がしないでもない。
病は気からともいうし、よくなっていると思えることはいいことだと軽く考えて次の患者の魔力を吸収していてようやく、痛みを耐えるうめき声すら消えて、その場がしんと静まり返っていることに気付いた。
うわあ、患者たちが絶望の底で希望に繋がる細い蜘蛛の糸を見つけたような目で見ている。
瞬きぐらいしなさいよ。
ちゃんと呼吸はしてるんでしょうね。
私を見つめても病気は治らないわよ。
よし、二周目終了。さっさと離脱しよう。
期待を持つのは結構。
でもいろいろと聞かれて時間をとられるのは困る。
ひとりでも多く、少しでも多くの魔力を集めるために私は邁進するぞ。
ホールにいると大勢の人の視線が向けられるから、魔力吸収用の部屋を作ってもらってよかった。部屋に入ってほっとすると同時に肩に力が入っていたのに気付いた。無意識に緊張していたのかな。
それから昼まで魔力吸収を続けて、昼食をはさんで午後の作業に入る。
日本で働いていた頃と生活の基本は変わらない。
重傷者の魔力が回復したので、二時くらいに三回目と四回目の吸収をしてから休憩していると、しばらくしてクレイグが話をしたいと部屋にやってきた。
彼ですら私の許可がないと通さないなんて、アビーは優秀ね。
「重傷者の中にも病気がよくなっていると感じられる人が増えているよ」
お菓子を頬張っている私の前に、更に両手いっぱいに持ってきたお菓子を山積みにしながらクレイグが言った。
健康的に動けるように筋肉をつけたいのに、これじゃあ肥満になっちゃうでしょう。
「まだそんな気がするってだけでしょう?」
「それでもいいのさ。俺や軽症者の痣がだいぶ消えているのを見せたのもあって、ようやく回復すると信じられるようになったようだ」
四周目が終わって部屋に戻る時に、クレイグが自分の痣をラングリッジ公爵に見せているのは見かけていた。
死なせてくれと言い出す人がいなくなったのならよかったわ。
「きみには本当に感謝している。今後ずっと、我がラングリッジ公爵家はきみを恩人として守護していく。困ったことや協力してほしいことがある時には、いつでも我々を頼ってくれ」
「いいの? とんでもない要求をするかもしれないわよ」
「いいさ。それにこの何日かで、きみが真っ向勝負するのを好むタイプだというのはわかっている。大神官相手にも侯爵相手にも、筋を通している姿勢は好ましい。それはうちの家風にもあっているんだ」
神獣の巫子という立場を利用して偉そうに好き勝手していると思うんだけど、好意的に受け取ってくれるのならそのほうがいいわ。
「じゃあさっそくお願いがあるの」
「ほう。俺に出来ることならなんでもしよう」
患者用のベッドに腰を下ろしながら、クレイグはあっさりと頷いた。
私を信用しすぎだろう。
「剣術を教えてほしい」
「……そうきたか」
大きな手で前髪をかきあげ、そのままわしゃわしゃと頭をかきながら少しだけ考えて、今回もクレイグは笑顔で頷いた。
「いいだろう」
「本当!?」
「ただしまずは体力回復と体作りが先だ。料理はこの間の料理人が作っているんだったな。普通の食事に戻れたら、新人の騎士が体を作る時に食べる食事を用意してもらうようにしよう」
「おおお、そうなの。そういうのを教えてほしかったの」
前の体は元から健康で、子供の頃から運動と剣道を続けていたので自然と筋肉質な体型になったけど、今の体はそう簡単にはいかない。
食事療法については素人だから、ぜひとも教えてほしいわ。
「この神殿にトレーニング用の部屋があればいいんだがな。最初は短時間で無理のない運動から始めないと体を痛めてしまう。アビーとエリンにも手伝わせるか」
「おまかせください!」
部屋の隅に控えていたエリンが即答しながら駆け寄ってきた。
「レティシア様のおかげでまた痛みが減ったんです。私に出来ることがあるならお役に立ちたいです」
「ありがとう」
「明日から少しずつ始めよう」
令嬢には剣術なんて必要ないって言われると思っていたのに、こんなにいろいろ考えてくれるなんて、クレイグっていいやつじゃない?
