幼女たちとの彼岸 〜前編〜
『幼女の彼岸』
—— 前編 ——
††† 山・ 十九時 †††
『何事にも相応しい時と場所がある』
八割方成し遂げるまでは善かったが、あと少しというところで、遂に「それ」に頭の中を支配されてしまった。
昔、あの男が、声帯から生やした太いビニールホースをくぐり抜けるような吐き気を催す声で、竹の棒切れを天井の裸電球にぶつかるまで高々と何度も振り上げ、そして振り下ろしながら、年がら年中浴びせてきた言葉が。
しかし、なぜ・いま・この場所で、出てくるのだ。
そもそもそれが相応しくないというのに。
「うぐぁぁああああああ、五月蝿ぇぇええええっ!」
低く太い唸り声を挙げ、勇は両手の十の爪で喉仏を掻き毟ると、抉り削いだ赤い皮の筋を握りしめて、ふらついているハンドルを立て続けに横殴りした。
その拍子に、灰色のセダン車は幹線道路を逸れた。
「理解ってるぁぁあああああっ!」
何キロ出ていたかはよくわからないが、耳に鼓膜の許容量を超える衝撃音がメリ込んでくるのを聞いた。同時に一瞬、車体が一度短く弾き返され、次の一瞬で今度は前へ押し戻されたときには、ガードレールが視界の隅から外れていくところだった。
前方を見ると、ヘッドライトの明かりがどこかへ消えていたうえに、生い茂った藪が車高を越えて覆い被さってきた。
雲が隠したのか、月光も星の光も届いてはこなかった。
ましてや、都会から遠く離れた寒村の主幹道路を外れた獣みちとなれば、街灯の類い一本の明かりも、気配すら感じられないのは当然のことだった。
一帯は、闇だった。
勇は嗤う。
それなら、この車ごと無邪気な子供の手になろう。
そして、薮を掻き分けて突き進むのだ。
そう、下は獣みち。
打ってつけじゃないか。
もう、俺は獣のようなものなんだから。
道は、徐々に上へと向かっている。
このまま深く深く前傾姿勢で走ればいい。
そうすれば、どんどんどんどん速くなり、どんどんどんどん軽くなれる。
もう、止まる理由などないのだ。
どうせ、とっくの昔にそういうボタンは壊されていたわけなのだし。
あの男の、あの忌々しい言葉を繰り返し浴びたことによって。
斜面を上り終えた先で、また高らかに破裂音が聞こえたと思うと、ボンネットが玩具のように拉げて、車は止まった。
その反動で胸をハンドルに強打した勇は、しばらく呼吸ができなくなったが、その間も嗤わずにはいられなかった。
車からケラケラ転がり出ると、道を塞いでいたのが巨石だとわかった。
自分の背丈ほどの高さと、両手で抱えきれないくらいの幅を持つ、球のように丸い岩だった。
その先には少し間隔を開けて、もう一つ、それより少し小さな岩が並んでいた。三角錐のような形をし、頂点が鏃のように鋭利で、全身が鋸の刄のように細かな刻み目を持っていた。
二つの岩は、仰々しく七五三縄で囲われていた。
夫婦岩だった。
車との衝突により、大きい方の岩には亀裂が入り、一部が欠け落ちていた。
「なんだよ、俺に対する嫌味か、このヤロウ…!」
勇は、岩の欠片を蹴り飛ばした。
運転席に上半身を捩り入れてキーを捻り、エンジンを止めた。
カーステレオの音がウミュッと尻切れた。
やけに静かになった。
ほかに人もいなければ、動物も虫もいない。
そういえば、風もない。
見渡すとそこは森で、夫婦岩の周りだけ開けているふうだった。
森は小さなものだったが、ここでも生い茂る木々の葉が頭上を覆っているため、ただでさえ月も星も見えない闇夜をいっそう深くしていた。
森の中では、濃密な夜気だけが回遊していた。
そこで一つ深呼吸をすると、やけに冥く、落ち着けた。
「ほらな。…やっぱり相応しいだろ?」
