第五章 魔王との死闘
コトキレッタ村でゾンビ衆を埋葬した僕たちは、それから二日をかけて、ようやく最果ての地まで辿り着いた。まだ昼下がりにもかかわらず、辺りは立ち込める暗雲で夜のような闇に包まれていた。
その闇に紛れて、魔王の居城がうっすらと聳え立っている。かつてニンゲンどもが住んでいたという忌まわしき建造物だ。
「ねえ、ゲヘリク。魔王と戦う前に話しておきたいことがあるの」
番兵すらいない寂れた城門の前で、しおらしい腐肉を顔にぶら下げてシーシャが言った。
「何?」
「もしかしたらゲヘリクは勘づいてるかもしれないけど、あたしの正体と魔王の関係について」
そう言ってシーシャは、少し悲しそうに眼球を血走らせた。
これまで僕は、彼女の正体についてはまったく触れなかった。だが考察しなかったわけではない。ヒントとなる事柄はふたつあった。
ひとつは、彼女が「魔王を救える」と言ったこと。そしてもうひとつは、彼女がフランシタイン王家の剣を所有していたことだ。これらの事実を踏まえて、僕はある推論に達していた。
「シーシャ、皆まで言うな。僕にはすべて分かっている」
「え?」
シーシャの言葉を遮り、僕は自信満々に語った。
「シーシャの正体はキモラ姫なんだろ? それで、ひょんなことから魔王と化した父王クズデス二世を救いたい。どう、違う?」
僕の嗄れたバリトン・ボイスが、今ここに衝撃の真実を――
「全ッッッッ然、違うわよ!」
――告げられなかった。
「え、あれ?」
「あたしは最初からシーシャって名乗ってるでしょ。アッケナもそう呼んでたし」
「いやだから、それは偽戒名とかで――」
「あとクズデス陛下は、先の戦いで負傷されて木棺に臥せってるわよ」
「それもウソの情報だったりしてさ。はは……」
「はぁ~、とても残念ね」
シーシャは深くメタンガスを吐き出すと、お悔やみ申し上げるように言った。
腐甲斐ないことだが、僕の推理はことごとく外れてしまったらしい。大見得を切った手前、顔から血が出るくらいに恥ずかしかった。穴があったら埋まりたい。
「なんだか話す気も失せちゃった。さっさと居城に乗り込みましょ」
ダメダメの推理に白けてしまったらしい。シーシャは急に話を切り上げて歩き出した。だが僕としては、こんな中途半端な気持ちで魔王に挑むことなどできなかった。
「待って、せめてシーシャの正体だけでも教えてよ!」
僕が瀕死の思いで食い下がると、彼女は耳元に落ちかかる脳漿を手で払って振り向いた。
「……そうね。じゃあ改めて名乗らせてもらうけど、あたしの名前はシーシャ・コーシュケイン。フランシタイン王酷既死団の団長よ」
「なっ!」
あまりの驚きに、僕の眼球がヌラリと零れ落ちる。
「そうか、あの精強の誉れ高い王酷既死団の……。道理で強いわけだ」
「強いといっても、既死団は魔王と冥奴姉妹によって惨たらしく殺られてしまったけど」
シーシャは赤グロい歯茎を全開にして、自嘲するように嗤った。憂いを帯びた死相が一段と切ない。僕は彼女を元気づけるように、ひときわ明るい低声を放った。
「だったら弔い合戦だな。僕たちなら絶対に勝てるよ。そうだろシーシャ?」
僕が勢い込んで言うと、彼女は最初、頓死したようにキョトンとした。
しかし、すぐに死相を改めて頷く。
「ええ、その通りよ。逝きましょうゲヘリク」
落ち込んだシーシャの士気も、これで回復したことだろう。
僕たちは、万全の状態で居城に乗り込んだ。
「これが、魔王の居城か……」
昔日に威容を誇ったという建造物。だが今は、見る影もなく傷んでいる。無数に亀裂の走る白亜は、すっかり薄汚れて蔦が絡まっていた。栄華を極めたニンゲン世界の残滓として、その惨めな姿を曝しているのだった。
「なあシーシャ、やけに静かだけど?」
ここは本当に魔王の居城なのか。そう疑ってしまうくらい、薄暗い通路は不気味に静まり返っていた。敵の気配がまったくないのだ。