これで体力づくりが一気にしやすくなったわ。
「失礼します。副団長、レティシア様、魔道士たちが正面から堂々とこちらに来たようで、入り口で騒ぎが起きています」
ノックの音がしてすぐ、アビーが少しだけ扉を開けて顔を覗かせた。
「本当に正面玄関から来たんだ」
「ピアーズ、すぐに動けるように部隊を待機させろ」
ええ!? 戦闘になるかもしれないの?
それはさすがにどうなの?
ここには転移で出勤しているから、本来の出入り口がどこだかわかっていなかった。
どうやらテラスだと思っていた大きな開口部が、神獣省の職員がいる建物に繋がる出入り口だったみたいだ。
雨が降っている時でも傘が必要ないように、屋根付きの外廊下が建物を繋いでいる。
そこを遮るような形で魔道士と騎士が並んで、その向こうにいる人たちと話しているのが見えた。
「サンジット伯爵、許可もなく侵入されては困ります」
「許可なら僕が出したよ」
アシュリーがさっそうとイライアスの隣に並んだ。
「……あなたは?」
「聞いたかい? 神獣省の職員が眷属である僕を知らないんだよ。そうだよねえ、二十年近くの間ただの一度もこちらの建物に職員は来ていないもんね」
「は? 一度も? 神獣様の世話係は毎日、無属性の魔力をお届けしなくてはいけないのではないですか? どうなっているんだ?」
最後の質問は職員に向かって言ったんだけど、もちろん職員に答えられるわけがない。
「し、しかし、ここの責任者はオグバーン伯爵でして、許可がなくては……」
「はあ、何を言っているんだ? ここは神獣様の神殿なんだ。人間でしかないオグバーンより眷属のアシュリー様のほうが立場が上なのは当然だろう」
「そもそもオグバーンは国王が勝手に神獣の世話役にしただけで、神獣様は認めてはいなかった。そんな男の許可に何の意味があるんだい?」
アシュリーもイライアスも楽しそうね。
職員は八人いるんだけど、立場が悪いのはわかっているから逃げ腰で、一番前にいる派手な外見の頭の悪そうな男だけがめげずに苦情を言っている。
きっと今頃、オグバーンに指示を仰ぐために誰かが馬を走らせているんだろうな。
となると、そいつが戻ってくると面倒よね。
「レティ、どうしたい?」
いつのまにかフルンが隣に立っていた。
「うーん、そうねえ」
魔道士があんなにたくさん来ているってことは、神官も同じくらい来るんじゃないの?