勇は、車のトランクを開け、タタミ三畳分はあるブルーシートを、夫婦岩の前の苔が生した平らな地面に広げると、その上に古めかしいボストンバッグを置き、中から弁当箱と水筒、缶ビールを取り出して並べた。
続けて、トランクから自分の身体の半分くらいの大きさの米袋を担ぎ出し、夫婦岩の大きい方の岩に立てかけてドサリと置いて、搬出を終えた。
勇は、ブルーシートの真ん中に腰掛け、弁当箱の蓋を開けた。
そのとき、目の前に立てかけておいた米袋が体勢を崩し、おもむろに横倒しになった。
緩んだ袋の口から黒い毬が放り出され、ゴロリと地面に転がり出て、夫婦岩の小さい方の岩に躓いて止まった。
毬には、何かいろいろなものが付いていた。
びしょ濡れの長い黒髪。滴り落ちるマスカラとファンデーション。その向こうに窺える端正な鼻。透き徹った唇。何ひとつ感情を伝えてこない澄んだ二つの眼。
女の首だった。
眼は大きく剥かれて、両眼とも虹彩を縦に裂いて、小さな鋏が一本ずつ突き立てられていた。
それが、勇を見ていた。
月が顔を出した。
むぅっとする甘ったるい香気に当てられ周囲を見回すと、頭上を、黒い蝶が一羽ひらひらと舞っていた。
勇は、缶ビールのタブを引き抜き中身を一気に飲み干すと、眼を真っ赤に染めて長い鼻息をふうぅんと鳴らした。
直後、頭上に素早く片手を伸ばし蝶を掴むと、そのまま軽く捻り潰した。
掌の中から漏れ出す粉末を払うことなく、女の眼を見ながら、水筒のコップを盃のように掲げた。
「お疲れさまでした」
ぼそり呟くと、液体をコップに注ぎ、中身をグイと一気に喉の奥に流し入れた。黒ずんだ液体が口角の隙間からだらしなく滴った。
途中、うっと戻しそうになりながらも、空かさずもう一杯、もう一杯と流し込んだ。
そして、弁当箱を開け、箸で中に押し詰められた黒い焼き肉を摘んでは口に放り込み、クチャクチャと音を立てては呑み込んだ。
横倒しの米袋には、まだ大きな中身が詰まっていた。
袋の口からは、黒い液体が、トクトクと流れ出て、それを呑み干した地面は見る見るうちに漆黒に湿っていった。そして、朧な月明かりのすべてを吸い尽くすように、沈んだ光沢を放っていた。
そのとき、巨石の裏側からこちらへ、声が呼びかけてきた。
「ままぁ」
††† ひもろぎ保育園 ヒノキ組 教室・ 八時三十分 †††
「お絵かき、ほんとぅにじょうずねぇ」
省子は、自分の膝ほどの高さの机の上で繰り広げられている水彩画を見ながら、未来の絵描きさんの肩越しから呟いた。
日常のちょっとしたことでも褒めてあげることで、本人の潜在的なところに「自分はできるのだ」と刷り込ませ、やる気を引き出して能力を伸ばしてあげることは、雑誌や書籍、テレビでもお馴染み。子育ての基本中の基本だ。
基本の刷り込みは、自分にも応用していた。
保育士という仕事柄、日常業務を通して、嫌というほど自分に刷り込んできたはずだった。
しかし、そのことをいま、すっぽり忘れていた。
自分でも驚いた。
本心が口をついたのだった。
そしてすぐに、こうした瞬間に出会えるからこそ、この一日一日、来る日も来る日も一筋縄ではいかない大変な仕事を続けていられるのだと、改めて思った。
本当に通じられること。
それを新しく移ってきた職場で、初日にして感じられることが、なにより嬉しかった。
「きれいな木がたっくさん」
声が届いていなかったのだろうか。
「これは、お弁当かな?」
「ショベルとバケツでお山つくったんだ」
反応がないことに焦って続けて尋ねているうち、その絵のディテールに捕われて、思わず絵の世界に浸っていた。
地面にシートが描かれた。
「そうなんだぁ、ピクニック大好きなんだねぇ」
教室にいるほかの園児や保育士たちがどこか遠くの方にいるように感じはじめて、郷愁さえ覚えていた。
それにしても、自分に絵心なんてあっただろうか?
