第二話・市裏の街2
◇
翌日、黒澤はいつものように午後五時にアパートを出て事務所へと出勤しに行った。
(静かな朝だ。……いや、気分的には朝なだけで、実際はもう昼だが)通りを歩きながら黒澤はそんなことを思った。まだこの時間帯では人は疎らで、そのぶん心なしか空気が清浄な気がする。
この時間に大通りを歩いているのは、学校帰りの子供達(そう、驚くべきことだがこの街――正確には街の外に当たる場所なのだが――には、恵まれない環境で育つこの街の子供達のために、小さいがちゃんとした設備のととのった小・中学校がある)や、神崎組の傘下組織の内の一つである灰色のツナギを来た土木関係の人間、それにゴミなどを収集する清掃屋や工場区域の働き帰りである労働者たちだ。下品なほど建物に取り付けられた電飾看板はいまは沈黙して夜の到来を待ち望み、日の沈んでから覚醒する街はいま微睡みの中にある。その静かな街の様子は、この街の裏の面といったところだろうか。
黒澤たちの住むアパートから事務所まではそう距離はない。彼らの住むアパートは居住区域と呼ばれる、文字通りこの街の住人の大半の住居が密集している区域にある。事務所のある場所は、そこから建物と建物の間を縫うようにしてある谷間のような隘路から大通りへ出て、大通りの出口方面(内陸側だ)に向かって少し歩くと、そこに周囲の建物よりも背の低い寸胴の四階建ての建物がある。それが事件屋事務所兼椎名の自宅だ。一階は密造銃や改造武器を作るのが得意なフィリピン人のジェイコブという男に工房として貸し与えており、二階が事務所とジェイコブの共同物置。三階が事務所で四階が椎名の私室となっている。屋上もあるらしいが、そこは椎名以外は立ち入ることができない場所となっているためどうなっているのかは分からない。
黒澤は事務所の外階段をコツコツと靴底で音を鳴らしながら三階まで上がり、ドアを二回ノックしてから(とはいえ入り口に監視カメラが取り付けられていて、それを事務所の方でモニタリングされているのでノックは必要ないのだが)、申し訳程度の看板が掛かっているだけの分厚くて重たい鉄のドアを開ける。
事務所の中は仕切りのない広い空間になっている。天井では巨大なシーリングファンが音も鳴く回っていて、入り口から見て正面奥には、黒澤がいっぱいに手を広げても足りないほど大きく、重厚なアンティーク調のデスクがある。その上には三つのモニターが並んでいる。一つは監視カメラの映像モニター、一つはMacのメインディスプレイ、一つはそれのサブモニターだ。
「おはようございます」と黒澤。
「おはよう」そのデスク奥の革張りの社長椅子に座る椎名が言った。喪服のような黒いドレスを着た彼女がその高級椅子に座るさまは、彼女の容貌ゆえか、あるいはその椅子が大きすぎるゆえか、あるいはその両方か、まるで繭に守られた美しい少女を象った人形のように見える。しかし、少女のように見えても彼女は、なんの奇跡がなせる技なのか、少なくとも黒澤の母親より年上である。黒澤は彼女を見ていると年齢や時の流れなどという普遍的な概念を度々見失いそうになった。
「新しい仕事はなにか入ってますか?」と黒澤。
「いや、入っていないよ。今のところはね」椎名はどこか気怠げにも取れる鷹揚な口調でそれに答えた。「あ、そうそう。伝え忘れていたが、君はしばらく休みなさい」
「いいんですか?」と黒澤。
「ああ。君は今回、頑張ってくれたからね。雑用程度の仕事が入ってきたとしても、それは他の二人に回すつもりでいる。……というわけで、君はもう帰っても大丈夫だ。また仕事をしてほしいときには連絡をいれるから」
