プロローグ2 地下施設と黒猫
さて、どうしたものか。
私は今、四つ足で立惚けている。鏡か何かで確認するまでは確証は持てないが、恐らくこれは猫の体と思われる。
自分の記憶が確かであれば、私は決して猫の人生など送った覚えはない。むしろ普通の人間として人生を謳歌していた。
まだまだ将来有望な二十代として我が国の為に軍に入る直前であったはずだ。だが妙なことに実際に軍に入隊した記憶がない。最後に覚えている事は…筆記試験、身体測定と面接試験か?
考えれば考えるほど記憶の断絶が異様に思える。そして現在、情報が圧倒的に足りない状況で考え込むのは時間の無駄と判断し、周囲を探索する事にした。
幸いこの猫のような体はとても馴染んでいてまるで自分の手の平のように動く。いや…まあ、この場合実際に猫になった手の平なのだが。
よし!まずは鏡か何かで自分の体を確認しなければ。
とう!
そう頭の中で宣言しながら勢い良く私は床に向かって飛び降りた……つもりだった。
ゴンッと鈍い音が辺りに響き渡る。
しばらく目の前がチカチカする思いをしながら悶えた。
自分でもかなり間抜けな事をしたと思っている。ちょっと記憶に関しての考え事をしてしまった為、私はガラスの存在を完璧に忘れていた。その結果 思い切り頭突きをする形で衝突した。
かなり痛かった、おまけに舌もちょっと噛んでしまった。
痛みが少し引いて、それと同時に冷静さも戻ってきた。殊の外私は状況にかなり動転していたようだ。
軽く深呼吸して、気を落ち着かせる。
さて、この状況はどうしたものか。冷静になったは良いものの、状況は特に好転していない。
どうしよう、出られない。
周囲を見渡すにしてもガラスの円柱は特に何も開けられそうな物が見当たらない。そもそもこれは開く物なのか?
天井と床は鉄で作られていて、この円柱を固定していると推測できる。そして残念ながら先ほどの頭突きはガラスに傷一つ付けていない。
次の行動をどうしようかと途方に暮れていると自分の下から暖かい空気が勢い良く流れ始め、溺れかけた時の液体を乾かしていく。中々心地良い一時が過ぎると、終りを告げるかのようにピーッと甲高い音が響いた。一瞬電子レンジのような想像が脳裏を過ぎったが、自分の状況を考えるとあまりよろしくない結末しか思い浮かばなかったので直ぐその考えは中断した。
体が乾いて暖かい気分に浸っていると上から緑の光の壁をゆっくりと降りてくる。これは軍の身体検査の時に見覚えがある。確か医者の話によると体の外部と内部を同時に調べられるとか。兎に角害はないので特に気にせず終りを待つ。
目覚めてから数十分程経過してようやく解放された。ガラスが上へゆっくりと開き、私は最初の失敗が無かったかのようにもう一度掛け声を発した。
「ニャァーオ」
……え?
