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第0話

S県の中心部から車を走らせること約二時間半。

ようやく辿り着いたその村は、私がかつて暮らしていた頃とさして変わらず―…相変わらず、寂れていた。


S県 廻間(ハザマ)螢火(ホタルビ)村―…


山の麓にあるこの村は人口3000人にも満たない辺鄙な村で、スーパーマーケットもなければ自動販売機もない、バスは2時間に1本、しかもバス停は一箇所のみ、最近では唯一の小学校もとうとう廃校にetc…といった、所謂〝クソ田舎〟である。

何処を見渡しても山ばかりだから、自然だけはとても豊かなのだけれど、如何せんこれ程にまで不便なものだから、利便性や安定性を求める若者たちは去っていく一方だ。数年後には地図から消えてしまっているんじゃないか、と本気で思う。


だが、こんなクソ田舎もとい螢火村にも、一応有名どころが存在しているのだ。それが、村の外れにある川―…「螢之川(ホタルノガワ)」と、その上流にある滝―…「螢之滝(ホタルノダキ)」である。

螢之川は夏になるとその名の通り、美しい螢が飛び交う。その美しさが、「日本の景観150」とかいう雑誌に取り上げられて一時期有名になった。

また、螢之滝は確か―…そうだ、「月刊 Moonlight」なるその界隈では割とメジャーなオカルト雑誌に取り上げられて、これまた一時期有名になった。


〝螢之滝には、あの世とこの世の狭間がある〟


〝この世に未練のある死者の魂が、蛍の姿になって螢之川に現れ、生者を誘うことがある〟


〝蛍を追いかけて滝まで向かうと死者に会える〟


そんな、根も葉もない噂話や神話が載ったのだ。

そんなの、地元の人間が危険な滝に近寄らせないように流した創り話に決まっているのに。


その様な経緯で、「一時期」はこの村に足を運ぶ人間が増えたのだけれど、…哀しきかな、流行ったものは必ずと言っていい程廃れるものだ。


今ではそんな過去すらも無かったかのように。

人々から忘れ去られたかのように。

…螢火村は、今日も静かな雨が降っている。



『 ……そういう訳だから。顔見せなさい。』


珍しく掛かってきた電話は、母からのものだった。

祖母が退院した。…嬉しい退院ではない。

会えるうちに会っておけ。

……要約すればそんな感じの事を、淡々と告げられた。

迷いは生じなかった。

私にとって祖母はとても大きな存在だ。母よりも、きっと―…。

もしかしたらこの夏が、祖母に会える最後の夏かもしれない。そう思えば、例え就職活動真っ最中の短大生だとしても、新幹線に乗って此処に帰って来ずにはいられなかった。

新幹線からローカル線に乗り換えて、S県の中心―…花五森(ハナゴモリ)市で、叔父と合流。そして2時間半後、今に至る。


「…此処に帰って来るのも随分久しぶりだねぇ。」


荷物を下ろしながら叔父がぽつり、と呟いた。


叔父もまた、此処の不便さに愛想を尽かして村を出て行った人間だ。今は花五森市に住んでいる。


「美桜ちゃん、大丈夫かい。…車酔いとか、してないか?」


「はい、大丈夫です。」


気遣われながら車を降りると、草の匂いと雨の匂いが鼻腔いっぱいに広がった。片耳につけていたイヤホンを外すと、何処にこんな数がいるのやら、蛙の合唱も聞こえてくる。懐かしい空気だ。


―…ああ、帰って来たんだ。

高校進学と共に都会へ出て以来、正月もお盆も

ろくに帰って来なかった私を、祖母はどう思うだろう。薄情者だと思うだろうか。


「ああ、姉さんかい。今家の前に着いたから……

…うん、美桜ちゃんも一緒さ。」


携帯電話で母に連絡している叔父をよそに、私の視線は高く聳える山―…市椛山(イチカバヤマ)に向かっていた。

螢之川はこの山から麓に流れてきているのだ。

源流には水の神様を祀った神社もある。


もう八月の中旬だから、蛍は飛んでいないだろうけれど―…私は、この村に帰って来たら必ず螢之川へ足を運ぼうと決めていた。静かで厳かなあの場所は、この村で唯一好きな場所だから。


