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市裏の事件屋  作者: ジャックダニエル
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第一話・市裏の街


◇ 第一話・市裏の街


 思ったよりも早く仕事が片付いた――標的の男を確保した黒澤は息を吐いた。というのも、追っていた標的の頭が予想以上に悪かったからだ。もう名前は忘れてしまったが、とにかく路地裏で必死の逃走劇を繰り広げていた標的の男は、黒澤に追いかけられて逃げているつもりだったのだろうが、実際には路地の同じ所を無自覚にぐるぐると回っていただけだったのだ。その末に勝手に力尽きて座り込んでしまったのは、追う側の黒澤から見ていれば滑稽極まりない光景だった。

 (ま、それも無理はないか)。黒澤自身、この街に来てから数年が経つが、彼だってたまに裏路地に入り込んでしまえば道に迷うレベルでこの街は複雑な構造をしている。街の構造を十把一絡げに説明してしまえば、街の中央に二車線ほどの広さのある通りが走っていて、それを中心に細々とした路地がまるで蜘蛛の巣のように街に巡らされている。だからこの街では車の走行は不可能で、原付バイクがやっと走れるという有様だが、この街にあっては原付バイクも本領を発揮しない。まさに迷宮と言っても差し支えはない。物覚えの悪くて方向感覚がない人間なんかは、何年経っても道を覚えられない。たまに外からこの街までわざわざ取材にくる記者や作家がいるが、大抵の連中はこの迷宮の街で迷ってしまわないように道案内を雇うのが常套手段となっている。

 標的の男を捕まえ、上司である椎名に男の身柄を引き渡すと今回の黒澤の――あるいは事件屋の現場担当である彼らのその日の仕事は終わりとなった。あくまで現場担当である黒澤らの仕事は、標的の男を捕まえることであり、後の細かな事後処理は専門外である。今頃、捕まえた男の身柄を外の警察組織に引き渡す手続きなんかを、現場に出ない代わりに彼らの上司である椎名はやっている。

 事件屋。この街の外の人間や、あるいはこの街に住んでいる人間は彼らのことをそう呼んでいる。しかし、と黒澤は思う。事件屋とそう名乗れば格好はいいが、俺たちのやっている仕事の内容的には、そんなに大層なことはやっていない。今回はたまたま外から逃げ込んできた犯罪者を警察組織からの依頼を受けて確保するというものだったが、いつもそんな血生臭くて非日常的な仕事をしているわけではない。確かにどちらかといえばそれが本命の業務内容なのだが、そういうのは稀だ。頻繁に日本本土で犯罪が起こって、この街にそういう連中が逃げるようにしてやって来るというわけではないのだ。警察から逃れるためにこの街に来たところで結局は彼ら事件屋に捕まることを、日本国民の大多数の人間は、テレビやインターネットなどで知っている。だから一縷の望みを賭けてやってきた者以外、なにか犯罪を起こしてこの街にはやって来る者はいない。そして市裏に一度でも逃げ込んでしまえば、捕まったときの罪状は余計に重くなる。このシステムは日本本土の治安維持のためのものである。理由としては単純だった。人を殺し、犯してもこの街に逃げ込めばいいということになってしまうと、著しく日本の犯罪発生率が上昇してしまうからだ。それはそのためのシステムだし、警察の秘密組織として彼ら事件屋が存在している。

 けれども、事件屋の事務所に所属している人員が警察組織の一員なのかというと、それもまた違う話だった。黒澤自体よく理解していないのだが、そういった内部に精通している人間は恐らく上司である椎名一人だけで、他のメンバー(現在黒澤を含めて三人)は、彼女によって個人的に雇われたというだけに過ぎない。ただ、黒澤も他の事務所のメンバーでさえ、椎名について詳しく知る者はいない。