「はい。ありがとうございます」実は標的の男があまりにも無能だったので、疲れはしたがそれほど手こずらなかったのだが、椎名は子細な現場の事情までは知らない。しかし、なんにせよ休みがもらえるのならありがたい。基本は暇な仕事だが、こうして確実な休みがあるというのはいいものだ。
「それじゃ、お疲れ様です」
「ああ。ご苦労さま」黒澤は事務所を出た。
……とは言っても、仕事がなくなり休みになったはいいが、黒澤はその休暇を有効的に消化するだけの趣味もなければ、用事もありそうにはなかった。強いて言うなら、リンの用事に付き合わされるか、ニシと飲みに行くか、惰眠を貪るか、本を読むかの四択だ。これじゃまるで休日をどう過ごしていいか分からない独り身の寂しいサラリーマンみたいだ、と自分でも思うが、こればっかりは仕方がない。
(休みは素直に嬉しいんだが……)
事務所からの帰り道で黒澤は空を見上げた。薄汚れたビルに四角く切り取られた午後五時過ぎの晩秋の空は、のっぺりとした灰色の雲が天蓋を覆っているせいか既に薄暗かった。この時刻、街を出歩くにはまだ早すぎる。この時間では酒場も定食屋も開いていなければ市場の方も賑わってはいないだろう。あと数時間もすればまた話は違ってくるのだが、何時間も市裏の街を用もなく徘徊するつもりはない。
とぼとぼと人気の少ない大通りを歩んでいると、後ろから小さな駆け足の音と、子供の笑い声が聞こえてきた。かと思えば、黒澤のすぐ側をボールを蹴りながら数人の子供たちが屈託のない無邪気な笑い声とともに駆け抜けていく。
「オレ、母さんから小遣い貰ったんだ!」その中の一人の少年が言う。「ジジイんとこの駄菓子屋行こうぜ!」その彼の言葉に取り留めのない子供たち数人の歓声が答える。そんな牧歌的な子供達の戯れを傍目から見ていると、この街の子供も、この街の外で生きる子供も大して違いはなく、そして、なんだか自分の生きる非日常の世界がそんな風景を目にすることによって浮き彫りになったような気がした。
(今、この街は俺の時間じゃないんだな)そんな邪気のない子供達の背中を見送りながら黒澤は自嘲的に笑んだ。
外にいたところでやることもなかったので、仕方なく黒澤はアパートに帰って読書をすることにした。今日という日は、なにか用事が入らない限りは読みさしの本を読破するために充てるのだ。確か大量にあったはずだ。実際にアパートに戻ってから本棚の中にあるまだ読み終わっていない本を数えてみると、まだ読み切っていない本の数は実に二十三冊もあった。全く手を付けていないものが四冊。まだ読み始めたばかりの本が七冊。半分辺りまで読んだ本が十冊。もう少しで読み終わりそうな本が三冊。黒澤は逆トリアージで読み終わりそうな本から順番に片付けていくことにした。
ただ、全く手を付けていない部類に入っている興味本位で買っただけの小難しい哲学書や分厚い専門書なんかはそれでもやはり読む気が起きない。カントの純粋理性批判。ヴィトゲンシュタインの論理哲学論……斜め読みができればいいのだが、と黒澤は床の上に平積みにされた本を眺めてぼんやりとそう思った。まあ、斜め読みをして内容が理解できるような本ではないのだが。
それから二時間と少し、黒澤が三冊目の小説に取りかかっていた頃だった。ふと、何かを忘れているような気がして、一旦ページを捲る手を止めた黒澤はその正体不明の違和感いついて沈思黙考した。
なんだろう。俺は何かやらなくてはいけないことを忘れているのではないだろうか?