大神官が毎日ここに顔を出すのなら、彼のための部屋とかも本当は用意するべきなんじゃないかな。
だったら……。
「ちょっとついてきて。何かあった時はよろしく」
「わかった」
「いや、わからないでください。何かあっては困ります」
クレイグが文句を言っているけど、武器を持っていないひょろい職員相手にするくらいは平気でしょう。
魔道士と騎士と眷属がいるのよ。
戦力差を考えたら、彼らがまともなやつならここは穏便に済ませるわよ。
「イライアス、こんにちは」
「神獣の巫子様、騒がしくて申し訳ない」
巫子と呼ぶと言っていたのは、こういう時のためだよね。
確かに職員たちは、神獣の巫子がどういう立場の人間かわからなくても呼び名でなんとなく想像して、どう私に接するのが正解か考えているみたいだ。
「あ、あの……神獣の巫子というのは……」
「私はレティシア・クロヴィーラ。クロヴィーラ侯爵家の娘です。クロヴィーラ侯爵家が代々神獣様の世話係を務めていたのはご存じですよね?」
「クロヴィーラ侯爵家の令嬢? 魔力のない出来損ない……ひっ!」
急に横から剣の切っ先が職員の喉元に突き付けられた。
慌てて身を引きながら横を向くと、クレイグが冷ややかな目で職員を見下ろしている。
一番先に手を出すのがあなただとは思っていなかったよ。
「おい、そこのまぬけ。イライアスの話を聞いていなかったのか? この方は神獣の巫子であり女神の祝福を受けた方だ。大神官自らが自分と同等の待遇を得るべきだと明言している方だぞ」
「え? そんな……」
「名を名乗れ。どこの家の者だ。身分は?」
「ちなみにこの物騒な男はね」
イライアスは実に楽しそうにクレイグの肩に手を置いた。
「ラングリッジ公爵騎士団の副団長にして公爵家嫡男のクレイグだ。そして僕はサンジット伯爵。魔道省の副長官だ」
剣を突き付けられている職員は、剣先で肌が傷ついて血が流れているのにも気づかないほど驚き、目をまん丸にして固まっている。
えー、こんな有名そうなふたりのことも知らないの?
他の職員たちは逃げ出そうとでもしているのか、少しずつ後退り始めた。
「改めて聞こう。きみたち全員の名前と役職は? 身分は? 侯爵令嬢でもある神獣の巫子に無礼な言葉を吐いても許される立場なのかい?」
「許される人間などいない」
イライアスの問いにすかさずクレイグが続ける。
あなたたちはコンビか何か?
「情報が遅いねえ」
「オグバーンは自分の身を守ることだけしか考えていないんだろう」
彼らに任せることにしたらしいフルンもアシュリーも、面白がっているのを隠そうともしていない。
あー、妖精たちまでおもちゃを見つけたと思ったのか、職員の周りをぐるぐる回り始めた。
「ま、まさか妖精?」
「……どういうことだ」
「巫子なんて聞いたことがない」
ここ何日かで状況が目まぐるしく変化しているとはいえ、神獣のお膝元にいる彼らがこんなに情報に疎くていいのか?
何にもわかっていないんじゃないの?
「早く名乗ってくれないかな。まさか、僕やクレイグまで侮辱するつもりかい?」
「イライアス、相手にするだけ無駄よ」
いいことを思いついてしまった。
オグバーンが来るまでに片を付けてしまおう。
「クレイグ、彼らを捕まえて。神獣省の職員でありながらいっさい仕事をしないで給料だけもらっていた人たちよ。横領? 詐欺? なんでもいいわ。捕まえてから話をゆっくり聞けばいいでしょ?」
「なるほど、たしかに」
「そ、そんな権限なんてあなたにないでしょう!」
「たぶんあるわよ。今からあることにした」
「そんな馬鹿な!!」
喚いたってまったくの無駄でしかない。
クレイグの目配せでピアーズ子爵が指示を出し、あっという間に職員たちは捕まえられて後ろ手に縛られ、壁際に並ばせられた。
「こ、こんなことは許されるわけがない!」
「名前も名乗れない奴が何を吠えている」
「待ってください! 入らないでください!」
遠くのほうからも泣きそうな悲鳴のような声が聞こえてきたわよ。
そういえば大神官たちがまだ来ていなかったっけ。
「おや、これはどうしたんですか?」
神官たちは止めようとする職員を無視してどんどんこちらに近づいてくる。
大神官の横にカルヴィンもいるわ。
その隣は誰だろう。
あの存在感はただものではないわね。
「ハクスリー公爵」
クレイグが呟くのを聞いて改めてカルヴィンの隣のナイスミドルに視線を向けた。
公爵って王家の次にえらいんでしょ?
そんなに簡単にぽんぽん現れないでほしい。
大丈夫かな。礼儀作法なんて全く知らないんだけど。
「彼は裁判省の長官だ」
仕事が早すぎるだろう。
どうなってんのよ。