「魔王の配下は冥奴姉妹のアッケナとポクーリだけなの。でもあたしたちが倒したから、恐らく今は魔王しかいないわ」
「まさか。じゃあ既死団を壊滅させた魔王軍は、たったの三体だったのか? 確かに少数精鋭とは聞いていたけど」
僕は、改めて魔王の恐ろしさを思い知った。たとえ相手がひとりだとしても、決して油断はできない。
「…………」
急に不安が込み上げてきた僕は、棺桶のような安心感を求めて通路の壁に身を寄せた。何気なく伸ばした手が、壁の突起物にポチッと触れる。
「ちょっとゲヘリク、あなた今……何か押さなかった!?」
「え、あ、これは」
――墓場でボタンを押したよ、墓地ッとな。
そんな会心のダジャレを思いついたが、披露するより先に天井の一部が落下してきた。
「危ない!」
僕は咄嗟にシーシャの死体を突き飛ばし、自らもその反動で後方に飛び退いた。
その直後、天井はふたりの間を引き裂くようにズズーン。床まで達して通路を塞ぐ壁となり、僕たちは離れ離れになってしまった。
「くそっ……」
こんなことなら、シーシャに思うさま抱きついて向こう側へ逃げるべきだった。だがそれも後の祭りだ。僕は仕方なく、ひとりで城内を進むことにした。
「シーシャなら、きっと大丈夫だ」
僕は心細さを紛らわそうと、胸元に下げた女神の悶章を握り締めた。すると、余計に悶々とした気分が込み上げてきた。呪いのアイテムだったのだろうか。
そんなことをしながら歩いているうちに、やがて僕は両開きの重厚な扉に逝き当たった。
「ふむ、いかにも魔王がいそうな扉だ。都合よくキモラ姫だけいれば嬉しいけど……」
躊躇しながら扉を押し開けた。
「ご冥福をお邪魔します」
丁寧に挨拶して中に入ると、正面から読経のような殺気が吹きつけてきて、僕は危うく成仏しかけた。
「待っていたぞ、村ゾンビAよ。余が魔王だ!」
突然くぐもった男の声が室内に響く。僕は反射的に答えた。
「いや、確かに僕はシダラケ村のゾンビGだけど、一応これでも勇者の末裔だぞ?」
「そうか、だいたい合っていたな」
「…………」
どうやら当て推量で声をかけてきたらしい。僕は呆れながらも大広間の中央に眼球を向けた。そして、傾いた玉座に腰かける魔王を認めた瞬間、
「えっ!?」
僕は、その姿に短く声をあげてしまった。
魔王の額に巻かれた白い三角頭巾に見覚えがあったのだ。いや、それだけではない。魔王が身にまとっていたのは、贅沢に菌の死臭をあしらった上等な衣。それは、王族の権威を象徴するに相応しい代物だった。
そう、魔王の正体は、フランシタイン酷王クズデス二世だったのだ。
しかし、どうにも腐に落ちない。シーシャは、魔王の正体をクズデス二世だと推理したとき、否定していたではないか。これはどういうことだろう。
僕は自慢の腐った脳で必死に考えた。だが、すぐにそれを中断しなければならなくなった。魔王がいきなり立ち上がったのだ。
その拍子に玉座が倒れ、僕は背凭れの後ろに見た。見てしまった。縛られている女性ゾンビの姿。それはまさしく――
「キモラ姫っ!」
僕は思わず叫んでいた。
悪夢にまで見たキモラ姫の姿がそこにあったのだ。初めて間近に見る姫の死相は、どこまでも痩せこけて美しい。彼岸花を模したドレスが僕の眼球に眩しかった。
「ああ、勇者様。早くわたくしを助けて……」
キモラ姫が、割れた鈴のごとき可憐な声で僕を呼んでいる。
「今すぐにっ!」
相手は酷王陛下だったが、僕は躊躇などしなかった。今は諸悪の根源たる魔王なのだ。僕は素早く卒塔刃を抜き放ち、玉座の側を動かぬクズデス二世に斬りかかった。
スカッ!
しかし手応えはなく、一刀両断した魔王の死体は、煙の少ない線香よろしく一瞬で霧散してしまった。
「こ、これは一体……!?」
「ゲヘリク、危ない! 避けて!」
突然、背後からシーシャの声が飛んできた。天井の罠を迂回して、この大広間に辿り着いたのだろう。
「シーシャ、何を――」
――何を避けろと言うんだ?