 さっき「外からやって来た犯罪者の確保という正規の依頼が舞い込んでくるのは稀だ」と説明したが、ではその依頼がないとき彼らはなにをやっているのか。それは雑多すぎて一概には述べることはできないが、キャッチコピー風に言えば彼らの日々の業務内容は「逃げたペットの捜索から、不良亭主殺し」、までの多岐に渡っている。もっと分かりやすく説明すると、依頼内容に相応しい額の金を受け取れれば、彼らは例外を除きなんでもやる『なんでも屋』、あるいは『よろず屋』ということだ。その依頼を受注するか拒否するかの全権は、彼らの上司である椎名が握っている。そして彼女は自分が現場に出ないのをいいことに、依頼された内容は金額次第でなんでも受けてしまう。

 多忙そうにも思える仕事だが、基本的には暇を持て余していることが多いのがこの仕事である。今日だってその典型的な一例の日だった。早く仕事を済ませてしまい時間を持て余していた黒澤は、歌舞伎町と秋葉原の通りを混ぜて、さらに混沌の具合を強くしたような市裏の名物である大通りをそぞろ歩きしていた。平均して十階を優に超える薄汚く、前近代的な鉄筋コンクリート造の灰色で無愛想なビルが密林のように立ち並ぶその通りは、いつものように猥雑な電飾看板によって極彩色に染められ、様々な種類の人間でごった返しており、それが生み出す下品な雑踏と喧噪に塗れていた。彼自身、この街で仕事を続けて数年、既に見慣れてしまったが、ここには下卑た汚らしい欲望が視覚化できそうなほど濃密に渦巻いている。

 (こんな場所に適合しつつあると考えると、自分が嫌になるな)

 市裏。落伍者の夢見る欲望の楽園。日陰者の住む街。屑の吹きだまりだ。ちょうど、顔のある一カ所にだけ集中して吹き出物が発生するような感じでこの街はできたのではないだろうかと歴史に詳しくない黒澤は思う。

 しかし、彼自身この街のことは、欺瞞に満ちた外の世界よりかは遙かに気に入っているのだが。市裏の方が外と比べて人間が人間らしく在ることができる。

 そんなことを考えながら通りを歩いていた彼の足は、仕事終わりにいつもそうしている習慣があるからか、自然といつも世話になっている酒場へと向かっていた。歩いていた大通りからどこかのバンドが演奏している野外ステージのある大きな広場に抜け、そこから一つ裏の通り――様々な違法輸入品(象牙や海外の動植物や昆虫など)や、それに混じってドラッグの売られている闇市の方へ渡って少し進むと、周囲のものより一等汚いビルがある。そのビルの三階に彼がよく世話になっている酒場『犬小屋』があった。因みに一階が違法ポルノのDVDショップで、二階がいわゆるヤミ金と呼ばれる金融会社の事務所なので、初見だととても入りにくいし、また気付きにくい店である。

 その立地条件の悪さから等外の酒場、犬小屋を知る人間は少ない。少なくとも黒澤は、身の回りにこの酒場のことを知っている人間を一人しか知らない。そのためテーブルも椅子も必要最小限しかなく、空間には余裕があって、この街の酒場とは思えないくらい落ち着いていた。酒場というより、バーのような趣きすらある。けれどこの街にそんなスノッブな連中が通うような上品な店はない。この街にあるのは、下品な連中が下品に安い酒を飲んで酔っ払うような店だけだ。

 ビルの階段を上り犬小屋の戸を開けると、やはり今日もそこは空いていた。シックとは言えないが落ち着いた内装。オーナーの趣味だろうか、曲名のわからないマイナーなジャズ・ミュージックのBGM。微かに漂うウィスキーの香り。部屋の隅に置いてある黒々として美しい艶を放つスタインウェイは寡黙に居座り、二つしかない古ぼけた木の円卓の席には誰も座っていない。カウンターには二人だけ先客が座っていた。その内の一つの背中は見覚えのあるものだった。熊のように大きく、シャツ越しにでもその筋骨隆々とした肉体が浮かび上がっているその背中は、同じ事件屋で働く黒澤の飲み友だちであり、仕事の先輩のものだった。

