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イブの妄想

イブの妄想  ママが家出しちゃったよ

作者: 深瀬静流

「イブの妄想」は、「小説家になろう」のほうで連載していたもので、短編のほうはそのシリーズの続編になります。登場人物の詳しい関係は、本編の第一話を読んでいただけたらわかりやすいかと思います。みんなからイブと呼ばれて愛されている高校二年生の相田伊吹君は、たくさんの友人たちに囲まれて、なぜだかいつもまわりを大変なめにあわせるというお話しです。


「おばあちゃま、宝子です。いま、お電話いいかしら」

 ソファに腰掛けて受話器を耳に当てた相田宝子≪あいだほうこ≫が、電話の向こうの誠実キツ子≪せいじつきつこ≫にはずんだ声をかけた。

「おや、宝子さん。なんだか楽しそうだね。なにかいいことでもあったのかい」

「それがね、おばあちゃま。貢≪みつぐ≫さんから電話があったんですけど、こんど貢さんが部下の結婚式でお仲人さんを頼まれちゃったんですって。それで、わたしが新潟のほうに行くことになったんですけど」

「へえ、そうかい。宝子さんたちも、若い人たちの仲人をする歳になったんだねえ」

「若いつもりでいても、いつのまにかそんな歳になっていたんですよねえ。それでね、初めての仲人なものですから、いろいろお聞きしたいと思ってお電話したんです」

「なんでも聞いておくれよ。ちょっとは年の功で役に立つかもしれないよ」

「たすかりますわ。おばあちゃまのお宅にこれからうかがってもいいかしら」

「どうぞどうぞ。一緒にお昼をしましょう。のんびりしていくといいよ」

「ありがとうございます。では、のちほど」

 電話をきった宝子は、冷蔵庫からきのうのうちに作っておいたミートパイをだしてアルミホイルにくるんだ。手早く着替えて手土産のミートパイを持って、夕飯の支度に間に合うように帰ってくるつもりで家をでた。

 水族館で知り合って交際が始まった誠実キツ子には、小学校一年生の太郎と幼稚園の年長さんの花子という孫がいる。宝子からすればお姑さんぐらいの年齢のキツ子は、人生の先輩として心強い友人だった。



それから何時間か後、高校から帰ってきた相田伊吹は、玄関に鍵がかかっていたので首を

かしげた。めったに使ったことのない合鍵で玄関に入り、「ただいま」と靴をぬぎながら奥に声をかけた。しかし「お帰りなさい」といういつもの宝子の返事が返ってこない。伊吹は玄関で立ちすくんだ。

「ママァァ、ただいまだよー」

 なんで『お帰り』といういつもの返事がないんだ!

 靴を蹴飛ばして伊吹はリビングキッチンに走りこんだ。

 いない!

 キッチンの自縛霊みたいに、いつもいつも台所にへばりついて、子供が帰って来るたびに、「ご飯は?」ときてくるママがいない!

 いない!

 伊吹はくらくらめまいがした。

――――たいへんだ。

ママが家出しちゃったよ。あのママが、いったい何の不満があって家を出て行ったんだろう。

ママは主婦だから、主婦の不満といえば夫だろう。パパへの不満がつもりにつもって家出したんだ。

だけど、おかしいな。パパは単身赴任で家にいないから不満なんてないはずだ。パパが単身赴任してから何年たったのかも覚えていないくらいだから、ぼくだってパパの顔を忘れちゃたくらいなんだ。ママなんか、結婚していることも忘れちゃっているだろう。

忘れられたパパのほうなんかどうでもいいけど、毎日毎日ご飯の支度ばっかりで、わたしの人生はなんだったのかしら。ご飯を作るために生まれてきたわけじゃないわ。ご飯を作るために結婚したのでもないわよ。ご飯ご飯のわたしの人生って、なんなの! とかなんとか、突然人生の哲学なんかに目覚めちゃったりして、鍋も包丁も振り捨てて家を飛び出しちゃったのかもしれない。

ママからご飯の支度をとったら、ただのおばさんだ。ママの存在価値はご飯の支度だけなんだ。ご飯の支度ができなくなったママなんか、ママじゃない! ママ、イコール、ご飯

! 大変なことになったぞ。ママがいなくなったとたん、お腹がすいてきた。夕飯まで我慢できるかな。ママの家出は夕飯までに終了するだろうか。なかなか帰ってこなかったらどうしよう。このまま一生帰ってこなかったら、どうしたらいいんだ。誰が食事係をするんだ。

そうだ。とにかく食べ物を確保しよう。ママがいなくても飢え死にしないように、どっさり食料を調達するんだ。

そうなると、ぼくが好きなのは鰻丼なんだけど、国産の鰻は高くて庶民には手が出せなくなっちゃって、三年間も食べていない。そうだ、特上の鰻丼をぼくと万札≪まんさつ≫と一子≪いちこ≫ちゃんと二子≪にこ≫ちゃんと三子≪みこ≫ちゃんの五人分たのもう。それと、ピザ生地のみみまでチーズが入っているLサイズのピザを五枚と、お寿司も最後に食べたのは何年前だったか。特上のお寿司がやはり五人前だな。