僕はそう問い返すつもりだった。魔王が消えてしまった今、避けるものなど何もないはずだった。だが僕の眼球は、次の瞬間、信じがたい光景を捉えていた。
縛られて動けないはずのキモラ姫が、僕の目の前にいたのだ。そして、彼女の手に握られた短剣が、僕の鳩尾に深々と突き立っていた。
「さらばだ、勇者の末裔よ」
「そんな、どうして姫が……」
僕はヨロヨロと後退した。そのまま体勢を崩して倒れそうになったが、背後に駆け寄ったシーシャが僕を支えてくれた。
「ゲヘリク、大丈夫!?」
「愚腐ッ」
盛大に吐血しながら前傾姿勢になると、僕の鳩尾に刺さった短剣がポロリと落ちた。腐りかたびらを易々と貫いた短剣も、その奥にあった女神の悶章までは貫けなかったのだ。
「大丈夫みたいね」
僕の無事を知ったシーシャが、安楽死のような微笑を浮かべる。
「シーシャ、そんなことよりキモラ姫の様子がおかしいんだ。どうして急に――」
「落ち着いて、ゲヘリク。姫は急におかしくなったわけじゃないわ」
「え?」
すっかり混乱してしまった僕に、シーシャが真実を語り始めた。
「あなたの斬り捨てた陛下は、キモラ姫が作り出した幻影。つまり罠だったのよ。そしてキモラ姫こそが真の魔王」
「バカな、どうしてそんなことに……」
「キモラ姫と冥奴姉妹は、禁断の珍味である『ニンゲンの肝』を食べてしまったの。だけどニンゲンの肝は腐りすぎていた。その腐敗ぶりに三人は発狂し、ニンゲンのように破壊を始めてしまったのよ」
――なんということだろう。ニンゲンの腐敗ぶりは、滅んでもなおゾンビたちを脅かしていたのだ。
「話は終わったか、シーシャ?」
キモラ姫が、不意に高圧的な口調で言った。
僕は会話を切り上げ、魔王であるキモラ姫を振り返った。そしてギョッとする。シーシャと会話をしている間に、キモラ姫の容姿が大きく変貌していたのだ。
ニンゲンの肝による力の発露だろうか。その死体の隅々から、ゾンビならざる生気が溢れ出していた。
「キモラ姫、なんと痛ましい姿に……」
生命力に満ちた瞳と、肩へ流れ落ちる黄金色の髪。まるで、ニンゲンのように邪悪な輝きを発している。そして肌はウジ虫の一切を喪失し、きめ細かな白磁のように醜かった。発酵の貴腐人と称された姫の美しい面影は、どこを探しても見当たらない。
「シーシャよ、我が配下の冥奴姉妹を倒したようだな。その技倆、ここで失うのは惜しい。どうだ、我が配下とならぬか?」
「あたしは王命に従い、キモラ姫、あなたを救うために参りました」
「ふん、我が配下にはならぬと申すか。ならば勇者の末裔よ、そなたはどうだ?」
僕は即座に首を振った。
キモラ姫に仕えるのならふたつ返事だが、ニンゲン紛いの魔王に与するのは願い下げだった。
「僕はクターバルの血を継ぐ者。腐っても勇者だ!」
「愚かな。では貴様らに無限の永眠をくれてやろう」
魔王キモラが、腰の帯剣を大仰に抜き放った。その途端、僕のウジ虫に戦慄が走る。魔王の大剣は、太陽のように真っ赤な炎をまとっていたのだ。
「バカな、ゾンビなのに炎の剣だと!?」
「ニンゲンと化したこの身体であればこそ使える誇大の呪物、数多のゾンビを屠った『荼毘ブレード』だ。貴様らの腐った死体など、一瞬で灰燼に帰してくれよう」
恐らく、王城の宝物庫に秘されし禁断の呪物だろう。とんでもない代物を持ち出してきたものだ。
「シーシャ、散開して戦おう。魔王の気を散らしながら近づくんだ」
「ええ、分かったわ」
僕たちは大きく左右に広がりながら、それぞれの剣を構えた。
「そんなことをしても無駄だ」
――ブオッ!
