『独り』という世界
あの日から、『古川麻衣』が描いた絵が私の頭から離れなくなっていた。何故、そこまで惹かれるのか分からないが、あの廊下を通る時、必ずあの絵の前で立ち止まってしまう。まるでその絵のまえで、足が床にくっついてしまったかのような錯覚に陥るのだ。ただ、絵の中の少女が一体誰なのか。それははっきりしていない。どこか孤独を感じさせるようなその背中。一体何をみているのだろう。そして古川麻衣は何故、この絵に『憧れ』というタイトルを付けたのだろう。私からしたら、この絵から『憧れ』を連想する事が出来ないのだから。
「神崎さん。」
「あ、野田さん。」
「神崎さん、よくこの絵を見てるよね。」
移動教室の途中、『憧れ』をぼーっと眺めていると、同じクラスの野田未奈美に声をかけられた。野田さんも私と同じく、中学からこの学校に通う生徒だ。とりわけ仲が良いわけではないが、会えば話す。その程度の関係。しかし『その程度の関係』でも、私にとってみれば、クラスの中では一番会話する人物でもある。
「よく移動教室の時とか、昼休みとかに神崎さんがこの絵の前に居るのを見たからさ。」
「あー、見られてたか。」
「あ、ごめんね。たまたま見かけただけだよ。」
「うん、分かってる。」
慌てて付け加えた野田さん。私は野田さんの事、ストーカーだなんて思ってないよ。野田さんの事は、ね。それよりも、人が描いた絵を頻繁に眺めていたところを見られていたなんて。急に恥ずかしく感じてきた。
「まさか野田さんに見られてたなんて・・・。」
「神崎さんが絵を鑑賞するなんて珍しいなって思って。」
「美術とかに興味はないんだけどね。ただ、この絵は別。」
「古川さんの絵かぁ。」
「えっ、野田さん知ってるの?」
「知ってるもなにも、うち美術部だからね。」
「そうだったけ?」
「知らなかったの?」と、私の隣で絵を見ながら野田さんは言った。野田さんが美術部なんて初めて知った。そもそも、野田さんとお互いの部活の事とか、プライベートの事とか深く話した事なかったし。私が知らないだけで、他の子達はそんな事、当たり前のように知っているのかもしれない。
「古川さんねぇ。」
「野田さんは、その・・・古川さんと仲良いの?」
「うーん。あんまり話した事ないかも。あの子、外部から来た子だし。」
「そうなんだ。」
「それにね、古川さん、いつも独りだし。」
古川さんの話をする野田さんは、あまり良い顔をしていなかった。その表情だけで、『古川麻衣』という人物が美術部の中でどういう存在で、どういう扱いを受けているのか想像がつく。それに野田さんの「独り」という言葉もそうだ。ここは女子校。群れる事が好きな女の子達ばかりなんだから、独りでいる事がどれだけ大変なことか。それにきっと、古川さんの『独り』と私の『独り』は似ているようで違うのだろう。古川さんの『独り』は、望まない孤独で、私の『独り』は・・・。
「って、もうすぐ授業始まっちゃうよ。急がないと!」
「あ、ほんとだ。」
「次の授業、柘植様の授業だし、遅刻したら怒られちゃう。」
野田さんの言葉で、もうすぐ予鈴が鳴ってしまう事に気づいた。そうだ、次は生徒指導の柘植様の授業だった。遅刻なんてしようもんなら、怒られて終わりなんてレベルじゃないだろう。慌てて走り出した野田さんの後ろを私も慌てて追いかけた。この時にはもう、古川さんの話題なんて頭になかった。そして、『古川麻衣』という人物と関わる事はこの先ないだろうと、野田さんの話から私は判断したのだ。きっと、私と古川さんは住む世界が違うのだから。