後編
「……来たんですけど」
「ふっふっふっ、よく来たわね」
ぼくが幽霊に言われた通り、放課後にもう一度トイレに来てそう呼びかけると、またトイレの床からにゅっ、と朝と同じ幽霊が姿を現した。ちょっと気持ち悪い登場だった。
「来ましたからハンカチ返してください。ちょっとトイレでなくしたってお母さんには言えないし」
「お、返してほしくなった……ってそんなちっぽけな理由?」
「トイレで、しかも変な人に取られたなんて、さすがに恥ずかしくてお母さんには言えないです」
「ちょっと待って。変な人ってどういうこと?」
「だって男子トイレの床から出てきたと思ったら、自分が幽霊だなんだとか言って人のハンカチとって。これが変じゃなかったら、なんなんですか」
「なんなんですかとか言われても。幽霊なの本当だし」
幽霊みたいなのがちょっといじけ始めた。まあ幽霊じゃなくても、床からはい出てくるのが人間なはずもないんだけど。
「そもそもハンカチって、そんな大事なものなんですか」
「……イタズラがしたかったのよ」
急にあたりの空気がしんみりしだした。なんだか、ぼくの方が悪いみたいな感じだった。
「あたし、学校にずっと行きたかったの。だけど、病気で行けなくて。やっと病気が落ち着いて学校に行けたと思ったら、一週間でたおれて、今度こそベッドから起き上がれなくなって。そんで気がついたら死んで、ここにいた」
「もうちょっといる場所考えたらよかったのに」
「考えたわよ、でもなんか知らないけどトイレから離れられないの。しかも男子トイレだし」
幽霊は自分の体を床から引きはがそうとする仕草をした。けど、その体はおもちみたいにびよんびよん、と伸びるだけで、床から離れそうな感じはなかった。
「あたしね、ずっと普通に学校に行きたかったから、それが未練になってるのかなと思って。幽霊になってからここでじっとしているうちに、そういえば友達にちょっといたずらして、みんなと一緒に楽しく笑いたかったのかな、って。思いついたの」
「それでぼくのハンカチを?」
「あんたは偶然床にハンカチ落としていったからよ。他の人はちょっと足引っかけてみたり、目の前で水をドバーッと出してみたり」
「なんか、やることがしょうもないっていうか……」
「うるさいわね、それであたしが満足してるからいいでしょ」
幽霊はしばらくむくれた顔をした後、ぼそっ、とした声を出した。
「……でも、正直外には出たい」
「え?」
「あたし別に、特定の誰かに恨みがあるとかじゃないし。呪ってやる相手もいないし、ただあたしのことを知ってる人に会いたかったな、って。でもあたしがどうしたらいいのか分かんなくてぼやぼやしてるうちに、同級生はみんな卒業して、五年も経っちゃった」
一人で誰にも声をかけずに、こんなところに五年もいたことの方が、ぼくはすごいと思った。幽霊が何をしてそんなに長い時間過ごすのかは知らないけど、きっとぼくだったらゲームがなきゃ退屈で退屈でしかたないだろう。
だからこそ、外に出たい、とふと幽霊の口から出たその言葉が、幽霊の本音なのかな、と思った。
「外、出ましょう。せっかくだし」
「はあ? だってあたしが五年かけても、出られなかったのに……」
「きっとできます」
ぼくには、自信があった。なぜかって、
「そうでしょ、陽香ねえちゃん」
その幽霊は、ぼくの知っている人だったからだ。
* * *
ここの小学校の近くに住んでて。
でもなかなか学校に通えるほどの体力がなくて。五年前に病気で天国に行った。
口を開けばいつも、学校に行きたい、ってつぶやいてて。
その話を聞いた時に、ぼくの中ではだいたい分かっていた。ぼくの家の近くにある公園でよくお話ししていた、陽香ねえちゃんだ。
そのことに気づいた時、ぼくは悲しかった。そんなに学校に行きたかったのか。死んでも幽霊になって、トイレにへばりついちゃうくらいに。そのことを考えて、ぼくの方がなみだが出そうだった。
でも同時に、うれしかった。あんなに楽しそうにぼくにいろんな話をしてくれた陽香ねえちゃんが突然いなくなって、ぼくは不安だった。それから死んだって話を聞いた時に、ぼくはなんでもっといろいろ話しなかったのかとか、なんでもっと早く会わなかったのかとか、しかたないことばかり後悔していた。
幽霊が陽香ねえちゃんだと分かって、ぼくはなつかしいような、くすぐったいような感じになった。
「カイト……あんただったんだ」
「陽香ねえちゃん、言ってたよね。ぼくと陽香ねえちゃんは、偶然か奇跡かで、切っても切り離せない関係があるって」
「……それ、そんなに真剣に言ってないのに」
「陽香ねえちゃんが真剣じゃなくても、ぼくは真剣だから」
ぼくは胸のところにつけていた名札を外して、陽香ねえちゃんの胸にそっとつけた。気づいたら、ぼくは陽香ねえちゃんにそうしていた。
