01 娼婦ごっこはやめらんないよね
――これは、魔性の女だ。
裏町の酒場の2階、少し乱れたシーツの上。
頬を薔薇色に上気させた女が、その白く綺麗な身体を惜しげもなく晒している。
男はそれに覆い被さって、荒い息を付いていた。
じっと男を捉える、潤んだエメラルドの瞳。
シーツの上にふわりと広がる、艶やかな琥珀色の長髪。
――めちゃくちゃにしてしまいたい。
まだほとんど何もしていないというのに、身体の奥底がどんどん熱くなって、理性が消えかかる。
男の額から汗が一筋垂れた。
娼館を訪れたことは何度もあるが、こんな女は初めてだった。
仕事帰りに何気なく立ち寄った酒場で、綺麗な小娘に酒を奢っただけだった。
ちょっと仕事の話をしただけだった。からかってやろうとしただけだった。
そんな言い訳ともつかない回想の間にも、鼓動はどんどん速くなっていく。
女はエメラルドの瞳を閉じて、男の胸板をつうっと撫で下ろしてみせた。
その、細い指で触れられるだけで、男の全身はかあっと熱に浮かされたようになる。
気が付けば、男はうわごとのように呟いていた。
「もう、止められない。貴女のことが、全部、好きになってしまった」
「私もよ。それじゃあ……」
――その時だった。
不意に、女は男の肩にぎゅっと抱きついて上体を起こすと、男の耳元に頬を近付けた。
ふわっと女の匂いが鼻腔をくすぐった。と、思った刹那、
「うっ、んん……?」
男は首筋に鈍い痛みを感じた。反射的に首に手を当てようとするも、力が抜けて腕が上手く動かせない。
だんだんと、瞼が重くなってくる。
戸惑う男に、女は最高の表情で微笑みかけた。
「――おやすみなさい」
蜂蜜のような囁きが、男の脳に虚ろな響きを残した。
その言葉の意味を理解しようとしたときには、もう遅かった。
突如襲ってきた強烈な睡魔は、男を深い眠りへ誘った。
*
男がいびきをかき始めたのを確認すると、女はベッドから抜け出した。
眠り毒がよく回っている。朝まで起きることはないだろう。
同時に、彼女は大人のふりをするのも止めた。
途端、妖艶だった表情は、いたずらっぽい齢14の少女のものに戻った。
彼女が生まれもった魔性の力は、恐ろしい。異性に対していささか良く効き過ぎるようだ。
「ああ、やっぱり楽しいなぁ、街娼ごっこ……」
まだ穢れを知らぬはずの生娘は、凄まじい独り言を呟いた。
自分がちらつかせた魔手に掛かったことも知らず、馬鹿な男がどんどん本気になっていく様を見るのは、痺れるほど快い。
このとんでもない遊びに比べれば、海路の決まった貿易商の船旅など、何とちっぽけなだろうか。
因みに、純潔を守るのが彼女の厳格なマイルールである。
煽って、焦らして、ギリギリで噛み付いたときの、このスリルといったら、もう堪らないのだ。
さて、しかし今までのはただの前座に過ぎない。
本当の目的はこれからだ。
女――改め、少女は慣れた手付きで男の荷を漁りはじめる。
そう、彼女は盗賊。
欲望のまま、闇夜に生きる盗賊だ。
銀細工の懐中時計に、柄にルビーの嵌め込まれた短剣。
貿易船長は余程儲かるらしい。やはり目を付けて正解だった、と彼女は思った。見事な宝が次々現れては、刺激に飢えた心を躍らせる。
この様子なら、想像以上の収穫がありそうだ。
少女は楽しげに、それらをひょいひょい手持ちの革袋に詰めていく。
と、その手が止まった。
荷の中から、ずっしり重い小袋を見付け出したのだ。
紐を解けば、金貨。
目が眩むほどの輝きが闇に躍り出る。
少女は質を確かめるように、その宝の山を手で掬い上げた。
そうすると、いつだって、ぞくぞくするほどの快感が腹の底からどばっと溢れ出して、脳天が痺れる。
――全く、これほど楽しい瞬間はない。
じゃらん、じゃら……
少女の、細く白い指の間から金貨がこぼれ落ちる。
その輝きに呼応するように、グリーンだった彼女の瞳は黄金色に光り始め、猫目のように虚空に浮かぶ。
黄金は、魔力を宿す宝。
富と権力の象徴でありながら、ときに持ち主の心を狂わせる。
銀も玉も価値あれど、やはり金は特別なものなのだ。
黄金の輝きに取り憑かれた者は、更なる富を貪欲に求め続け、自ら破滅の道を歩んでしまうことすらある。
それでも、その美しい諸刃の剣は、古代より人々の心を惹き付けてやまない。
少女はほくそ笑んだ。
「ふふっ、ふふふっ……」
緩い弧を描く口元から覗く白い牙――強い眠り毒をもった牙の鋭さは、さながら狼のもののよう。
今、もしも男が目を覚ましていれば、悲鳴を上げていたことだろう。
圧し殺したような笑い声が漏れる度に、彼女の姿はみるみる変貌していく。
琥珀色の頭髪を分け、先の尖った大きな狐耳が現れる。
背中の白肌を裂いて、薄い蝙蝠の翼が生える。
「次は誰で遊ぼうかな……」
無邪気な笑みを浮かべ、しなやかな四肢と翼を気持ち良さそうに伸ばす。
と同時に、少女の腰の辺りから、するすると足首まで下りてきたのは、鱗でびっしり覆われた蜥蜴のような尻尾だ。
黄金のもつ魔力に心惹かれるのは、人間だけではない。
彼女もまた、黄金に取り憑かれた存在の一人。
魔性の宝は、名の通り魔性を持った獣――魔獣の血を沸き立たせるものなのだ。
本性を現した少女は、眠っていた身体を慣らすようによく動かした。
狐耳をぴんと立て、尾をしならせる。
翼の薄い飛膜を伸縮させ、狼のような鉤爪と牙の鋭さを確かめた。
彼女のように、魔獣と人の間に生まれた子は大抵、身体能力と度胸が抜きん出ていて、抜け目が無い。
故に、彼女にとっては強奪もスリもその気になれば容易いことだ。
本当は、財宝を奪うのに手の込んだ色仕掛けなど必要ないのだ。
しかし、と、彼女は思う。
――それではちっとも面白くない。
面白くなければ、意味がない。
スリルと、快楽と、黄金を求めて生きる魔性の獣。
文字どおりの人でなし。
それこそ、彼女の本性なのだ。
――楽しみ尽くして、盗るものさえ盗ればもうこんなところに用はない。
少女は素肌の上に、長く大きいショールを器用に纏い、全身を覆う。
それから、戦利品の詰まった革袋を満足げに抱え、部屋の窓を開けた。
吹き込んできたひんやりした夜風が、長い琥珀色の髪をなぶる。
窓枠に腰掛け、少し火照った身体を冷ましながら、女はベッドで魘されている哀れな男を一瞥した。
「バァイ、勇敢な船乗りさん」
最後にそう吐き捨てて、史上最悪の処女は夜空に飛び立った。