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麗しのトイレ

作者: 鍛冶屋

お題:トイレ

言わずもがなトイレの話。

登場人物がトイレ連呼する小学生のような話なので苦手な人は読まないように。


   麗しのトイレ



「君のことが好きになった理由は、君のトイレの芳香剤の香りに惚れたからさ」


 こんなことを言われて嬉しい彼女はいるわけがない。

 この人は、自分で言っていて分かっているのだろうか。

 だけど、彼は瞳孔を開かせて、「本当だよ?」と念を押すように突け足した。彼は聞かれなくても、いつもそんなことを口走るのだ……君のトイレは素晴らしいって。

 ああ、そうという言葉ですべてを済ませてきたが、さすがに少しは気になるものがある。もしかして踏み込めば「トイレが美しい子は心が澄み渡っている」という意味合いも込められている可能性もあるからだ。

 ソファに寄りかかりながら、隣に座った彼を少し上目遣いで見つめてみた。

「どうして、トイレの芳香剤の香りがいいから惚れたの?」

「君の家のトイレの芳香剤。僕が思い描いていた理想の耽美的なトイレとぴったり合っていたからだ」

 お願い、嗅覚から離れて。

 あえなくその願望は撃墜して理由はトイレへと不時着した。また彼は真面目な顔で私を見つめてきた……折角の上目遣いが無駄になった。

「前に君に言ったかもしれないけど、僕の家のトイレは今でも汲み取り式なんだ。昔気質の家で改築もしていないんだ。百年持つって言ってね……でも、僕は子供の頃から、そして今でも汲み取り式は好きじゃないんだ。君は好きかい?」

 恋人とボットントイレの話をする機会が訪れるとは。

 私はあんまり、と答えた。洋式の水洗トイレというハイテク技術に慣れてしまった現代人に和式の水が流れないトイレは辛いものがある。新しいものが嫌いな父ですら、ウォシュレットがなしでは生きていけない体となってしまったぐらいなのだから。

「僕も手が伸びて来るんじゃないかとか、奥から声が聞こえたような気がするって思いながら、夜中なんか半泣きで行ってたよ。両親から廊下は走るなって言われていたから、歩いていくのも苦痛でね……なによりも耐えがたいのは匂いだったんだ。消臭剤で消しても、あの独特の匂いが微かに鼻につくんだ。しかも家自体も古いから、トイレの個室も綺麗とは言えなくて……潔癖症じゃなくても、どうしても気になって仕方なくて落ち着けた心地がないんだ」

 彼はあまり喋らないことで有名だった。

 同じボランティアサークルで知り合ったが、家も電車を三本乗らなければいけないほど遠いので飲み会にも参加したがらなかった。一人暮らしすればいいと女の入れ食いで有名な部長に言われていたが、家が厳しくて、と困った笑みを浮かべていた。

 彼は以前には恋人は何人かいたらしく、彼女がいた頃は、飲み会にも参加していた。今ではそんな私の彼氏。そして、私の目の前で、酒を飲んでも無口を貫いていた彼が語り続けている。トイレについて。


「だから、僕はトイレに理想を抱いていたんだ。テレビに映る匠の技でリフォームした美しいトイレ……洋式の白い便器、芳しい匂い……それに憧れていたんだ。その理想のトイレが君のトイレだった」

「まさかとは思うけど、前の彼女とそれが原因で別れてないよね。不躾かもしれないけど」

「……原因の一つではあったよ?」

 これは、彼の元彼女には言えない。

「断わっておくけど、僕から見たらほとんどの家の洋式トイレは綺麗なものだよ。通勤者が多い駅のトイレも嫌いじゃない。さっきも言ったように僕は潔癖症ではないから、彼女が汚いからって謙遜しても、あの子のトイレは綺麗だった……だけど、問題は匂いだった」

「いや、匂いって……私は友達の家に行っても、トイレの匂いってそんな気にならないけど」

「僕もそう思っていたよ。だけど……僕はトイレに幻想を抱き続けていた。テレビから、雑誌からは絵面は見えても匂いは嗅げない。だから、理想の匂いはねつ造するしかなかった。だけど、それが仇となった……最初の彼女の家のトイレは無臭だった……ああ、トイレは美しかった。だけど、あのトイレは匂いが全くなかったんだ」

 それがどうしたというのだろう。悪臭じゃなければいいのではないか。

 私はなにも言わなかったが、私の思いを察したのか「ダメなんだ」と強い言葉で放って首を振った。

「トイレには、甘美的な匂いが必要だったんだ。僕はあまりに洋式トイレを神格化しすぎていた。だから、トイレには薔薇色という表現が似合うフレグランスが必要だったんだ……君は原因っていったけど、もしかしたらあれは引き金だったのかもしれない。あの日を境目に、僕の思いは少しずつ冷めていったのは確かだよ」

「それが原因……ではないけど、彼女のトイレは眼鏡に合わず、行き付いたのが私のトイレ?」

「そう。初めて君の家にあがったときは、宅飲みをしたときだったね」

 そうそう、よりにもよって私のアパートで。

 サークルの友達が、私の家が学校に近いからなんていって木曜日だというのに夜通し飲み続けたんだっけ。そしたら、なぜか彼まで呼ばれてて。無口なのに、なぜか不思議と人気がある。ミステリアスだからだろうか……顔も悪くないから? それは一つあるかもしれないけど。

 でも、その時の私は「大人しい人だ」という感想ぐらい大した期待は寄せていなかった。

「それで、初めて君のトイレを使った…………あの驚きは言いようがない。僕はまず思わず立ち竦んだ。鼻をくすぐる、まさにその表現が合う香りが僕を包んだ」

 彼はイタリア人の生まれ変わりかもしれない。日本人に生まれ変わった時に間違えて、女性に対する思いがトイレへの愛に変わってしまったのかもしれない。

「白い陶磁器のような洋式トイレ……いざ座ると、お尻にじんわりと温もりが伝わってなんだかドキドキしたんだ。乾いてもなければ湿ってもいない便座は、誰かの肌に触れているようで鼓動が早くなっていた。立ち上がるのが惜しいほど、僕は暫くその個室に身を委ねていたんだ」

 ……なんだか聞いているこっちが恥ずかしい。

 これ、口説かれているの? 私が? トイレが?