 「ニシさん」その背中に声をかけると、その筋肉で引き締まった巨大が回転椅子をくるりと回してこちらへと振り向く。「お疲れ様です」

 「おう、お疲れ。ここで会うなんて、奇遇だな」

 「って言っても、俺たちよくここで偶然に顔合わせること多いんですけどね」黒澤が彼と初めて会ったのも、この酒場だった。「特に仕事終わりなんか」

 ニシは笑った。「まあ、座れよ」そう促され、黒澤は彼の隣の席に腰を下ろす。

 「柴爺」と席に着いた黒澤は向かいのカウンター奥の端の椅子に小さく座っている老人に言った。「いつものウィスキーでハイボール」

 『柴爺』と呼びかけられた老人はゆっくりと一度だけ黒澤に頷いて見せた。

 老人はこの酒場のオーナーだ。彼はいつも首を振るか頷くかでしか客に意思表示をしてこない。だから彼が喋るところをニシも黒澤も見たことがなかった。そのせいで黒澤は最初にこの酒場へ来たとき、彼のことを惚けている爺さんかと思った。しかし注意深く彼を観察してみると彼の皺だらけの顔は不思議と引き締まって見えるし、双眸は怜悧に研ぎ澄まされた光を放っていることがわかる。注文だって一度も聞き逃したところを見たことがなければ間違ったところも見たことがない。ただ彼は黒澤たちの知らない何らかの理由があって、こちらに一切の感情を表示してこないだけだった。そういう佇まいも相まって、柴爺と親しみを込めて呼ばれるその老人は、ある種形容しがたい独特なオーラ、あるいは雰囲気を持っていた。

 そういう点では、椎名と老人はどこか相通ずるような感じを黒澤は覚えていた。椎名は見た目は異常に若く見えるが(何かの病気ではないかと思うくらいだ)、その話しぶりから黒澤が推測するに彼女は彼の母親より少し年上くらいの年齢――つまり五十そこそこだった。そしてその彼女の双眸も、老人と同じように常に泉の底に沈められた硝子の破片のように冷ややかで、鋭く、透明に澄んだ光を放っているのを黒澤は知っている。いったい、人生の内に何を経験し、何を見てきたら彼らのような瞳の輝きを得ることができるのか、黒澤には全く想像がつかなかった。

 それから暫くもしない内に、老人の手によって黒澤の目の前に注文した飲み物が置かれた。彼は柴爺に礼を言ってからそれを一口啜った。他の飲み物にはない穀物を発酵させた甘みが鼻孔を抜ける。

 「そういえば」とそのタイミングでニシが言った。

 「どうしたんですか」

 「いや、大したことじゃない」そう言ってニシはピスタチオの殻を剥いて、一粒それを口の中に放り込んだ。「お前がリンと一緒にいないのが珍しいなって思ったんだよ」

 リンとは、黒澤とニシの他にもう一人いる事務所のメンバーだった。

 「だってアイツ、酒が嫌いじゃないですか。飲むと脳味噌が溶けるし、アタシはまだ馬鹿にはなりたくないって言って」黒澤は苦笑した。。「多分、椎名さんの入れ知恵なんでしょうけど」

 「あれって本当なのか」

 「らしいですよ。アルコールを摂取すると、そうでない人よりも脳味噌の萎縮がはやくなるって、何かで読んだことあります」

 「でもそんなの、微々たるもんだろ?」

 「さあ……そこまで詳しいことは俺も知らないんですけど」しかし、人間は持っている脳味噌の機能を十分に使いこなせていないと一説では言われているのだから、その使いこなせていない分の脳味噌が萎縮していると考えれば、別に少しくらい脳が溶けたって構わないじゃないかと黒澤は思う。「まあでも、飲まないよりは飲んだ方が――って俺は思いますけどね」そう言って黒澤は何かを示すようにしてハイボールを大きく一口飲んだ。そうだ。脳味噌を犠牲にしてまで飲む価値のある酒はこの世にはある。