そして考え込んでから一分が経過して、黒澤はやっとその忘れ事に気が付いた。
(しまった!)そういえば、用事があった。すっかり忘れてしまっていたが、今日は人との用事があったのだ。そのことを思い出した彼は、開いていた本を本棚に戻した。そうだ、ここ数日の間働きづめだったのですっかり忘れていたが、今日はリンの勉強を見る日だった。
リンは今年十四歳になったばかりだ。十四歳と言えば、本来なら義務教育をまだ受けている時期であるが、紆余曲折あって彼女は学校に通っていなかった。だからその代わりに彼女の周りにいる大人――黒澤やニシや椎名が基礎的な教養を彼女に与えるわけなのだが、筋肉と暴力の中で生きてきたニシは加減乗除がやっとな有様だし、事務所の中でも一番教養があると思われる椎名はそれを面倒臭がってやろうとしないので、消去法的に(それは椎名から黒澤に与えられた仕事の一つでもあるのだが)黒澤が彼女の勉強の面倒を見ている。確かに仕事は休んでいいと言われたが、黒澤の中では既に彼女に勉強を教えることは仕事の一環というよりかは、日常生活での一つのルーティンとして意識に組み込まれていた。まさかそれを忘れてしまうとは。
外に出てリンの部屋を訊ねる。「リン!」ドアを叩き名前を呼ぶが応答はない。そういえば、読書に集中していて気にも留めていなかったが、今日は壁越しにギターの音が聞こえてきていないのを思い出す。
ということはつまり……。
「逃げられた……」ドアの前に立ち尽くした黒澤は思わずそう声に出していた。あまりにも勉強が苦手でそれゆえに嫌いな彼女は、まったく困ったことにこうして黒澤が勉強を教える日になると彼から逃げるため街のどこかに行方を眩ますのだ。三十六計逃げるにしかず。黒澤よりもこの街の地理について熟知している彼女を彼が見つけられた試しは過去一度もなかった。
完全な失策だ。黒澤は溜息を吐く。
(でも、まあいいだろう)黒澤も逃げたリンを連れ戻そうだなんて考えは、いい加減に捨ててしまっていた。そんな努力はどうせ徒労に終わるのだし、それに、一時凌ぎに逃げても無駄だということをリンはよく知っていた。彼女はいつかアパートに戻ってくるわけだし、さもなければ数日後には事務所で顔を合わせるのは確実であり、そうしたら今まで自分が逃げてきたぶんのツケが回って、きっちりと黒澤に絞られることになる。どのみち彼女に真の意味での逃げ場はないのだ。鬼ごっこのように、逃げる側というのは往々にして不利なものなのである。それは嘘も同じことだ。逃げることと嘘は似ている。
諦めた――というよりそのことがわかりきっている黒澤は、あえてどこかへ逃げたリンを突っつくことはせずに、部屋に戻って悠々自適と読書を再開することにした。どうせあと一時間もすれば、彼女は悪戯が飼い主にバレた猫のような少しだけ申し訳なさそうな顔をしてここに戻ってくるだろう。彼女はそういう性格だ。逃げることと嘘を吐くことが苦手なのだ。そしてなんだかんだ言いながらも根は真面目なのである。
◇
市裏の街は、知る人ぞ知る邦ロックの聖地である――というのも、今から何十年も昔に『パブリック・エネミー』というロックバンドが社会現象もかくやという勢いで全国的にヒットしたからである。
邦ロック好きなら言わずもがな、『パブリック・エネミー』は市裏の街出身の国籍も境遇もバラバラの四人組バンドだ。そのバンド名よろしく、彼らは暴力的なまでにラディカルで、暴力的な哀しみに満ちた、まさに『公共の敵』をテーゼとしたロックを奏でる集団だった。そこには間違いなく、この現代社会にあってうらぶれた日々を生きる人々の心を揺さぶる何かがあった。その何かは恐らく人によって違ったはずだ。希望だったり、あるいは抱いていた疑問への答えだったりしたはずだが、とにかく彼らのロックは人々の虚ろな心に響くだけの力を持っていたのは確かであった。
市裏が邦ロックの聖地と呼ばれるのは、このためである。因みに、俗世間離れしているリンだって、このバンドについて語るときには自然と拳に力が入ってしまう。