「―…さ、美桜ちゃん、行こうか。」


電話を終えると、叔父は優しく…そしてどこか哀しげに微笑んだ。



「あらあら…美桜ちゃん、よう来たねぇ。こんな婆さんの為にわざわざ…」


襖を開けて部屋に入ると、床に伏したまま、白髪の老女はにっこりと笑った。

五年間もろくに帰って来なかったことを責められるだろうと思っていただけに、拍子抜けだ。


祖母は御年九十にもなる。五年前に風邪をこじらせて以来、花五森市で暫く入院生活を送っていたが、この夏は本人の意思で実家での療養が決まった。

…祖母の体調は祖母自身がよくわかっているはず。

きっと、もう永くはないのだろう。

だからこそ祖母は、この地に帰って来たのだ。

生まれ育ったこの場所で、最期を迎える為に。


「……都会での暮らしは、慣れたかい?」


「…うん、まぁまぁ。」


「学校は、楽しい?」


「うん。……友達も、できたから。」


「そうかそうか、…美桜ちゃんが元気に暮らしてるなら、婆ちゃんも嬉しいなぁ…

…ね…きっと、透くんも喜んどるよ……」


祖母の視線の先には、古い仏壇。

そして仏壇には七年前に亡くなった祖父の遺影と、

……幼い少年の遺影が飾られている。


「―……」


―お婆ちゃん、本当は私、あの時―…


言いかけた言の葉を飲み込んで、喉の奥に封じ込めた。喉から流れて、胸につっかえて、やがては心臓に突き刺さってしまったのだろうか。…酷く、胸が痛かった。私は、キュウッと下唇を噛んで、胸の痛みを誤魔化した。


額の中で笑う少年は何も言わずに私を見ている。


「………美桜ちゃん、」


私の視線に気づいたのか、祖母が私の名前を呼んだ。優しく、温かい声だった。

しかしその先の言葉は、襖を開ける音に遮られる。


「母さん、具合はどうだい?」


「……あら、佳樹(ヨシキ)…アンタも帰って来たの。

…今年の夏は、賑やかねぇ…」


「賑やかって……俺と姉さんと美桜ちゃんと

母さんだけだろ?」


「いつも葉子(ヨウコ)と二人きりだからねぇ…

充分過ぎるほど、賑やかさ」


叔父が溜め息を吐くと、祖母はクスクスと笑った。


…なんだ、思っていたよりも元気そうだ。

もしかしたら、来年の夏も―…


そう思った矢先に、祖母は笑うのを止めてぼんやりと天井を見上げる。


「……春には、光くんに会えた。そして…こうして美桜ちゃんにも会えた。……孫の顔見たいって願いが叶ったんだから、もう何の未練も無いさね……」


その言葉には重みがあった。そして覚悟があった。

何の未練もない。それは強がりではなく、本心から出た言葉なのであろう。


「……光は今年大学を卒業するし、可愛らしい彼女もいるらしいぞ。…どうせならあと数年生きて、

曾孫の顔も拝んだらどーだ。」


茶化す様には言っても、叔父の声は震えている。


叔父の声は少しだけ、震えていた。

九十なら大往生だろうに、それでもまだ逝って欲しくは無いと願ってしまうのは、我が儘だろうか。


「……散りぬべき 時知りてこそ 世の中の

花も花なれ 人も人なれ

…細川ガラシャだって、詠ってるだろう?

……桜の花も、人も。散り時を心得ているからこそ美しいもんさね。自分の人生に何の悔いもなくなった時……それが、人の散り時。婆さんは、そう思うよ。」


ふ、と笑って、祖母はゆっくり目を閉じた。

まさか―…

一瞬心臓がどきり、と跳ねたけれど、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきたので、私と叔父は顔を見合わせてほっと息をこぼした。


老人の体力には限界がある。きっと、無理して私達を迎えてくれたのだろう。


「…おやすみなさい。」


私と叔父は祖母にそっと声をかけ、祖母の私室を後にした。



夜になる頃にはずっと降っていた小雨も止み、

空には星空が広がっていた。

スマホで都会の友達に連絡を取ろうと試みたが、

流石の田舎。電波がなかなか入らない。潔く断念する他なかった。

…祖母はすっかり眠ってしまったし、何もすることがない。

…五年ぶりだし、……少しは、手伝おうかな。

仕方なく台所に足を運んでいると、茶碗を洗っているのか、水音と―…話し声が聞こえた。

廊下でそっと聞き耳を立てる。


「……姉さんもそろそろ意地張ってないで、

美桜ちゃんとしっかり向き合ったらどうだ。」


叔父の声は、どこか呆れたような声。


「………はぁ……」


母の声は、……うんざりしたような声。


「…何度も言ってるでしょ。遠くの街に進学することも、私から離れることも、あの子が決めたこと。あの子が望んだことだって。」


「そうは言っても……あの時美桜ちゃんはまだ子供だったろ……」


「今はもう大人よ。……今更甘える歳じゃない。

それにね、私――…」


あ、ダメだ。聞いちゃいけない。

私の頭が必死で警告音を鳴らす。

此処にいない方がいい。部屋に戻れ。後悔する。


しかしその甲斐も虚しく、私は動けずに立ち尽くしていた。だから、その言葉を聞いてしまった。


〝あの子を、心から愛せないの〟


―…心臓がまた、キュッと痛む。痛い痛い痛い。

私は下唇を噛んだ。血が滲んだのか、鉄の味がする。痛い。心の痛みを身体の痛みに置き換える。

十年以上前から、ずっと、私はこうだ。

何か辛いことがあったら、下唇を噛む。

それでもダメだったら―……。


私は左の手首をギュッと握り締めた。


―…いけない。何も聞かなかったことにしよう。

忘れよう。何か気分転換をしよう。…私の好きなこと。私の好きな場所。そうだ。あの場所へ行こう。


螢火川へ―……



螢やオカルト話が有名になった際に村興しを図ったのか、道中あちらこちらに螢火川への古びた案内板があった。リーンリーンと響く鈴虫の鳴き声も相まって、何となく物悲しい気分にさせられる。