 「そうだクロ、お前の言う通りだよ」ニシは破顔した。その凶相からは想像できないほどフレンドリーな表情。「さすがだ、わかってる。柴爺、俺にもクロと同じハイボール。あと同じツマミをもう一皿」

 老人は頷いてニシさんに了解の返事をした。それからアイスピックで氷を砕く音、よく冷えたグラスに琥珀のテネシー・ウィスキーと割り材であるソーダが注がれる。マドラーで泡が立たないようにそれらは掻き混ぜられ、ニシの目の前のコースターの上に空になったジョッキのグラスと引き替えに静かに置かれる。ニシはそれを一息に三分の一ほど飲んで言った。「そうだ、飲まないよりは飲んだ方がいいに決まってる」

 そうして彼ら二人がいい気分になっている時だった。

 「なんだ、うるさいのがいるなあって思ったらアンタたちか」と言って一人の長身の女がカウンター奥の厨房から現れて彼らの目の前に新しいナッツの皿を置いた。シャツの上からでも分かる豊満なバスト、一昔前に流行った黒ギャルを彷彿とさせるようなきれいに日焼けした黒い肌と、片側の耳朶に付けられた大量のピアス。それに長くウェーブした栗色の髪をした彼女は、柴爺を除き犬小屋に二人だけいるスタッフの内の一人、コトネだった。

 「べつに、それほどうるさくはなかっただろ」コトネの言葉にニシが反駁する。

 「まあいいけどさ」とコトネは埃でも払うかのようにして手をヒラヒラと振った。「それよりアタシも会話に入れてくれよ。男二人でムサい話しても何も面白くはねえだろ?」

 「オーナーの前で堂々とサボり宣言って……」ニシは老人の方を一瞥して言った。「いいのかよ?」

 「イイんだよ、そんな細かいことは。こちとら暇すぎて閑古鳥が絶叫しちまうくらい暇なんだし。なんなら厨房に引き籠もってるミサキも引っ張ってこようか?」ミサキというのはコトネと一緒にこの酒場でスタッフをやっている、背の高く物静かで幸薄そうな女である。彼女はコトネと違って肌が白く、黒い長髪をしている。たまにここの酒場に置いてあるスタインウェイを弾いている時もあるが、あまり人に見られるのを好まないのか、客が来ると演奏を止めて裏に引っ込んでしまう。

 容姿といい性格といい正反対な二人。チョコとバニラのアイスクリームのようだと、以前並んで立っていた二人を見たときに黒澤が抱いた感想だった。精々似通っているのは背丈の高さくらいのものだ。

 コトネから聞いた話によると、この街に来る前から彼女らは同性のカップルとして付き合っていて、だから正反対の性格をしている割には人間としての相性はいいらしい。二人がどのようにして出会い、この街に来ることになったのかという細かい経緯までは黒澤は彼女から聞かされていなかったので分からない。しかし、それをわざわざ知りたいとは黒澤は思わなかった。誰もがなにがしかの事情を抱えているのがこの街なのだ。

 コトネは続けて言った。

 「それでアンタら。また街で追いかけっこをしてたんだって?」

 「ああ、まあ」とニシが答える。「人間と追いかけっこしたのは久しぶりだったけどな」

 「そういえば、この前は犬を追っかけてたよね」

 「野犬退治」と黒澤は言った。「その前は下水でネズミを追っかけてたな」

 「どうだった、久しぶりの人間との追いかけっこは?」

 「その相手が間抜けだったんで、犬やネズミよか退治しやすかったな」と黒澤。

 「犬以下の人間ってそれヤバいな」コトネはカラカラと笑った。

 「それが冗談じゃないんだよ――」そして黒澤は今回の事件での標的の間抜け振りをコトネに話して聞かせた。男がこの街に逃げてきた経緯から、路上での喧嘩によって面が割れて黒澤に特定され、それから追われるまでの一部始終。逃げなければならない立場であるはずの男は向こうからこちらに特定されにきたようなものだった。