「そして、なによりも甘くてまろやかで言葉にもできないぐらい崇高な匂いにうっとりしたんだ……このトイレは僕の理想ユートピア、そして、このトイレの持ち主は救世主メサイアだと……だから、僕は君に惹かれたんだ。運命って信じて、僕は君にアプローチをし始めて、そして今に至るんだ」

 その日以来、確かに彼から話しかけられる率は高くなって食事にも何度か誘われた。私も元カレと別れたばかりだったから、口少なくも優しい彼に少しずつ興味を持って、そして後は彼と同じ答え。"今に至る"だ。

 それにしても、なんの救世主だか分からないけど……これ、褒められているのか。でも、彼がそこまで嬉々として褒めてくれるならこちらも気分は悪くはない。アホっぽいけど、私は嫌な気分はしない……だって、そうでしょ、"自分の"ものが綺麗って褒められているんだから。それがたとえトイレであっても……。


「でも、私の家よりも、もっと良い香りがするトイレがあったらどうするの?」

 だけど褒められると同時に、なんだかムクムクと嫌な思いも沸き上がった。

 理想は一つではないはずだから――私の言葉に、彼は虚をつかれたように目を見開いた。

「そんなものあるわけないよ」

「分からないじゃない。私よりももっと芳しいトイレがあるかもしれない。私以上の理想のトイレがあるかもしれないじゃない。そしたら、あなたはどうするのよ」

 なんてバカな会話をしているのだろう。いい歳をしてトイレを連呼しちゃって。

 それでも、私はなんだか急に手先が冷える思いがした。

 元の彼女だって、トイレが大したものじゃないと思われて別れられたのだったら……もしも、他の家のトイレが私のトイレよりも完璧なベストオブトイレだったら、彼は私を見捨ててしまうのだろうか。

 今がトップだとしたら、私はいつかは二位に転落してしまう時がくるかもしれないのだから。 

「そんなものは、これ以上ないよ」

 かけられたのは、彼の優しい声。ニットを着ているというのに肩に置かれた手の熱さを感じた。

「だって、君が、まさに理想そのものなんだから」

 ――君、が?

 今、トイレって言わなかったよね?

 初めて、でもないけど、ポンプのように心臓の鼓動で血が全身に駆け巡っていく。なぜか、私の頭の中には下水道が過る。なんて汚い喩えだろう。でも、トイレの話ばかりしているのだからこれも一つの必然かもしれない。

「初めての衝撃は永遠に忘れないものだよ。運命的なものはずっと運命の思い出が残る。おじいちゃんになっても、一生焼きついているよ。あの感動はクリスマスプレゼント以上のものだったのだから。それに、君は僕のトイレ話にも嫌な顔一つせず付き合ってくれた優しい人だよ……だから」

 彼の薄い唇が、あ、という形を作って――。

「ま、まって……その言葉は、いつか、取っておいて」

「……え? 流しちゃうの?」

「な、流さない……けど」

 曖昧なことを言ってしまったが、彼は揶揄うように微笑した――なんだ、そのうまいこと言ったみたいな顔は。

「いつか、その言葉は、大事な時に言って。ここ一番って時に」

「へえ、いいね。ここ一番、か……うん、わかった」

 私の懇願に対して、彼はゆっくりと頷いた。そして改まったように甘いマスクに砂糖をいっぱい振りかけたような笑みを浮かべた。


「愛してる」


 ――本当にこの人は。

 さらさら流れる水に比べて、この人はなんてチョコレートみたいに甘いのだろう。

 肩に置かれた手は優しくても、決して離そうとしないように力をこめているところが、ちょっとおかしくて、それでも愛おしくて。彼の手に身を委ねてそっと寄りかかった。古いくたびれたソファに二人分のお尻が沈んでいった。


「それにしても、ずっと思ってたんだけど、芳香剤、市販だけどいいの?」

「いいんだよ。運命なんだから」

「あなたの運命、453円だけど」

「値段なんて関係ないよ。出会いはプライスレスなんだから」


 ほんとに。まさか、こんなにロマンチストだったとは。

 ……それでも、あの芳香剤でトイレに理想を抱いた謎の彼氏と私は一緒にいる。トイレ一つで、一人の男性と出会えた。私を受け入れてくれる包容力のある夢見がちな男性が……トイレの神様なんてキャッチーなソングが流行ったけど……実際にいるのかもしれない――私もロマンチストなのだろうか。

 彼はこちらに顔を近づけて髪を嗅ぐように私のポニーテールに顔を埋めた……すー、という彼の鼻息がちょっとこそばゆい。案外、香りフェチなのかも。今度からはシャンプーとかも気を遣ってみよう。

 このご縁、そして先はきっとまだまだ下水道のように流れていくのだろうから。


「トイレが綺麗な子は心も清らかって僕は知っているからね」


 理想を肥大化するのはやめてほしいけど。

 

イケメンじゃなくても、イケメンでも、変態です。

本当にありがとうございました。

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