そして『パブリック・エネミー』を台頭として、彼らに憧れた幾人ものバンドマンが、この街からプロとして数年に一度排出されている。そのいずれも『パブリック・エネミー』の後釜としてその時代のロックをリードしてきた『本物』たちだった。
しかし、ここ近年ではまるっきりその影がない。確かにこの街にはかつての本物たちに魅了されてやって来る者が後を絶たない。その誰もが『パブリック・エネミー』をはじめとした伝説のロックンローラーのようになることを夢見ている。が、鋭く尖った才能や感性の持ち主を見なくなったのは、時代の流れのせいだろうか。言ってしまえば音楽でもなんでもそうなのだが「出尽くした感」があるのだ。あるいは「二番煎じ」とも言えるが。
それはとても悲しいことだ。
まあ、とリンは思う。アタシには時代の流れだとかそんなのは関係のないことだ。そんな些末な問題をいちいち取り上げて自分の可能性を検分する奴なんてのは、バカか才能のないヤツがすることだと相場が決まっている。
そんなリンは今、市裏の楽器通りを歩いていた。もちろん、黒澤の家庭教師から逃げたきたのだ。そのことを考えると気持ちが重たくなるので、リンは頭を振って、気を紛らわせるために人気のない閑散とした通りを大股に歩き始めた。
いま彼女の歩く楽器通りとはその名の如く、楽器店やスタジオやライブハウスが建ち並ぶ、聖地に生きるバンドマンたちのための通りだ。ギターやベースケースを背負った人々や、小さな溜まり場で楽器や音楽の話をする集団。日々を音楽に費やす夢追う人たちがここには集っている。たまにどこかの音楽事務所のスカウトマンとおぼしきスーツ姿の人間を見かけることも少なくはない。だから性風俗とはほど遠いところにあるこの通りには、ポン引きがいなければ当然娼婦もいない。それはこの街にあってある種では異様な光景でもあった。ここだけは市裏とは独立した、また別の街のようにリンには感じられた。恐らく、そう感じているのは自分だけではないはずだとリンは思う。けれど、時間帯のせいか今のこの通りは空いていて、いつもはうじゃうじゃと群れている色とりどりの人の頭数は少ない。ほとんどの店には、どこの誰かが残していった落書きだらけのシャッターが無愛想に下りている。
ふと、リンは自分がやってきた背後の道を振り返る。
(アタシが部屋にいないことに、クロはそろそろ気付きはじめているに違いないな)
こんなことをしても意味はない。リンにはそれがわかっている。それでも今日は面倒臭さが勉強することへの意欲に勝ってしまい、黒澤よりも遅い時間に椎名の元へ出向いた彼女は、そのままの足で楽器通りへと訪れていたのだった。さっき考えまいとしたはずなのに、また同じことを逡巡している自分はとんだアホだと思う。
(一度手を付ければ勉強だって楽しいんだけど。あとでクロには謝っておこう)
うん、それがいい。自分に向かってリンは納得したように頷く。
やがてリンは足繁く通っている楽器店の一つの前に来た。シャッターが中途半端に閉まっていたので、まだ開店準備中なのだろう。しかしどうせ顔なじみの店だ。開店準備だかなんだかの事情については構うまい。
『赤岩楽器店』――その縦長の建物の廃墟もかくやという外壁には、ところどころペンキの掠れた古い字体でそう書かれた巨大な看板が取り付けられている。リンは大量のポスターやホーロー看板の打ち付けられた、人間二人が譲り合ってやっと通れるような黒く狭い急階段を上がって二階にある店内に入る。店の建物は六階まであって、リンが今いる二階がギターやベースなどの楽器に関するものが置いてあって、二階にはドラムやジャンベ、カホン、エトセトラの打楽器に付け加え試奏スペースがある。三階は休憩所のような場所で、後の二階は小さなスタジオになっている。
店に入るとまず目に入るのは、レジのカウンターである。そこには筋肉質な体型を見せびらかすように黒いタンクトップを着た、厳めしい顔の男が宙に煙草の煙を吹かしながらだらしなく座っていた。彼がこの店の店主である。彼は室内でもサングラスをかけているが、きっと彼がサングラスを取ったら、きっとそこにあるはずの双眸はさぞかし可愛らしいモノに違いないとリンは見当を付けていた。