 それから何杯かハイボールを飲んだ後で、黒澤とニシは犬小屋を出た。結局、ミサキは厨房に引き籠もったまま顔を出すことはなかった。

 犬小屋を出た黒澤は、街の方でまた別の用事があるというニシと別れて、居住区へと向かい事務所の所有するアパートに戻った。時刻は十一時四十分。外の街よりも幾分か夜に体内時計が傾いたこの街の住人は、この時間では誰も眠らない。空きっ腹でハイボールを何杯も飲んだせいか少しだけ酔いが回っていた。黒澤はアルコール臭い小便をしてからグラスに一杯水を飲み干し、冷たい水道水で顔を洗った後で、どうせ外に居たのならメシくらい食ってくればよかったなと後悔する。何か食べるものを探して冷蔵庫の中を見ると、腹の足しになりそうなものは見事なまでになにもなかった。

 (……いや、それよりもなんか眠くなってきたな)

 さっき、こんな時間ではこの街では誰も眠らないと言ったが、ここのところの仕事で黒澤は疲れていた。例の間抜けな男一人捕まえるのだって、簡単な仕事ではないのである。まず、仕事の手順としてこの街のどこに男がいるのかを特定しなければならない。そのためにはあまり広いとは言えない街を駆けずり回ったり、必要があれば細かな小道具などを探偵のように駆使して情報を集めなければならないわけだが、これが結構疲れるのだ。難しくはない。しかし体力と根気がいる。それは生半な作業ではない。黒澤はその作業を二日で終わらせた。というより、向こうからたき火を炊いてその煙でこちらに位置を報せにきたのだが。しかし、情けないことだとは自覚しているが、それでも疲れた。何せ警察組織がクライアントで、手を抜けない仕事だった。そして標的を特定してから男と追い駆けっこをして、捕獲し、今に至るわけだ。暇な時はとことん暇だが、一度こういった仕事が入ると相当に疲れるのがこの仕事なのだ。

 部屋のソファに寝転がった黒澤は、耐えられなくなって目を閉じた。そして自分がまだ風呂に入っていなければ歯も磨いていないし、それどころか部屋着にすら着替えていないことにやっと思い至ったが、目を瞑った瞬間にやってきた睡魔には勝てず、穴に落ちて行くようにして泥のような眠りに就いた。


 黒澤が再び目を覚ましたのは、彼が眠りに就いてからおよそ一時間後のことだった。

 (なんだ、なんの音だろう?)黒澤はまだ眠たい頭で寝惚け目を薄ら開き、自らを眠り起こす切っ掛けとなったその音をぼうっと聴いた。和音だ。それも不協和音ぎりぎりの。それは寝転がったソファの背の壁――つまり黒澤の住んでいる隣の部屋から聞こえてきているようだった。

 (トレブルかけすぎ歪ませすぎの耳に痛い音……寝起きの頭に響く……)

 隣室で鳴っているそれは、隣室に住む少女――リンの弾くギターの音だとその内に黒澤は気が付いた。とはいっても、やたらめったらに弦を掻き鳴らしているわけではなく、暫く音を追いかけていくと、それはちゃんと一つのフレーズとして鳴らされていた。

 やがてギターリフはバッキングに変わり、その音に付け加えて歌声も聞こえてくるようになる。聞き慣れたリンのハスキーな歌声だ。女性でこの声というのはかなり珍しい気がする。とはいえ、薄いとはいえ壁越しなので、掠れたリンの特徴的な歌声は余計にくぐもって聞こえてしまい、何を歌っているのかまではわからない。

 そんな具合にして半覚醒状態の黒澤の脳が徐々に覚醒状態に向かっていくにつれ、隣室から聞こえてくるその音は、規則性の掴めない音から一つの音楽へと形を成していった。黒澤はソファの上に寝転がったままその演奏を聴いていた。それにしても、最初の方に比べればうまくなったもんだ、と黒澤は思う。はじめに彼女にギターの弾き方を教えたのは確か俺がこの街にやってきて今の仕事を始めたのと同時期だから、三年ほど経つのだろうか。それだけの歳月でこれだけ上達できるというのは、一つの才能だ。ギターを弾くだけなら、悔しいが今では俺なんかよりもずっと上手だろう。