ママがいたら絶対に食べさせてもらえないものばっかりだ。うれしいな! ママの家出もたまにはいいかも! ――。

 伊吹はリビングの電話に飛びついて、宝子がホッチキスでとめておいた出前のチラシの束をめくり始めた。チラシのカラー写真のごちそうに唾がわく。わくわくしながら駅前の鰻屋に電話を入れた。特上の鰻を五人前ツケで注文し終わったとき、玄関の開く音がした。

「たーだいまぁ」

「あ、三子ちゃん! ママが家出しちゃったから、夕ご飯は鰻丼を五人前たのんだところだよ! あとはピザのLサイズもたのむからね。それと、お寿司の特上もね。うれしいね! これからもちょくちょくママが家出してくれたらいいよね」

 涎を垂らさんばかりに喜んで、いそいそリビングに戻って電話をかけようとする伊吹に

三子は唖然とした。

「なんだとぉ。ママが家出だと? 大変じゃないか」

 靴を蹴飛ばすように脱いで家に上がり、リビングの電話を耳にあてている伊吹の首っ玉を掴んだ。

「イブ。ママが家出したってどういうことだよ」

「苦しいよ三子ちゃん。手、放してよ」

「おう、そうだったな」

「ぼくが学校から帰ってきたらママがいなかったんだよ。いつも帰ってきたら『ご飯は?』

ってきくのがママの生甲斐でしょ。子供たちを飢えさせないのが母親の愛だと信じて『ご飯は?』ばっかりなのに、そのママがいないんだ。夕飯まではあと二時間あるけど、今頃はお台所で無我夢中でフライパンを振り回しているころだよ」

「ううううむむむっ」

 三子は腕組みしてうなりだした。三子は伊吹のすぐ上の姉で、建築科に通っている大学生だから、伊吹より分別がある、はずだ。

「だから三子ちゃん。ママは家出したんだよ」

 三子は玄関に戻って下駄箱の中を覗きこんだ。宝子の外出用のパンプスがなかった。

「信じられない。あんな子煩悩なママが家出なんて」

 三子は全身から力が抜けて玄関のたたきにへたり込んだ。

「だいじょうぶだよ三子ちゃん。お夕飯は鰻丼だから。それにピザでしょ、特上のお寿司でしょ。ぜんぶ五人前ずつたのんだからね」

「なんて情けない子だ。母親が家出したというのに、心配事は食うことだけか」

 三子が男泣きに泣きだした。泣きながら一子の会社に電話を入れる。

「一子ちゃん。ママが家出しちゃったんだ。心当たりはないかな」

『ママが家出ですって? どうして家出なんかするのよ』

「知らないよ。でも、いないんだよ。どうしよう」

『泣かないで三子ちゃん。今すぐ帰るから。落ち着くのよ。じゃあ、ね』

 次に三子は二子の勤めている原宿のブティックに電話を入れた。

「二子ちゃん、三子だけど。大変だよ。家に帰ったらママがいないんだ。家出しちゃったんだよ」

『忙しいんだから、冗談なら帰ってからにしてよ。きるよ』

「ほんとに家出しちゃったんだよ。ママが帰ってこなかったらどうしよう。うわああああん」

 三子が大泣きしだしたものだから、二子はびっくりした。

『ほんとなの! でも、ママが家出なんて考えられないよ』

「一子ちゃんもすぐ帰るって」

『一子ちゃんが? それなら本当なのね。わかった。わたしも急いで帰るよ』

 一時間後、一子と二子が帰ってきた。帰る途中で二人とも、それぞれ交際している本田青年と坂本肇のところに電話をかけたので、やがて相田家に続々と人が集まってきた。

 伊吹が心細くて電話をかけた親友の真田や土方、夏目も駆けつけたし、保藻田、芸田、釜田も来た。もちろんチロルもいる。一子の婚約者の本田青年は両親と祖父母も一緒だし、二子と結婚するつもりでいる坂本肇も両親を連れてきた。みんな宝子の家出を真剣に心配してやってきた人々だ。そこに出前のピザが届いた。人でごった返したリビングにLサイズのピザを五枚はこんだとたん、歓声が上がった。さらに特上の鮨が五人前届いて、ふたたび歓声が上がる。こんどは特上の鰻丼が五人前届いた。もはや宝子の家出は完全に忘れ去られていた。

 一子と二子と三子は、コップや皿や飲み物を配るのに忙しく、やはり母親の家出を放念してしまっている。本田家と坂本家は、なにやら和やかに懇談がはじまってしまって、本田家が一子の自慢をはじめれば、坂本家も二子をほめそやしてますます話しが盛り上がる。両家とも一子と二子が我が家の息子の嫁になると思っているからヒートアップするばかりだ。すしづめ状態のリビングをみわたした本田家が、料理が足りないのではないかと言い出したものだから、六代続いた江戸大工の棟梁の坂本家が料理を注文すると言い出して、それではこちらが、いやいや、こちらでと、両家が揉めだした。