そしてそんなナリでも彼は一応、逆なでにした髪の大部分が既に白髪に浸食されているようないい年をこいた大人である。彼は階段を上がってきたリンの姿を見て、
「おうおう、困るねお客さん。まだ店は開けてねえぞ……」と煙草吸いすぎの嗄れた声で言った。「――って、リンか」
「よう、アタシで悪かったな」リンが軽口でそれに答える。
「誰も悪いとは言ってないが」
因みに彼の名前は柿沼という。店の名前が赤岩楽器店というのだから、当然店主の名前は赤岩だと誰もが予想するだろうが、とにかくここの店主である彼の名前は柿沼だった。詳しい事情はリンとて訊ねたことがあるわけではないので知らないが、きっと建物も古いし先代のオーナーから受け継いだ店とかそういう事情なんだろうとリンは無難に落としどころを付けている。だからいまさら彼の名前が柿沼であることには不満は感じなかった。
「ちょっと時間潰したいから、休憩室貸して欲しいんだけど」
「ああ。ちょっと待ってろ、まだ休憩室の鍵は開けてないんだ」そう言って、柿沼は抽斗から大量の鍵が付けられたキーリングを取り出して立ち上がった。リンは休憩室のある三階まで歩いて行く柿沼に付いていった。
「あそこ」階段を上りながらリンが言った。レジカウンターのことである。「留守にして平気なのかよ。防犯的な意味で」
「大丈夫だ。そのための防犯カメラだからな。それに無断で商品を持ち出せばセンサーが反応して、どでかい音量で警告音が鳴る仕組みになってるから、まあなにかあっても問題はないさ」とリンの前を歩く柿沼は言った。「この街のこの治安じゃ、いまどきどの店でもこれくらいの防犯システムは揃ってて当然だから、盗みなんてやるヤツは昨今滅多にいないさ」
「ふうん。ま、なにかあったらウチのところに依頼に来なよ」
「そうだな」と柿沼は頷いた。
それから三階の休憩室の鍵を開け
「切れてんじゃねえか!」リンが怒鳴ると、柿沼は替えの新しい弦をリンに投げて寄越し、弾くついでに弦も張り替えておいてくれと言った。仕方がないと呟いて弦を張り替えるリンの横で、休憩室の壁に貼ってあるライブの演奏者募集ポスターを見て柿沼が言った。
「そういえばリン、お前まだライブって出たことなかったよな」
「ない」膝の上でペグを回し、緩めた弦を全てニッパーで切りながらリンは答える。「まずバンドすら組んだことがないし」
「ていうか、組む気がないんだろ」と柿沼。
「そんなことはないけど」切った弦を一つ一つ外していく。
「じゃあなんでウチの店にあるメンバー募集の掲示板使おうとしないんだ?」
「ただ単に、しっくりこないからだよ」リンは言いながら、ブリッジから六弦を通し、余分な長さを切り落としたそれをペグで巻いていく。「だってさ、全員が全員アタシより一回りも二回りも年食ったオッサンなんだぜ? もちろん、もうちょっと若いヤツらもいるけどさ。でも、そのなかに入ってくのは流石にキツい」
「それもそうか」言って柿沼は苦笑した。「まあでも、いるにはいるんだよ。この街にもさ。お前と同じ年頃で楽器やってるやつ。なんだかんだ言いながらもこんな街でも子供はいるし、この街だからこそ音楽に憧れる子供も多いしな」
リンは何も答えずに弦を一つずつ新しく張り替えていく。
「なあオッサン」と全ての弦を張り終えたリンは口を開いた。弦を張り替えるのも慣れたものだ。「もし、アタシと同じような年で楽器やってて、まだ誰とも組んでねえヤツがいたら声かけといてくれねえかな」
「ああ。任せとけ」
「それとオッサン」
「なんだ?」
「張り終わったから、チューナー貸してくれ」
◇
赤岩楽器店でその後一時間ほどギターを弾いた後で、リンは黒澤の部屋のドアを叩いた。
それは奇しくも黒澤のほとんど予想通りの時間で、黒澤はノックの音と共に読んでいた本に栞を挟んだ。ドアの奥から声が聞こえてくる。「クロ、いるか?」