 ふいに、寝る前に感じていた空腹を黒澤は思い出す。「腹が減ったな」と独り言を呟いた彼は、それから仕事終わりの身の着のままだったことに気が付いてシャワーを浴び、歯を磨いた。眠気や疲れはまだ身体の隅の方にこびり付くようにして残っていたが、なんにせよまずは腹を満たしたい。冷蔵庫の中に食材は入っていなかったので、外に食べに行くしかない。黒澤は空腹に背中を押されながら手早く身支度を調えると、アパートの部屋を出て隣室の、リンの部屋のある玄関のドアを叩いた。

 もちろん、リンの部屋を訪れたのはギターの音について文句を言うためではない。外食に彼女を誘うためである。そして部屋の中の彼女に聞こえるように大きめの声で言う。「俺だよ。黒澤だ」

 すると微かに外まで漏れ聞こえてきていたギターの音が止まった。それからそろりとドアが開き、上下鼠色のスウェットに身を包んだリンが黒澤の前に出てきた。警戒心の強い猫のような双眸が黒澤を上目に見る。彼女自身そんなつもりはないのだが、相変わらずの目つきの悪さだった。彼女のことをよく知らない人間なら、睨まれたと勘違いしてもおかしくはない。実際に彼女と初めて会った時には、彼は訳もなく自分が嫌われ、睨まれていると思ったものだった。

 リンが言った。「なんだよクロ、音うるさかったか?」

 「そういうんじゃなくて」と黒澤は首を振った。「腹減ったから、メシの誘いに来たんだ、それとも、メシはもう食ったか?」

 「いや、まだ食ってない。作るのが面倒だったんで食べに行こうかと思ったんだけど、外に出るのも面倒だったからさ」ポケットに手を突っ込んだままリンは言った。「仕事終わってもすぐに帰ってこないもんだから、アタシはてっきりクロは外で食べてきてるのかと思ったけど」

 「そうしようかと思ったんだけどな。忘れたまま帰ってきちまった」

 「アホかよ」言ってリンはケラケラと笑う。「どうせ冷蔵庫の中にもロクなもんが入ってなかったんだろ?」

 「よくわかったな。缶ビールと麦茶と、それからしなびたキュウリしかなかった」

 「だらしねえなあ」リンは呆れて溜息を吐いた。

 「ここ数日、あの間抜けの特定に追われてたからずっと出先で食事を済ませてたんだよ」だから自炊をするための材料がなかったのだ。「それより、メシ食いに行くなら早く準備してこいよ。腹が減って目眩がする」

 「おう」リンは頷くと、バタン、という音を立ててドアを閉めて部屋の中へ再び消えていった。

 黒澤はリンを待つ間、空腹からくる口許の寂しさを紛らわすために、ポケットから煙草を一本取り出し、ライターで火を付けた。ラッキーストライク。紫煙を吸い込むと喉から肺に抜けて甘い味が抜けていく。煙草を吸うと、なぜだか無性にウィスキーが飲みたくなる。吐き出した紫煙は宙で白く蟠ったかと思うと、あるかないかの微かな風の流れに霧散した。リンは酒は嫌うが、煙草は嫌がらない。普通は逆だと思うのだが、それは恐らく煙草は脳味噌を溶かさないからだろうと黒澤は思う。まあ、煙草も脳に悪影響を及ぼすのには間違いないのだが、要するに、リンは肺は腐っても構わないが、頭の中身が足りないばかにだけはなりたくないのだろう。彼女の言いたいことはわからんでもないが、あの『人間失格』の著者である太宰治だっていっときはモルヒネなんて薬物に依存していたのだから、飲酒くらい問題はないのではないかと黒澤は思ってしまう。