魔王が大剣を振るうと、剣先から巨大な炎の塊が現れた。それが、シーシャを目がけて一直線に飛んでいく。不意を突かれた彼女は、回避が間に合わずに被弾して片膝をついた。
「シーシャ!」
「だ、大丈夫よ。脇腹を掠っただけ。しばらくしたら動けるわ」
どうやら大した致命傷ではなさそうだ。僕は安堵のメタンガスを漏らした。だが、これで危機が去ったというわけではない。
「次は貴様の番だ、勇者の末裔よ」
魔王キモラが、今度は僕に狙いを定めて大剣を振るう。再び現れた炎の塊を見て、僕は思わず立ち竦んだ。このままでは、死んでいるのに殺られてしまう。
「落ち着け、相棒。今こそ見せてやるぜ、俺様の真の力を!」
卒塔刃が地獄の底から響くような声をあげると、その刀身に刻まれた梵字がドドメ色とババ色の怪しい光を発した。
そして次の瞬間!
飛来した炎球と卒塔刃が激突して、僕は盛大に仰け反った。恐ろしい炎の演舞。いかに伝説の剣とはいえ、これでは卒塔刃が燃え尽きてしまうのではないか。
僕が慌てて手元を確認すると、ジュジュ~という音を立てて、まさに炎球が消滅するところだった。卒塔刃の刀身は、いつの間にか逆巻く水流を帯びていたのだ。
「これは……」
「俺様の最終形態『涙雨ブレード』。荼毘ブレードと対を成す力だ」
僕は驚くばかりだった。
それなりに凄い力を秘めていても、卒塔刃は所詮スケコマシ剣だと思っていた。それが、これほど本格的な力まで隠していたのだ。助かったけど無性に悔しかった。
「なるほど。我が炎を退けるとは、さすが勇者の末裔だな。見事な腐傑っぷりよ。だが――」
魔王は僕をひとしきり褒めちぎると、いきなり凄まじい速さで距離を詰めてきた。ゾンビの死体からは考えられない敏捷性だった。
「――貴様の奮闘もここまでだ。燃え尽きろ、勇者の末裔!」
炎をまとった大剣が、縦横無尽に襲いかかってくる。僕は卒塔刃の力を借りて応戦した。
幾度となく交錯する、炎と水の荒れ狂う剣撃。最初は互角かと思ったが、僕は次第に押されて後退し始めた。ニンゲンに近しい魔王の身体能力は、勇者の血を継ぐ僕の死体能力よりも上だったのだ。
「相棒、あいつは正真正銘の人間だ。正直、分が悪いぜ」
さすがの卒塔刃も弱音を吐いた。
その所為だろうか、刀身を包む水流の勢いがわずかに弱まった気がした。そして魔王キモラは、その隙を見逃さなかった。
「もらったぞ、さらば勇者よ!」
絶望的な炎の一撃が、ほとばしる水流を弾き飛ばして迫り来る。
――もうダメだ!
僕が、こんがり焼死体になる覚悟をしたときだった。突如、眼前にひとつの影が躍り出た。
「……シ!」
僕は扼殺されたように声が出なかった。影の正体はシーシャだったのだ。彼女は僕を庇って背中に炎の剣を喰らいながら、弱々しい声で言った。
「ゲヘリク、今よ」
「いや、しかしシーシャが……」
「早く!」
「わ、分かった」
荼毘ブレードを振り抜いて体勢を崩した魔王に、僕はしんみりと斬撃をお見舞いした。
「喰らえ魔王!」
それは、初めて卒塔刃の力を借りずに放った一撃だった。僕は、魔王の生身を思い切り袈裟斬りにした。
「バ、バカな……」
仏舎ーッと派手に飛び散る鮮血。魔王キモラは、僕を呪うように両腕を伸ばしながら、静かに力尽きて倒れた。
「終わった……のか?」
床に視線を落とすと、ニンゲンの呪縛から解放されたのか、肌にウジ虫を取り戻しつつあるキモラ姫がうつ伏せに倒れていた。少し離れた場所には、僕を庇って斬られたシーシャも横たわっている。
ふたりとも、まったく動く気配がない。
「…………」
僕はシーシャの元に駆け寄った。
キモラ姫の救出だけを考えてここまで来たはずなのに、今はシーシャのことしか考えられなかった。いつしか彼女は、僕の中で誰よりも大きな存在になっていたのだ。
「シーシャ、どうやら僕は君のことが……」
伝えられない空虚な想いが、僕の口から言葉の続きを奪った。破れている腹部だけでなく、胸にもポッカリと穴が空いたようだった。
本当にこれでよかったのだろうか。キモラ姫は、シーシャの望み通りに救われたのだろうか。
――分からない。何も考えられない。
僕の心には、ただ虚しさだけが累々と募っていった。