「来ると思ってたよ」黒澤は玄関のドアを開けてそう言った。リンは胸に二つの問題集とクリアファイルと筆記用具を抱えていた。「正直、俺はついさっきまで今日の勉強のことは忘れてたんだけどな」
「なんだよ、アタシはちゃんと覚えてたのに」リンは少しだけムッとして言った。
「覚えてたってことは、ちゃんと宿題はやってきたんだろうな?」と黒澤が揚げ足を取って言うと「……やってない」一転してリンは語調を弱めて身体を竦めた。
溜息が黒澤の口から漏れる。「宿題出したのって、一週間以上前の日だったよな?」
「……いや、だってホラ、仕事が忙しかっただろ? そんな暇がなかったんだよ」リンはなにかの重みを両手で測るような仕草をして、取り繕うような笑みで言った。
「ガキの本来するべき仕事がなんだか知ってるか?」と黒澤は言った。
「知ってるぜ。遊んで、メシ食って、寝て、マスかくことだろ?」
「ああ……」確かに彼女の意見も一理あった。しかし今はそんな話はしていない。「遊んでメシ食ってマスかいて寝てるだけの生活送ってるクソガキでも、学校に通って最低限の勉強はしてるんだよ。このままじゃお前、中国と北朝鮮の区別すら付かないような大人になるぞ。ちなみに、日本には今現在都道府県が幾つあるか答えられるか?」
「四十七だろ、バカにしてんのか」この街を一つの県として認めるか否かでそれは変わってくるのだが、一般的に学校の教科書に載っている日本の都道府県数はこの街を除き四十七と数えられている。
「都道府県の数を聞いて五十って答える日本人がいたら、お前どう思う?」
「とんでもないバカだ」
「それと同じだよ。この街の外に出て生きる上で最低限の教養すらないって、そういうことなんだよ」と黒澤は言った。「俺の言いたいこと、わかるか?」
「わかったよ。アタシが悪かった」リンはわかっているような、そうでないような口調で言った。「だからさっさと勉強しようぜ。勉強、勉強、勉強! 誰が数学なんてもん作りやがったんだろうな? あと日本に漢字を伝えた中国人も許さねえ」
「俺も大学受験とかテスト勉強してるときにはよくそう思ったよ」黒澤は過去のことを思って苦笑する。特に現代文や古文によく出てくる、百人一首の句の暗記は腹立たしかった。昔の貴族やら何やらが詠った和歌をなぜ暗記しなければいけないのか当時の黒澤には納得がいかなかったものであるが、それをしなければ点数が取れないので仕方なく覚えた思い出がある。今年で二十七歳となった今、彼は在りし日に辛酸を舐めながら覚えたそれらの俳句や和歌は何一つとして思い出せなかったが。
それから二人は場所を玄関から黒澤の部屋に移した。今日の科目は中学一年児レベルの数学と現国それに英語の基本的な三教科だ。他にも中学校で習う科目――社会と理科も一般的な子供より一年ほど学習内容こそ遅れてはいるもののリンは勉強している。それには必要最低限の教養を得るという目標とはまた別に、彼女なりの「いつかは街の外に出て生きて行きたい」という目標が絡んでいて、黒澤はそのことを知っているからこそ、こうして彼女の勉強に根気よく付き合っているわけである。
「ああ、そうそう」とやってこなかった分の宿題を苦戦ながらに解きながらリンが言った。視線は手元の問題に向けられているが、全く進んでいない。「この前話したカルト教団あっただろ。あそこの絡みで一つ問題が起こったらしい」
「問題?」それよりも手元の問題を解け、と黒澤が付け加える。
「わかったよ――んで、問題つっても喧嘩みたいなもんらしいけど」
「原因はなんなんだ?」
「さあ? そこまでは知らねえけど、大方の予想は付くよ。自分たちの胡散臭い宗教がばかにされて、それで片方がキレて喧嘩になったんだろ。いつも通りだ。結果は教団側数人が相手をリンチして終わったらしい。でもその結果はヤツらの喧嘩が強いからってわけじゃなく、単純に人数の差だったって話らしいけどな」
「へえ」この街で喧嘩は日常茶飯事だ。「それで?」
「リンチされたのが、神崎組の末端組織のメンバーだったらしいんだよ」
なるほど、と黒澤は思った。「それは大変だな」