「カイト……」
偶然か必然か、ぼくと陽香ねえちゃんの名字は同じだった。昔落ち込んで公園のベンチにぽつん、と座っていた陽香ねえちゃんに、そうやって名札をつけてあげたことがあった。
入院したら、もうそこから出られない気がしたから。
そう言って陽香ねえちゃんは、家でずっと病気を治そうとしていた。近くの公園なら出てもいいことになっていたらしく、あちこちに点滴の針が刺さった腕で、ぼくがつけた名札をうれしそうに触っていたのを、ぼくは思い出した。
「なつかしい、なんか」
夕日の光が、トイレの窓から差しこんできた。まぶしくて、ぼくは思わず腕で目をおおった。
「カイトはさ。あれから、元気にしてた?」
「うん、……でも正直、陽香ねえちゃんのことは、頭のすみっこに行ってたのかも」
「それでいいよ」
腕で目をおおうのをやめた時、陽香ねえちゃんはすっくと、トイレの床に立っていた。それまであるはずもなかった足を使って。同じ名字の名札をつけるのがそんなに特別なことだったのか、それとも思い出したことで、なんかミラクルみたいなのが起こったのか。
「イヤなことなんていつまでも覚えてたって、しんどいだけでしょ?」
「でも、陽香ねえちゃんといろいろ話したのは、楽しかったし」
ぼくたちは学校の中庭のベンチに座って、沈んでいく夕日を見ていた。たぶん他の人から見たらぼくがベンチの端っこに座ってるだけなんだろうけど、ぼくは確かに昔のように、陽香ねえちゃんと一緒にいた。
「けどまあ、あたし結局死んでるし。それで悲しい記憶になってるんでしょ、きっと」
「そうなのかな」
「もし、あたしが」
陽香ねえちゃんはぼくの頭をなでながら、口を開いた。
「あたしのことが気にならなくなったとか、忘れたとかでも、全然いいから。あたしはそれで悲しんだりはしないし、むしろそれはそれで、前に進めてるし」
それであたしの方が忘れられずに五年も閉じこもってるようじゃダメなんだけどね、と陽香ねえちゃんは独り言のように付け足した。
「けどよかった、ぼくが卒業する前に、陽香ねえちゃんに会えて」
「それはホントに。あたしもこのままトイレ生活終わらなかったらどうしよう、って思ってたところだった」
本当に夕日が校舎にかくれて見えなくなりそうになった直前、陽香ねえちゃんが突然立ち上がった。わずかに差してきた光に照らされた陽香ねえちゃんは、ちょっと影が薄くなっていた。
「……なんだ。カイトに会っただけで、すぐおさらばできそうじゃん」
「陽香ねえちゃん……」
ぼくが見ている間にも、陽香ねえちゃんの姿はどんどん薄れて、見えなくなっていった。
「元気にやりなよ、カイト。あたしはカイトに久々に会えて、よかった。あんたは?」
「そりゃ、うれしかったけど」
「そんな顔してたら、あたしふらっとまたこっち来て、カイトを呪っちゃおうかな」
陽香ねえちゃんがにっ、と笑った。点滴でなんとか痛みをおさえて歩いてた陽香ねえちゃんが、ぼくに何度かだけ見せてくれた笑顔だ。心配ごとなんてなにもない、と顔で言っている。
「あ、そうだ。カイトに渡そうかな。あたしのハンカチ」
もうほとんど見えなくなった手で、陽香ねえちゃんはぼくにハンカチを渡してくれた。陽香ねえちゃんは消えかかってるのに、ハンカチはしっかり触ってる感じがあった。
「それ、昔あたしが転んだ時に、カイトが貸してくれたハンカチ。返すタイミングがなくて」
「そんなの、あったっけ」
「あったあった。忘れてた?」
「うん」
「そっか、じゃあもらっとこうかな」
陽香ねえちゃんがもらっといてよ、とぼくも言おうとした。でも、一度ぼくが受け取ったハンカチをつかんだところで、陽香ねえちゃんの手がなくなった。
「陽香ねえちゃん……」
ハンカチはぼくの手の中に、残ったままになった。ぼくはそれをそっと、くしゃっとにぎりしめた。
* * *
「ああ、そうそう。前言ってたじゃんか。あそこのトイレ、幽霊が出るって話。最近全然出ないらしいぜ」
いつしか学校で、そんなうわさが流れ出した。そういう話をいち早く聞きつけるリュウが、クラスでみんなに広めていた。
あの日陽香ねえちゃんに会ってからは、文字がひっくり返って見える、なんてことはなくなった。あれもきっと、陽香ねえちゃんのいたずらだったのだ。
陽香ねえちゃんは忘れてもいいって言ってたけど、ぼくはきっと、当分忘れないだろう。幽霊に会って、仲良く話をしたなんてこと、そうそう忘れはしない。
「ありがとう、陽香ねえちゃん」
ぼくは自分の部屋のタンスの引き出しの中にしまってある、陽香ねえちゃんから返してもらったハンカチをそっと取り出した。それから折り目をきれいにつけ直して、もう一度タンスの中にしまった。