ちょっと理解が追いつかず振り返る。
てっきり私一人……いや、一匹かと思ったら先客の動物がいるとは。
しかし振り返った先に見えたのはただの壁であり、部屋の静けさがより一層孤独感を増長させる。
うん、分かっている。今の声は自分が発したもので、それ以外の何物でないって。自分は今猫であって猫はニャーと鳴く。でもやはり自分の中ではまだ認識が足りていないようだ、故に否定してまいたかった。まだ自分は人間であると。
残念ながらその思いは簡単に打ち砕かれる、そしてこの先も慣れるのにまだ時間が掛かるだろう。気が重くなる将来を考えながら乗っていた円柱型の台座から飛び降りる。
冷たい鉄の床を歩きながら周りを観察する。壁際には机や端末があり、それと反対側にはガラスの円柱が壁際に並列している。
見た目から察するにここは何らかの研究施設のようで、私が眠っていた場所の近くにも似たような装置が幾つかある。殆どが空の状態で今は中に何もなく、飴色の液体で満たされているだけだ。
だが一つだけ空ではない装置を見つけた。中身は……犬だろうか?外見はたしかに犬なのだが下半身が機械仕掛けになっていていわゆるサイボーグだ。
しばらくその機械じみた犬を観察したが特に動き出すような雰囲気でもなかったので探索を続けるべく奥へと進む。
至る所に机とその上に化学道具があるが、研究者の志望も無かった私には何の為に使われる物かは分からなかった。もしかしたら論文や資料から研究内容を把握できるかと思ったがどこにも見当たらない。
恐らく全て端末の中に収められているのだろう。自分の思い描いていた散らかった研究者の机は発見できなかった。
端末も操作して内容を探ろうとしたが、このプニプニとした肉球の手では不可能に近い。
何とか起動スイッチだけは押せたがパスワードが必要で結局端末から情報得ることは断念した。
奥に一つ倉庫らしき部屋を発見し自動扉が開いたが、中はとても猫には扱えない機材ばかりでやはり目星い物は無かった。
その隣の部屋は開かず、こちらも断念。扉越しに機械音が微かに聞こえてくるが、さすがに何の機械かは見当もつかない。
こちらにはもう扉がなく、探索も大体終了したので部屋の反対側に向かう。
案外探索できる範囲が狭い事に驚きながら意識を失う直前に見た白衣を纏った二人を思い出す。あの二人は今ここにいないようだが、今は留守なのだろうか?
私が出歩いてるのを発見したら捕まえてまた漬物状態に戻されるかもしれないのでとりあえず良しとしよう。
部屋の反対側にもやはり扉が二つ。左の扉はエレベーターのようで分かりやすい上を指す三角型のボタンが壁に付いていた。右の扉は近ずくと自動で開き、上へと伸びる螺旋階段が現れる。ちょっと中を覗いて階段の中央から見上げたみたが終わりが見えない。
他の階に行けば何か情報が見つかるかもしれないがそれと同時に他の研究者などに見つかる危険もあるので、今回はエレベーターを使って外を目指す事にした。
ここで問題が生じた、ボタンの位置が高すぎるのだ。何度か飛び上がり押そうとしたが、あと一息のところで届かない。この体はかなり不便な事がこの先もまだまだ多そうだ。
できない事を嘆いても仕方がないので諦めて階段を上る事にした。
階段を上る際に途中の階層は存在せず、ただ延々と上へと続いた。
登りながら探索から得た少ない情報を整理する事にした。
私、ノーヴェンは人だったはずが謎の研究施設にて猫の体で目覚める、挙句に喋れない。改めて思い返すとかなりぶっとんだ現状だが事実なのだから仕方がない。
半ロボの犬は発見したが、人がいた痕跡は特に発見できなかった。奥の開かなかった扉の向こうにいた可能性もあるが、少なくとも私が目覚めた部屋は最近使われた様子は見当たらなかった。倉庫の道具も様々で、トンカチから見た事もないものまで幅広く揃っていた。
今現在上昇中の階段を見る限り他に階層はなく、ここは地下であると考えられる。向かっているのは地上である……と願うばかりだ。
しかし長い階段だ。
そろそろげんなりし始め、真剣に引き返す事も考慮した時に上を見上げると、階段の終わりが見えた。
執着点の存在に安堵の息を漏らしながら地上である事を期待しながら階段を登りきり、扉の前へ立つ。
こちらの扉もやはり自動的に開き、左右の壁に電球のようなものが埋め込んである小さな部屋が現れた。ちょっと入るか戸惑ったが、ここまで来たのだから腹を括って中へ入る。
入った瞬間後ろの扉が閉まり壁の電球が眩しいくらい光る。そして同時に上から何らかの飛沫が降り注ぐ。恐らく消毒の一種だろう、病院でも似たような機材があった事を思い出す。
消毒作業が目覚めた時の円柱とは違い、比較的手早く終了した。
そして奥の扉が開き、ようやく外の空気が流れ込んできた。
何だかんだ言ってノーヴェンは新しい体に馴染むの早いと思う。