神崎組――この街を仕切っている元やくざ組織の名前だ。今は市裏の治安や衛生など街全般に関する事業の管理などをする自治組織である。神崎組の構成人員をリンチするということは、街の一大組織に因縁を付けられるということと同義だ。恐らく、彼らはその相手が神崎組関係の人間だとは知らなかったのだろうが。
「同情する必要なんてねえよ」とリンは鼻で嗤った。「まあでも、神崎のおっさんもそれくらいでカルト教団相手にキレたりはしねえだろうけどな」
「そりゃそうだ」元やくざ組織の領袖とはいえ、黒澤やリンの知る限り神崎は逆鱗に触れない限りは滅多に気を荒げることはない政治家のような気質の真面目で面倒見のいい男である。ただ、彼の逆鱗に触れたことのある事件が過去に一度だけあったが、その時の彼の豹変振りはまるで彼が虎か竜にでも化けたかのようだったのを黒澤は覚えている。ニシでさえ彼の対応をするときは一歩引いていた。黒澤は続けて言った。「キレることはないだろうが、一応の制裁行動には出るだろうな。牽制、って意味合いも込めて」
「そうだな」とリンはペン回しをしながら言った。この件について、黒澤たちは無関係だ。隣の町で起こった火事について話し合うようなものである。
「それで」黒澤は机に置かれた問題集の内の一つを取り上げて、軽くリンの頭をそれで叩いた。「いい加減お前は勉強に集中しような」
それから勉強に行き詰まった(飽きた、と言ってもいい)リンの気分転換と昼食も兼ねて、二人はアパートを出て街へ繰り出した。目的地はいつもの定食屋だったが、リンが広場のステージで演奏しているロックバンドの演奏を見にいきたいというので、二人は少しだけ寄り道をした。
「今日はそこそこの演奏をするらしいバンドの演奏がある日なんだよ」リンは言った。この情報はさっきリンが黒澤から身を隠していたときに柿沼から「人の演奏を見るのも上達のための手段だ」と教えてもらった情報である。
実際に広場に行ってみると、広場の壇上ではフーファイターズの『ノーウェイバック』が演奏されていた。その次にボン・ジョヴィの『イッツ・マイ・ライフ』。ニッケルバックの『フォトグラフ』。いずれも一昔前に流行った洋楽で、バンドブームが直撃していた黒澤の世代にとっては馴染みの深い音楽たちだった。野外ステージ前にはいつも見かけるより多くの観客が沸いていて、壇上で演奏する彼らに向かって纏まりのない嬌声を飛ばしたり、腕を振り回したりしている。
「アタシにはなんの曲か全く分かんないけど」とリンは言う。「ああでも、この『イッツ・マイ・ライフ』ってのはどこかで薄らと聴いたことがあるような気がするな」
「有名な曲だからな。けど、まあそんなもんだよな」黒澤は苦笑した。二人の間にはジェネレーションギャップと呼ぶほど大きな年齢の差はないはずなのだが、やはり一回り年が違うだけで聴く音楽の傾向というのは相容れないほど異なってしまうものなのだろう。どれほどその時代を騒がせたアーティストでも、また違う時代になれば新しく生まれたアーティストや音楽たちに淘汰されてゆく。もちろん例外はあるのだろうが、そう考えると音楽ほど儚い芸術はないように黒澤には思えた。
――いや、黒澤は心の中で自らのその考察を否定する。それは別に音楽だけではなく、現代における芸術は往々にしてそういうものなのかも知れない、と。
二年前の芥川賞受賞者、アカデミー賞作品、世界文化賞作品、それらを覚えている者はいるだろうか? もちろん、いるにはいるだろう。が、ほとんどの人間の記憶には残ってはいないだろう。ただ実際にアンケートをしたわけではないので、そう断言できる根拠を示せと言われれば難しいので、敢えて断言はしない。
しかし、真実として二年前に栄誉を誇ったはずの芸術作品たちは、二年後になった今ではもうすっかりと世間から忘れ去られてしまっている。あるいはそれは太古の昔からあった芸術的淘汰であったのかもしれない。真に人々の記憶に残るのは、真に優れた作品だけなのは当然のことだ。
