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前編

 ハンカチを落とした。

 ただ床に落としたんじゃない。あろうことか、トイレの床に落としてしまったのだ。


 もしこれが帰り道に道路で落とした、とかだったら、水道で頑張って洗ってちょっと乾かして、もう一回何事もなかったかのように使う、なんてこともできたかもしれない。

 けど、落としたのはトイレだ。しかも学校のトイレ。トイレの床に触れたハンカチってだけでもうイヤだし、もし誰かが見てて、


「あいつトイレに落としたハンカチ使ってるー! きったねぇー!」


 とか噂が広まったら、もうおしまいだ。小学生ってそういう噂が広まったら、下手すれば卒業までずっとその汚名を着せられたりするらしい。


「とりあえず拾わないと」


 いくら汚くて、見られたらえらいことになると言っても、さすがにほったらかしにしたまま帰るわけにはいかない。今は放課後、明日の朝にはお調子者のリュウが一番に登校してくる。なんでか知らないけどあいつはいつも、学校に来たらまずトイレに行くのだ。もしハンカチをほったらかしにしたまま帰りでもしたら、そうしてリュウが見つけて、騒ぎ出すに違いない。


 ぼくはおそるおそる、落としたハンカチの端をつまむようにして拾い上げた。別に床がぬれているというわけじゃなかったけど、やっぱり汚いからあんまり触るもんじゃない、という思いだった。

 けど、とりあえず水道で洗い流してやろうと思った、その時だった。


 ぐにゃっ、と視界が思いっきりゆがんだのだ。それはもうぐにゃっ、としか表現しようのない感じで、柔らかいチューインガムをこれでもか、と手で引き伸ばした時の様子に似ていた。それかねりけしとか、ピザのチーズみたいな。


 そのうち頭がくらくらしだして、やっとのことでトイレから出てから、記憶がなくなった。



* * *



「……ん、う」


 目を開けると、見慣れた天井が見えた。家のぼくの部屋だ。


「大丈夫なの?」


 ぼけーっ、と天井ばっかり見つめるぼくを、二歳年上の姉ちゃんがのぞき込んだ。いつもぼくが学校であった話をしてもなんでもおちゃらけて笑い飛ばす姉ちゃんが、この時ばかりは心配そうな顔をしていた。


「うん、大丈夫だけど」

「いやだって、トイレでぶっ倒れたって聞いたんだもん。貧血になるほど血足りてなさそうでもないし、何かあったのかなって」

「トイレではぶっ倒れてないと思うんだけど」


 ぼくはトイレの前で、結局気を失っていたらしい。それを警備員のおっちゃんが見つけて、お母さんに迎えにこいって電話がかかってきたと、姉ちゃんは言った。


「小学校のトイレくっさいもんねー、分かる分かる」

「そうじゃないよ。トイレでハンカチ落として、洗おうとしたら急に頭がぐらぐらしたんだよ」

「そんなこと言って。ウソが下手くそだって」

「ウソじゃないって」


 姉ちゃんがからかって、ぼくの頭を持っていたシャーペンでこつん、と軽く叩いた。全然痛くなかったけど、何すんだよ、とぼくは言おうとした。


「あれ? 姉ちゃん」

「なによ」

「シャツ反対に着てない?」

「え? うそ」


 ぼくはふと、姉ちゃんの方を見た。姉ちゃんは家にいる時はいつも、適当にタンスから引っ張り出したシャツを着ている。お母さんと姉ちゃんで何かのライブに行った時に買ってくるようなTシャツをよく着ているのだけど、その前側にでかでかと書かれている文字が反対に見えた。だからぼくは姉ちゃんにそう言ったのだ。


「……別に。反対じゃないけど」

「あれ? でも反対に見える」

「反対じゃないって。まだ頭ぼやっとしてるんじゃない? おとなしく寝とけば?」


 姉ちゃんはおやすみー、と言ってぼくのベッドの近くだけ暗くして、勉強机の方に戻っていった。ぼくは姉ちゃんが背中を向けるのを、小声でおやすみ、と言いながら見送った。


 姉ちゃんはシャツを反対になんか着てなかった。どうしてかって、姉ちゃんのシャツの文字は裏返ってるんじゃなくて、鏡文字だったからだ。

 姉ちゃんの言う通り、ぼくの目の方がおかしいらしかった。



* * *



「おかしいよなあ……」


 おかしいのはたぶん、ぼくなんだろうけど。

 あれから眠れなかったので、ちょっと家の中をうろうろしてみた。すると心配そうに声をかけてくれたお母さんの服に書かれている文字も、鏡文字になっていた。あまりにぼくがお母さんの服の文字を不思議そうにのぞきこむので、お母さんは首をかしげていた。ぼくはあんまり変なことを話すといよいよ本気で心配されそうだったので、素直にいつもより早めに寝た。


 けど次の日の朝起きてみても、文字すべてが鏡文字に見えるのは変わらなかった。ランドセルから引っ張り出した連らく帳の文字も鏡文字になっていた。連らく帳を書いたのは昨日ぼくがトイレの前でひっくり返る前なので、やっぱりぼくの目がおかしいと分かった。極めつけに、朝ごはんを食べる時、お母さんがパンに塗っていたジャムのビンの文字が、きれいにひっくり返っていた。