 伊吹は友人たちの真ん中で、片手にピザ、片手に握り寿司を持ち、足のあいだに鰻丼を抱え込んで夢中で貪り食っている。

 そのうち、酒屋から冷えたビールとジュースがケースで運び込まれ、五人前の寿司桶が六枚届き、Lサイズのピザが五枚追加された。もう、完全に宴会状態だった。

 福沢邸で留学のための特別カリキュラムの学習を家庭教師から受けていた万作が帰ってきた。玄関を開ける前から聞こえてくる家の中のにぎやかさに首をかしげながらリビングをのぞいてびっくりする。どんちゃん騒ぎどころではなかった。大声で笑うわ喚くわふざけるわで、高校生も中年も高齢者も、ごった混ぜになって笑い転げている。楽しさや幸せや喜びのすべてがここに集結したような爆発的なエネルギーに、万作は言葉が出なかった。

 「万作さん、これはなんの騒ぎかしら」

 キツ子のところから帰るついでにスーパーで買いものをしてきた宝子が、リビングの入り口に突っ立っている万作に訊ねた。

「さあ。俺もいま帰ってきたところなんで」

「まあ、本田さんのおうちの方々だわ。それに坂本さんのおうちの方々も」

 宝子はなにがなんだかわからないまま、笑いの中心で大騒ぎをしている伊吹に身をのりだした。

「イブちゃん。どうしたのそれ。なにをたべているの」

「あ、ママ。お帰り。もう家出から帰ってきちゃったの。もっとゆっくりしてくればよかったのに。ママが家出したって言ったら、みんな来てくれたんだ。ママを心配して、こおーんなに、たくさんの人が来てくれたんだよ。でもぼくは、こんなにたくさんのごちそうが食べられるんだったら、ずっとママが家出してくれてたほうがいいな」

 ご機嫌で鰻丼をほおばっている伊吹の、たれで黒く汚れた顔を、宝子は呆然と見つめた。

ぶら下げたスーパーの袋から、長ネギとうどん玉がのぞいている。遅くなってしまったから、手早くうどんでも食べさせようと思って買ってきたのだ。それが、それが、ピザにお寿司にう、う、鰻丼!

 宝子の顔が真っ赤になったと思ったら真っ青に変化した。体は硬直し、スーパーの袋を持ったこぶしがぶるぶる震える。

「万札もこっちにおいでよ。食べるものはいっぱいあるよ。ごちそうだよ。三年ぶりのピザにお寿司に鰻丼だよ。はやくおいで」

「ひと様がおおぜいいる前で、三年ぶりのごちそうですって!?」

 宝子の顔が紫色に変わった。赤くなっていいのか青くなっていいのかわからないのだろう。半身が沸騰するように熱く、半身が絶対零度のように冷たいからだ。万作はそろそろと後ずさってこっそり玄関に戻った。

「イブちゃん! いま食べているのはなに!」

 宝子の声は甲高く震えている。

「ママ。これは特上のお寿司だよ。ママがつくってくれるおにぎりみたいな握り寿司じゃなくて、本物のお寿司だよ。三年ぶりの本物だよ。ママも食べなよ」

「うぐぐぐぐ。本田さんのご家族がいる前で!」

 宝子の食いしばった顎から奇妙な声が漏れる。

「イブちゃん! こんど食べたのはなに!」

「鰻丼だよ! ママはナスを焼いて鰻丼のたれをかけて鰻丼だってごまかすけど、これは

本物の鰻だよ! ナスとちがって口の中で油がとろけて気を失うくらいおいしいよ。三年ぶりの本物だから、はやくママも食べなよ」

「うぐぐぐぐ。坂本さんや本田さんのご家族がいる前で! それに、なんでイブちゃんのお友達もいるの。なんでこんなにたくさんの人が! なんでこんなにたくさんの出前が! 誰が払うの。誰がこんなにたくさんの出前のお金をオオオオオオオ! イブちゃん!」

 万作は今夜は帰れないと思った。このあとのことを想像すること自体、恐ろしくて頭痛がする。玄関ドアをそっとあけて、「イブちゃん! いま食べたものを吐き出しなさい! 鰻もお寿司もピザも、全部残らず吐き出しなさい!」という宝子の声を背中に聞きながら、万作は自分の家の福沢邸に逃げ込んだのだった。

 伊吹と一緒に暮らすようになって十三年。その間一度も自分の家の自分の部屋で寝たことはない。国会議員の少子化対策担当大臣をしている母の富≪とみ≫と、福沢コンツェルンの総帥の父金作≪きんさく≫を、これまで怖いと思ったことのない万作だったが、今夜の宝子は怖かった。逃げ出したあと、どうなったかは考えないようにして、十三年ぶりの冷たいベッドで一夜をあかした万作だったが、ぶるぶる震えていた宝子の形相が目の裏にちらついて、ついに眠れず朝を迎えたのだった。



     ママが家出しちゃったよ  完


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