二本の吸い殻を足下に落とした頃にリンが戻ってきた。紺色のシャツにデニム地のショートパンツ。踏みつけられても痛くない鉄板入りの編み上げブーツに、首には無骨なヘッドホン。年頃の割には服装に大した興味を示さない彼女は色が違うというだけでいつも同じような格好をしている。もうちょっと寒くなればその上にコートを羽織るくらいだ。とはいえ、その点では黒澤も人のことをとやかく言えたものではないのだが。

 「よう、お待たせ」リンが言って、二人はアパートから歩き出した。

 「どこか食べに行きたいところとかあるか?」

 「別に、いつもの所でいいんじゃね?」いつもの所――通りにある中央広場から、居住区よりの建物の中にある、安くて量の多い定食屋のことだった。メニューによって味の当たり外れはあるし、店内だってお世辞にも綺麗とは言いがたいが、概ねの料理は美味いし、綺麗ではないが不衛生なわけでもないので(第一、この街に人々が求める小綺麗な場所なんて、黒澤の知る限り高級娼館以外にはどこにもないわけだが)、リンも黒澤もどこかに外食をしにいくときはほとんどその定食屋で済ませていた。

 「お、そうだクロ。アタシ弦買いに行きたいから、メシ食ったあと楽器屋行こうぜ。ダダリオがまた伸びてきちまったんだよ」

 確か、彼女が弦を張り替えたのはつい二週間前だ。ということはそれだけで弦が草臥れてしまうほど練習しているということに他ならなかった。恐らく仕事以外の時間は全てギターの練習に費やしているのだろう。しかし、熱中するのはいいが黒澤には一つ心配事があった。「お前、練習するのはいいけど、ちゃんと勉強の方はやってるんだろうな?」

 一瞬の沈黙があった。

 「……やってる」そういうリンの口調は弱々しい。彼女は嘘を吐くのが苦手だ。

 「やってないんだろ」

 「うるせえ!」リンがキレた。逆ギレだ。鉄板入りのブーツが黒澤の尻を蹴る。配慮されているのか痛くはなかったが、彼女が黒澤に蹴りを入れたのは紛れもない事実だったので、お返しとして黒澤は彼女にヘッドロックをかけた。

 「痛え! クロ、マジで痛え!」

 黒澤は構いなく締め付けを強くする。

 「ちょ、マジ、ごめんって! ごめんなさい!」

 ごめんなさい、という言葉が聞こえたところで黒澤はヘッドロックを緩めた。「ったく」

 リンは捨て子としてある一定年齢までスラムで育ち、その後椎名に拾われてこの街で育った少女だった。彼女の年頃の娘と思えないほどに粗野で恣意的な性格はそのスラムでの生活の経験で培われたものである。さらにその小柄で女性というには貧相な体格も相まって、少女というより全体的に見て彼女は柄の悪い不良少年にしか見えない。現に彼女は自分のことを女だとは思っていない傾向がある。……というよりかは「年頃の少女」そのものの知識を彼女は持ち合わせていないのかもしれない。彼女が知っている女性というのは、街の擦れた娼婦と、血の繋がりはないが彼女の育ての親である椎名だけだ。しかし、だからこそ彼女は大人に混じってどんな荒仕事にも取り組むことができるし、黒澤やニシだって彼女のことを対等な仲間として扱っていた。取り分け、黒澤に関してはリンのことは弟のように思っていた。だから黒澤は自らの時間を割いてリンに色々なことを教えるし、夕飯にだって誘う。そして、そんな風にして大人達に認められながら日々を生きて行っていることは、彼女にとって一つの誇りであった。

