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市裏の事件屋  作者: ジャックダニエル
1/3

プロローグ


◆ その1、市裏の街


 どこへ行っても逃げ場がない。

 まったく、なんだって俺はこんなにツイてないんだ!――男は心の中で自らの運命に毒を吐きながら狭く入り組んだ裏通りの道を、まるであみだくじでも引くような心境で、しかし頭の中でこの街の地図を必死に思い浮かべようと努めながら、路地を右折左折して走っていた。

 男が走っている理由は他でもない。古今東西、人間が必死に走るときというのは、それが追っ手から逃げる時だと相場が決まっている。だから彼がもっとも怖れたのは、追っ手を振り切る前に自分が知らぬ間に袋小路に突き当たってしまう可能性だった。そうなってしまえばゲームオーバーだ。しかし、このまま俺は首尾良く連中から逃げ仰せることができるだろうか? 相手はこの街を知り尽くした『事件屋』だ。対して俺はまだこの街に来てから一週間と経っていない新参者で、この迷路のように入り組んだ路地での追いかけっこは相当に不利だ。そして鬼ごっこというものは往々にして、追われる方より追う方が有利なものである。

 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 ことの顛末はあまりにも陳腐だった。笑ってしまうくらいに(実際、彼にとっては笑えない話なのだが)、安っぽいドラマの脚本のような成り行きだった。だからなるべく簡潔に話してしまえば、男はその時交際していた女と口論をしていた。しかし紆余曲折あって女との話は縺れに縺れ、面倒になった男は女を黙らせるために手近にあった灰皿で女の頭を殴りつけた。咄嗟のことだったので彼は手加減を怠った。それが災いして、当たり所が悪かったのか女は昏倒した後に二度と起き上がることはなかった。救急車は呼ばなかった。自分が昏倒させた女のために救急車を呼ぶほどの度胸が彼にはなかったからだ。その結果女は死んだ。そして警察に逮捕されることを怖れた男は、この街――市裏に逃げてきた。

 市裏――そこは日本国とはまた別に、奇妙な成り立ちをした街だった。

 市裏の名前は戦後にできたもので、元々は四国地方の徳島県にある松崎という地名だった。そこは戦前からやくざ者が多いために治安が悪かった。しかも本土から離れていたこともあり、第二次世界大戦で日本が敗走したのち外国の密輸船がひっきりなしに停泊し、そこから日本のやくざ経由で密輸物が次々と売りさばかれる巨大な違法マーケットが誕生した。松崎という地名が市裏へと変わったのはこの頃である。市裏の名は「裏の市場」という意味から取られている。それで当時、戦後の諸々の後始末に追われていた日本政府は市裏に然るべき対応をする余裕はなく、裁く者のいないマーケットはさらに肥大化し、そしてそこはとうとう一つの街へと成長した。ようやく日本政府がそちらに目を向けた頃にはもう後の祭りだったという。既にそこはやくざや無法者ののさばる街と化しており、行政はそこに関与することができなかった。だからここ、市裏には警察も知事も市議会も日本国憲法も存在しない。市裏の秩序を守るのは、元やくざ組織の運営する自治組織『神崎組』と『事件屋』という二つの組織だけだ。当然ながら日本とは思えないほど治安は悪い。それに裏では今でも違法な取引が横行していて、一日の犯罪発生率は百パーセントと言われている。だから男は警察に追跡される前にこの街に逃げ込んできたわけだった。アウトサイダーの住まう街、ここで時効が来るまで身を隠そうと、彼は安易な考えを抱いた。

 しかし、先に挙げた市裏の自治組織の一つとして『事件屋』という民間警察、あるいは事件団的な組織があった。それは外から街にやってきた犯罪者を、最低限の治安維持として制裁する組織である。一つの説では、日本国土の治安を維持するための警察の秘密組織だとも言われているが、とにかくこの街にはそういった組織があった。

 男はこの街に一つの知識として『事件屋』がいることは知っていた。それに彼らの仕事の手際のよさも話に聞いていて心得ていたつもりだったし、脅威にも感じていた。しかし、警察に捕まらないために彼はなにもかもを捨ててこの街に来ないわけにはいかなかった。日本の優秀な警察に追われれば逃げることは不可能だ。それと比較して相手が『事件屋』となれば話は変わってくるだろうと彼は考えていた。しかしここ数十分で彼は自分の認識の甘さを思い知った。彼は『事件屋』を侮っていた。警察も『事件屋』も脅威レベルとしてはさほど変わらないではないか。

 男は捕まりたくない一心で走った。喉の渇きも忘れ、喘ぐ呼吸も無視して必死に走った。そしてふとした隙に背後を振り返ると、さっきまで自分を追ってきていた男の姿が消えていることに気が付く。そういえば、もう随分前から背後に足音を聞いていないような気がする……。

 (撒いたんだ……)駆け足か立ち止まった男は胸を撫で下ろした。そうして息も絶え絶えに、訳の分からないもので黒く煤けて汚れたコンクリート地面に座り込んだ。汗が頬を伝って顎から落ちる。犬のようにだらしなく口を開けて酸素を取り込む。水分不足で粘りのある唾液を嚥下すると、今にもくっついてしまいそうな喉をぎこちなく滑っていった。

 (この街にいるのは危険だ)荒い呼吸を繰り返し、汗が地面に垂れて黒い染みを作るさまを膝の間に見ながら男は思った。(だが、この街を出たとして次はどこに逃げればいい?……いや、逃げ場なんてあるのか?)

 きっとあるさ、男は根拠もなしに思った。現実を見てしまえば終わりだ。きっと俺は立てなくなるだろう。

 やっと呼吸が整ったところで、そろそろと男が立ち上がった時だった。

 「よう」と背後でまた別の男の声がした。彼はなにを判断する暇もなく、咄嗟に声の方向に振り向いた。そこには撒いたと思っていた追っ手の男の姿があった。彼は前後にある狭い路地の片方を塞ぐようにして、親しい友人に挨拶をするときのように片手を挙げ、悠然と立っていた。硬そうな髪をすべてヘアピンで後ろに留めた、黒いシャツを着た鴉のような顔貌の若い男。彼は陽気に笑う。「休憩は終わったか?」

 「クソッ!」次の瞬間には、男は追っ手の塞いでいない方の通路へと飛ぶようにして駆けていた。しかし、その反対側の通路を抜けようとしたとき、さっきのとは別の男――熊のような体格をした大男だ――が気配もなく物陰から出てきたかと思うと、彼は大男に絡め取られるようにして地面に組み伏せられていた。抵抗を許さないほどの膂力。関節が極まっていて身動きが取れない。地面を舐めるような格好だったので、せめてその饐えた臭いから逃げようと背後に振り向こうとするも、彼の顔は大男によって押さえつけられてしまう。地面からの異臭に彼は吐き気を覚える。

 「大人しくしていろ」バリトンの効いた硬い声が背後から降ってくると、それだけでもう彼は、牧羊犬に吠えられた羊のように大人しくせずにはいられなかった。その大男の言葉には「ちょっとでも暴れようものなら容赦はしないぞ」、という暴力的な背景があることは瞭然だったからだ。その圧倒的な暴力と敗北の感覚に打ちのめされてか、彼はもう、なにもかもを諦めて放心状態に陥っていた。考えることすらばからしい。

 やがて後ろ手に組み合わせられた手首に手錠が掛けられる音と感触があって、彼はついに自分の人生の終わりを自覚した。


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