06 彼女は魔獣
レイラは裏町の暗がりを歩いていた。
両手には、最高級ブランデー『ル・ポンヌ』のボトルを引っ提げている。
そんな貴重な酒を二本も、何処から調達してきたのか。
――そう問えば、きっと彼女はニヤリと笑って誤魔化すだろう。
レイラはその足で、情報屋トンガリに紹介してもらった、盗品の仲買人の元を訪れた。
カノペペの手によって磨きあげられたルビーの短剣を見た瞬間、仲買人の男は無言で目を見開いた。
輝きも、形の良さも申し分ないそれは、『宝剣』と呼ぶに相応しい逸品だ。
しかし仲買の男は、ぱっと渋そうな顔を作って、こう言った。
「……ふむ、刃がほんの少しだが、微妙に歪んどる。良くて3金貨ってとこだな、お嬢ちゃん」
か弱そうな少女だと見くびったのか、男はよりによってレイラを丸め込むつもりらしい。
「ええっ、嘘だ。 さっきお兄さん、凄くびっくりした顔してたじゃない。この剣があんまり綺麗だから、見惚れちゃったんでしょ」
「そんなことはない。この僅かな歪みは、お前さんのような素人には判らんだろうがな」
「え~、そんなぁ……」
『しょっちゅう客と揉めてるらしいんだが、生憎、居場所が分かるのがそいつしかいないんだ』
トンガリから聞いていた通り、あまり評判の良い仲買人ではないようだ。それでも、会うだけ会ってみようと思い、レイラはここにやって来たのだ。
「……分かった、仕方無い。4枚にしてやるから、早く寄越しな」
「あっ……」
男は半ば引ったくるようにレイラの短剣を受け取って、代わりに手荒く金貨を乗せた。
じゃらん、じゃら……
掌の上で、金貨が踊る。
硬貨同士が擦れあう、無機質な金属音。
それはレイラにとって、天使の鳴らすラッパの音であり、悪魔の囁き声なのであった。
――盗んだものでなくたって、大金でなくたって。
他人の金貨が、自分のものになる。
たったそれだけで、腹の奥から言葉にならない快感が突き上げて来る。
彼女の中の獣は、それほどまでに黄金の輝きに飢えているのだ。
しかし、一時の快感が静まると、代わりに不満が沸々と浮かび上がってくる。
――何だって4枚ぽっちなのだ。
あの男の目の奥からは、『所詮は女のガキ』と軽蔑する色がはっきりと見て取れる。
レイラは苛立ちを覚えた。
(あんなヤなやつ、いなくなれば良いのに……)
といっても、ちょっとそんなことを思ってみただけだったのだ。
――しかし、このタイミングは不味かった。
手中の金貨が魔力となって、彼女が持って生まれた獰猛な衝動を刺激する。
獣は黄金だけでなく、時には鮮血をも欲するものだ。
吹き荒ぶ獣性の嵐を前に、理性の灯火は力なく明滅する。
(ああ、このままじゃ、ダメだなぁ……)
ぼんやりそう思ったのを最後に、彼女は姿を変えた。
――欲望で出来た身体を、衝動の心臓で動かすおぞましい獣へと。
尖った狐耳と、翼と、尻尾を持った影が、宵闇の路地に浮かぶ。
人ならざる姿になった、レイラ。
しかし、悲鳴は上がらなかった。
衝動的に振るわれた狼の爪は、既に男の喉笛を掻き切っていたからだ。
ぎらつく黄金色の両目で事切れた男を見下ろしながら、レイラは鉤爪から滴る鮮血を啜った。
苦不味くて、しょっぱくて、しかし微かに甘い複雑な味。
ふと湧いてきた殺しの実感が鉄臭いスパイスとなって、魔獣の味蕾を楽しませる。
「……ふふっ」
ここは入り組んだ路地の奥。このおぞましい姿、誰にも見られてはいないはずだ。
理性が吹っ飛ぶ感覚は、何度味わっても悪くない。
レイラはほくそ笑んで、真っ赤に濡れた毒牙に舌を走らせた。
そう、彼女は魔獣。
ただ我欲のままに動く、醜く美しい生き物だ。
――自制、忍耐、善心、理性、良識、倫理、法律……
人間を人間たらしめるしがらみの、何と多いことか。
しかし、そんな枷の類は、魔獣には存在しない。
レイラは、魔獣の血を引く母と人間の男の間に生まれた子。
普段こそ人間の姿をとっているが、黄金と闇夜と衝動とが混じると、魔性を解き放ちたくなるものなのだ。
赤黒いモノで汚れてしまった金貨が、狼爪の間から地面に落ちる。
やがて、凶暴な欲求が満たされたからか、すうっと潮が引くように彼女は人間の姿に戻っていった。
――遥か昔、剣と呪い(まじない)が世を支配していた時代。
『魔獣』は、呪者たちによって人間の欲望から生み出された生き物である。
魔獣たちは、呪者の戦力となる使い魔にされるはずだった。
しかし、使役するには余りに狡猾で、狂暴な存在だったのだ。
魔獣たちは人の支配を全く受け付けなかった。
生みの親である呪者の喉を、いとも容易く喰い破った。
己の欲が命じるまま街の空を駆け、逃げ回る市民をいたぶり、犯し、その肉を喰らう。
恐ろしい怪物たちは鮮血と快楽に溺れ、人々を奈落に陥れたという。
間もなく国を挙げての大討伐が始まり、賞金が懸けられた魔獣の首は粗方狩り尽くされた。
しかし、密かに生き残った魔獣らは人の姿に化け、交わり、現代までその血筋を残してきたのだった。
――人間の欲望を宿した四つ足の身体を、衝動の心臓で動かす怪物。
その血を引く、レイラの恐ろしい正体は、誰も知らない。
シャロンも、カノペペも、早耳の情報屋でさえも、知らない。
魔獣の血族者に、生きる資格は無いのだ。
一時の衝動だけで人を殺すことを厭わぬような――むしろ、悦ぶような生き物なのだから。
たとえ、レイラがごく普通の少女の暮らしを望んでいたとしても(そんなことはあり得ないが)、その姿を現した途端、断頭台に立たされることになるだろう。
――魔獣は、人間にとって滅ぼすべき存在なのだから。
レイラは哀れな男の躯を一蹴した。
激情が静まり、人間の姿に戻っても、レイラは魔獣のしたことを残虐だとは思わない。
人間の姿も、魔獣の姿も、どちらも同じレイラだからだ。
死体は海に投げ捨てようかとも思ったが、放置していくことに決めた。
ここは、警察も立ち入らぬようなスラムの路地裏。
胡散臭い盗品商の屍が転がっていても、誰も気に留めないのではないか。
――いや、裏町の連中は騒ぐかもしれない。
仮にこの男が何処かの組織と繋がりを持っていたら、また突然の報復に遭うとも知れない。
そうなれば、当然相手は大人たち。
組織の規模も手強さも、不良グループなどとは比べ物にならないだろう。
――敵は大勢。信じられる仲間はたったの二人。
「ふふっ。……望むところ」
綱渡りは、綱が細ければ細いほど楽しいものだ。
そして、どんな手段を使ってでも必ず綱を渡りきってみせるのが、彼女たちアンバーエンジェル。
この都市の何処かに、きっとまだ見ぬ宝が眠っている。
それを思い描く時ほどワクワクする瞬間はない。
レイラは一番星に向かって『ル・ポンヌ』を投げ上げながら、鼻歌混じりに夜の散歩を楽しんだ。