「やっぱりおかしい」


 ぼくは登校してから少し早足で教室に入って、急いで用意してから昨日のトイレにかけこんだ。昨日は放課後で近くにはぼくしかいなかったみたいで、ぼくがたおれていたとかいう話は広まっていなかった。


「とりあえず、もう一回落としてみるか」


 ぼくの作戦はそれだった。一回ハンカチを落として全部鏡文字に見えるようになったなら、もう一回落としたら元にもどるだろう。そのためにビニール袋に入れて、昨日のハンカチを持ってきていた。やっぱり汚いから、なかなか触る気にはなれなかったけど。

 おそるおそる袋からハンカチを取り出して、ぼくは思い切ってぱさっ、とトイレの真ん中でハンカチを落とした。他の人が見たらまず何やってんだあいつ、と言われそうなことをやってる。その自覚はある。


「あれ? 何も起きないな」


 今度は最初からわざと落としているので、ぼくはハンカチを落としてからその場で突っ立っていた。でも何も起きない。手洗い場にある「トイレはきれいに使いましょう」の文字もおかしいままだった。

 でもこのまま見える文字全部鏡文字なのはイヤだな、と思いつつ、ぼくはもう一回ハンカチを拾い上げて落とそうとした。その時だった。


「ちょっと。何すんのよ」


 ぼくは確かに見た。なんの変哲もないトイレの床からにゅっ、と青白い手が伸びるのを。

 その手はしばらくハンカチを探すように床をはいつくばっていたが、やがてあきらめたのか、


「よいしょっと」


 というこわさのカケラもない声を出して姿全体を現した。


「幽霊……?」

「失礼ね、あたしはれっきとした幽霊よ、なんで疑問形なのよ」

「いやなんか、おっさんみたいなかけ声だったし」

「そこ? そこ関係ある? 幽霊かどうか疑うポイントじゃなくない?」


 その幽霊の姿はなんの変哲もない女の子そのものだった。黒髪に服は真っ白なワンピース。ぱっと見ただけじゃ幽霊とは分からない雰囲気だった。


「いいから、そのハンカチよこしなさいよ」

「イヤだよ、なんで幽霊なんかにぼくのハンカチ」

「あんた、幽霊舐めてるわね」


 気がつくとぼくの手から、例のハンカチがなくなっていた。はっとして改めて幽霊の方を見ると、自在にその手が伸びていた。


「わあ」

「何よその気の抜けた声。もうちょっとこわがりなさいよ」

「うわあぁ~」

「いい加減にしなさいよ」


 だって今手が伸びたこと以外、どこにも幽霊要素がないんだもん。

 そのことを直接言うと、チッ、とあろうことか幽霊が舌打ちをした。


「見てなさい、今にもっとやばいことしてやるんだから」


 少し胸を張ってふん、と言った幽霊はしかし、ぼくの体をがばっとつかもうとした直前でぴたり、と動きを止めた。


「え?」

「……忘れてた。まだ朝だ。人来るんだった」


 確かにぼくも幽霊が出ちゃったことにすっかり気を取られて、まだ登校したばかりだってことをすっかり忘れていた。どたどたトイレの方に走ってくる足音がするその間に幽霊はまた床に引っ込んでしまった。


「あ、ぼくのハンカチ!」


 ハンカチも一緒に床に引き込まれようとしていた。


「返してほしかったら放課後に来なさい。絶対あんたにこわい思い、させてやるんだから」

「けっこうです、そのハンカチもう二回もトイレに落としてめっちゃ汚いし」

「そこはお世辞でも望むところだとか言いなさいよ!」

「いえ、けっこうです」


 ちょうどぼくが言い終わったタイミングで、足音の主がトイレに飛び込んできた。


「あれ、カイトじゃん。なにしてんの」

「え? いや別に、何も?」

「へえ」


 リュウだった。どうやら今日のトイレタイムは少し遅めだったらしい。リュウがさっ、と一番奥の小便器を陣取ったのを見て、ぼくもあわてて一つ飛ばしの小便器の前に立った。


「あ、そうだカイト。最近このトイレ、幽霊が出るらしいぜ。知ってたか?」

「え、マジ? 知らない」


 知ってる。さっき見たし。けど知らないと言っておいた方が話が進む気がした。


「女の幽霊なんだってさ。男子トイレなのに。オレばったり会ったら『キャー、変態!』とか言ってやろうかな、アッハッハ」

「ははは……」


 確かにそうだ。ここは男子トイレだ。でもあの幽霊は間違いなく、女子だった。しかもぼくたちと同い年くらいに見えた。あまりに気さくな幽霊すぎて、そんなツッコミをする考えにならなかった。


「放課後、かあ……」

「放課後?」

「あ、ううん、なんでもない。今日歯医者だったなあ、とか思ってさ」

「へえ」


 あ、宿題出すん忘れとった!

 思い出したようにリュウが叫んで、そそくさと便器から離れたかと思うと、ちゃっちゃか手を洗ってリュウはトイレを出ていってしまった。ぼくは少し幽霊が引っ込んでいった床の方を見た後、怪しまれないようにリュウの後を追いかけた。

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