しかし、時代の流れが――トレンドの移り変わりがここ数年(黒澤がこの街にやって来る以前の話だ)で急激に速くなったのも否定のしようがない事実である。女子高生の話す言葉やテクノロジーの進化がその典型例だ。二年もすれば市場は全く別のものに移り変わっている。それはとてつもなく恐ろしいことだと黒澤は思う。まるで地面を抉る勢いで驀進する列車のように時代は移ろう。しかし、その列車は今や暴走している。そして暴走列車と化した列車の舵を取れるものはどこにもおらず、全人類を乗せた列車が進む先は地獄か、はたまた楽園か、そんなことは誰にも断言できない。けれど誰もが、この列車は着々と地獄へと向かっていることを予感している。
つまりそれが何なのかというと、時代の流れや、芸術の儚さについての彼なりの哲学だったりする。
そんな思考のなかを黒澤が彷徨っている間に、レッチリの『スノウ』とパブリック・エネミーの『インシュランス・タイム』が演奏された。インシュランス・タイムはそのバントが演奏したその日唯一の邦楽であり、大取を飾るに相応しい盛り上がりを見せた。
「そういえば、リンはなんでギターを弾こうと思ったんだよ?」とそれらの演奏が全て終わった後に黒澤が言った。
「アタシがギターを弾き始めた理由?」そして彼女は迷わずに言った。「わかんねえけど、なんか小さい頃から音楽が好きで、楽器は前々からこのステージで演奏してるヤツらを見ててやってみたいなって思ってたんだ」彼女は改めてステージに目を向けた。黒澤はそんな彼女の横顔を見た。その瞳の中にある種の憧憬のようなものが宿っているのを黒澤は認めた。彼女は少しの間を空けてから「……んで」と思い出したように話の続きをした。「やっぱり一番目立つしカッコいいのってギターだろ? でも実際に楽器を始めたのはそんな理屈っぽいところじゃなくて、もっと衝動的なものだった。気が付いたら貰った給料の一部を握りしめて、楽器屋で一目見て惚れたギター買ってた」
赤岩楽器店の、壁に掛けられていた黄色のテレキャスター。それを見た瞬間に止め処なく溢れてくる衝動を感じたのをリンは今でもまだ覚えている。三ヶ月貯めた給料と、その月の給料の半分以上をはたいて彼女はそれを買ったのだ。柿沼は後からリンがギターなんて触ったこともない初心者だと知って、あれこれと彼女に楽器をやる上での基礎的なことを教えたのだった。それは、黒澤の知らない彼女の過去の物語だ。
「なんかさ、お前見てるとたまにすごく眩しく感じるときがあるよ」それは黒澤の素直な気持ちだった。荒々しくも真っ直ぐで、時には詩的な一面がある少女。彼女がいま言ったことは、音楽を始めるにあたっては最高の動機だった。「案外、大物になるかもな」
「照れるからやめろよ」言って彼女は黒澤の背中を叩いた。「そういうクロはどうなんだよ? クロだってアタシにはできないこと、いっぱい知ってるし、できるじゃねえか」
「俺はそんな大した人間じゃない。何かになりたくて足掻いて、取りあえず色々なことをやってみたけど全部中途半端に終わった情けない人間の一人だよ」結局は最後まで自分が何になりたいのかすら分からなかった。そしてその内に自分が物語の主人公ではないと思い知って、全てを投げ出し、今はこの街にいる。
二人が話している間に、壇上の演奏者が交代した。自身のバンドで作詞作曲したオリジナル楽曲だとギターヴォーカルが言って演奏したその曲は、あまりにも酷くて広場でその内に野次や嘲笑の声が飛び始めた。それは黒澤に昔HOTLINEというバンドコンテストに出場した金魚草という高校生四人組バンドの演奏を彷彿とさせた。確か彼らが演奏したのはモンパチの『小さな恋の歌』だった。
「こういう演奏聴くとさ」と笑いながら黒澤は言った。「なんか、元気でるよな」汚いことだとは自覚しているが、下を見ることで自分の演奏テクニックや音楽の感性がマシなのだと分かるから。
「アタシは逆に恥ずかしくなるよ。自分を見てるみたいで」
「そう思えるだけ、まだお前は伸びるよ」黒澤は、チクリとなにかが刺さるような感覚を覚えながら言った。
二人は広場をあとにして、定食屋へと向かう。