 それから二人はアパート周辺の住宅区域の路地から大通りに出る。

 「そういや最近」と通りを歩いているときに出し抜けにリンが言った。「妙ちきりんな連中が多いよな。黒い変な衣装着た、カルト教団みたいな連中」

 カルト教団、と聞いて黒澤は束の間考え込んでしまった。

 「ああ――神和の光教団ってやつか」

 「そうそう、それだよ」

 「確かこの通りのどこかに本部があったな」黒澤の知る限り、カルト教団といっても彼らは危険な集団ではない。活動内容について市裏の住人に絡まれて喧嘩沙汰になることはしょっちゅうだが、それ以外には基本的に人畜無害な集団である。「でもあれ、ぽっと出の宗教みたいなもんだろ?」

 「いや」リンはふるふると前髪を揺らして黒澤の意見を否定した。「気付いてないやつが多いんだけど、あのカルト教団、実はずっと昔から存在してるんだよ。まだアタシが神崎に拾われて椎名に引き取られる前、スラムで一度だけ声をかけられたことがあるんだけど、その時に長ったらしくてオカルトな話をクドクドとされたのを覚えてる」

 「へえ。そんな昔からあるとこだったのか」リンの話は黒澤にも身に覚えがない話ではなかった。彼がこの街にやってくる前、仕事帰りの疲れている時に胡散臭い宗教団体の勧誘にあったことがあった。教祖がどうとか、我らが神がどうとかという話を一方的にされた思い出がある。無視しようが手で除けようがしつこく食い下がってきた彼らに、最終的に黒澤はストレスのあまりに怒鳴って追い払ったのだ。憤ろしい話だが、彼らは精神的に参っている人間を勧誘の対象とし、心の弱みに漬け込むような話をしてくる。よっぽど盲目な人間でなければそれを真に受けることはないだろうが、しかし、それを真に受けてしまうほど弱っている――あるいは頭の悪い人間がいるのもまた事実だった。そうでなければ彼らは勧誘なんてしないだろうから。

 リンは続けて言った。「だからそんな組織が少しずつ成長して、こうして人目に付くようになったってのが、ちょっとアタシには引っ掛かるし、薄気味悪い。なんか、あんましよくないことのような気がするんだよ」

 「なにか企んでるのかもな」黒澤は冗談めかして言った。「秘密結社みたいな」

 「秘密結社?」リンは首を傾げた。「なんだそれ」

 「フリーメイソンみたいなもんだよ」秘密結社とはなにか、その定義が黒澤にもよくわからなかったので、彼は誤魔化すようにして知っている有名な秘密結社の組織名を適当に挙げた。「あるいは薔薇十字団、KKK」

 「フリーメイソン?」案の定彼女はまた首を傾げた。「薔薇十字団、KKK?」

 「宗教みたいなもんだよ」

 「へえ……よくわかんねえけど、あのカルト教団もやってることは宗教みたいなもんだよな」

 「まあ、一般的に言う宗教ではないだろうけどな」俗に言う、キリスト教、イスラム教、仏教、などの世界宗教ことだ。黒澤自身は信心深くはないので無宗教だ。ただ、親族の葬式は例外なく神式だったのは覚えている。彼がまだ幼い頃、棺の中に入れられた祖母を見て「こうなりたくはないなあ」と呟いたことがあって、その後両親からこっぴどく叱られたのが印象深い。もちろん、悪気があっての発言ではなかった。ただ、いつか自分も棺の中の祖母のように老衰にせよ、病気にせよ、事故にせよ何にせよ死んでしまうのだと考えると、たとえそれが想像もできないほどにどうしようもなく先々の将来のことであるにせよ、恐ろしかったのだ。恐ろしく、そして果てしなく虚しいことに感じたのだ。その時はそういった漠然とした形而上的な感情でしか「死」を捉えられなかった故の失言だった。

 「そういえば、クロは今日はなに食べるつもりなんだよ」と話している間に定食屋まであと少しの距離だったのでリンが話題を変えた。

 「俺はいつものカツ定食がいい。それかカツ丼」

 「いつもカツだよな……」

 「今日は超大盛りを頼むんだ」

 「食い過ぎて吐くなよ?」リンが笑って、二人は定食屋の暖簾をくぐった。


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