村の静けさは好きだけれど、都会の喧騒の中で暫く暮らしていたせいか、寂しさでいっぱいだった。

古びた日本家屋の灯りを何度か通り過ぎているのに

まるでこの村には自分しかいないかのような錯覚を覚えてしまう。


夏の風が涼しく吹き抜けて、短く切ったばかりの黒髪を撫でていく。竹林を抜ける。ざわざわと竹の葉が揺れる音がする。坂道を下って、轍のある砂利道を歩いて。橋の手前の石段を降りると、目的地は目の前に広がる。


家から、約三十分。

螢火川は月明かりと星の光に照らされながら、

実に穏やかに流れていた。


せせらぎの音。少し遠くから聞こえる滝の音。

虫の声。木々の葉が擦れる音。…あらゆる自然の音が調和してハーモニーを生み出している。

そっと岩に腰掛けて目を閉じると、それだけで

心の穢れも、傷も、……罪すらも、川の流れと共に禊がれていくような―…不思議な気持ちになった。


―…ああ、このまま此処で永遠の眠りにつけたら、

どれほど幸せだろう。


心からそう思った、その時に。


「………?!」


少し強い風が一瞬、ブワッと吹き抜けて私の瞼を開けさせた。

そしてその瞬間、私はふと、奇妙な光景に気づく。


……蛍が、飛んでいるのだ。


一匹だけ、ふわり、ふわりと。


蛍はまるで私を何処かへ連れ出そうとしているかのように、私の周りを何度も回る。

そして…川上の方へとゆっくり、飛んでいく。


―…私はこの時、あの噂話を思い出していた。


〝螢之滝には、あの世とこの世の狭間がある〟


〝この世に未練のある死者の魂が、蛍の姿になって螢之川に現れ、生者を誘うことがある〟


〝蛍を追いかけて滝まで向かうと死者に会える〟


「……まさか、本当に…………?」


立ちすくむ私を待っているかのように、蛍が光を放つ。こっちへ来い、と誘っているのだろうか。


私の頭に、あの笑顔が過ぎる。


―…遺影の額の中の少年の。


私の――……兄の。


「………お兄ちゃん、なの……?」


半信半疑で、それでも私の足は蛍を追いかけ始めていた。…もし、本当に死者に会えるのだとしたら、

私は―…私は、彼に言わなければならないことが

たくさんあるのだ。悔いていることがたくさんあるのだ。伝えたい想いが、たくさんあるのだ。


蛍に追いつくと、蛍は再び私の周りを何度も回る。

そして…やはり同じように、川上の方へと飛んでいく。但し、今度は待ってはくれない。ふわり、ふわりと、笑いながら逃げているようだった。


「待って……!置いていかないで!」


砂利道を走る。ワンピースにサンダルという今の格好では酷く走りにくく、何度も足が縺れそうになった。それでも。それでも、見失わないように、必死で縋る。走って、走って、走って―……滝の音が近づいて―……


「お兄ちゃん待っ…きゃああっ!」


……全身に痛みと衝撃が走った。しかしそれと同時に滝の音がすぐ側に降り注ぐ。


「……大丈夫か?」


「うぅ………痛い……けど、大丈夫です……

………って……え?!」


突然真上から降り掛かってきた男性の声に驚いて顔を上げると、そこにいたのは――…


「…膝を怪我しているな。…治療をしてやりたいところだけれど、生憎、俺は薬も包帯も持っていなくてな……」


明らかにこの時代にそぐわない、旧日本陸軍の軍服に身を包んだ若い青年だった。


「……どうした?そんな顔をして。……まるで、」


青年はクスリと笑った。月が薄雲の隙間から出てきて彼を照らす。……ああ、変だ。どうして、彼を透かして月が見えるのだろう。どうして、彼は青白く光を放っているのだろう。手を伸ばす。彼に届く。でも、触れない。私の手は空を掴む。そこにいるのに触れられない。どうして、どうして、どうして。―…だって、こんなの、まるで、


〝…まるで、亡者にでも会ったかのような顔だな〟




――…この奇妙な出会いが、私の人生を大きく変えることとなる。

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