生まれて二六年間、全くもって考えたこともなかった。
そういえば一度だけ、高校時代の写生の時間に、校舎近くの寺院の庭で羽を大きく広げて自由に羽ばたく鳩を、画用紙を斜めに使うことで画角一杯に描き、美術教師に褒められたことがあったくらいだ。たまたま構図の捉え方が閃いただけ。肝心の鳩の絵そのものは褒められたものではなかった。
でも…いや、だからかも知れない。子供たちにも、最初は下手でもいいから自由に描いてもらいたいと思っていた。
そのうち、空が黒く染められた。
服が汚れるのも構わない。ルールなどに縛られることなく、ほんとうに好きに描いてほしい。
「あら、お星様もきれいねぇ」
漆黒の空に、灰色の星が灯された。
夜にピクニックとは、大人にはできない発想だ。自分が口を挟むまでもなく、この子たちは本当に無限なんだ。
自分でも思わず笑みが溢れているかも知れないのがわかった。
「わぁ、これは何だろぅねぇ? ずいぶんたくさん、お友達がやってきてるんだねぇ」
すうっと、筆が止まった。
小さな手に握られていた筆が放られ、ほかのものに取って変わられた。
その手はゆっくり振り上げられ、少ししわくちゃに乱れた長い黒髪を生やす小さな頭の上を越えて、動かなくなった。
「はっ…!」
振り上げた拍子に引っ張られた長袖の袖口から覗いた手首に、横に裂かれたような切り傷の跡を、省子は一瞬、確かに見た。
気付くと、夜のピクニックは荒れ狂う豪雨に見舞われていた。
艶の失せた黒い配線コードような無数の線が、画用紙の絵を掻き毟らんばかりに撒き散らされていたのだ。
省子は、生唾を呑んだ。
髪だった。
筆の代わりに突然握り変えられた鋏で、無造作に斬り落とされたものだった。
「ショーコせんせっ」
異変に気付いたベテランの狭山の場違いなほど柔らかな声が、かえって省子を我に返らせた。三歳になるかならないか程度のほかの園児たち十数名が、こちらをキョトンと見ていた。
「事務室へどうぞっ」
狭山は、園児たちに道を空けるよう手振りで促し、若手女性保育士の栄子に何やら合図を送って後を任せると、省子の腕を引いて立ち上がらせた。
「す、すみませんっ、私…」
「大丈夫、大丈夫」
狭山が事の印象を大げさに残さないように、軽く何度か頷いた。
「さぁ」
狭山と省子が教室を後にするとき、年少クラスの教室に似つかわしくない、低く抑揚のない声が響いた。
「…人ぢゃないよ…」
省子は振り向いた。
鋏を持ったおかっぱの市松人形がいた。
前髪が拉げた三角定規を当てたようにザンバラに斬り乱されている。
人形は、口角を右側だけ少し上げ、嗤った。
「クケ…」
省子は、吐き気と目眩を感じ、気を失った。
その園児の名は、智といった。
††† 同 事務室・ 九時 †††
パイプ椅子に座り、省子はしばらく放心していた。
狭山が、省子の前に湯呑みを置いた。生ぬるいお茶の湯気が、湿気を多く含んだ蒸し暑い空気に吸い込まれるように、ゆらゆらと立ち上っては消えていった。
「少し休んで、調子が戻ったらまた教室に来たら。ね?」
手慣れた素早い動作で冷房のスイッチを入れ、ドアノブに手をかけた狭山を止めるように、省子が尋ねた。
「あの、…親御さんは、どんな方なんですか?」
大切な宝ものを他人に預けている親の手に、朝とは違う髪型の子供が帰されたら。どんな反応を見せるかは火を見るより明かだ。
「まぁ、そんなに気落ちしないで。腰を低く、事情を説明すればたいていはわかってもらえるものだから」
狭山はちらり振り返ると、新入りに対して、この道三十年のベテランならではの満身の笑顔を見せて、部屋を後にした。
たとえどんな理由があろうとも、夕方のお迎えに現れる智の親に、一部始終を説明し、監督不行き届きを詫びなければならないのは確かだった。
それは、トータルわずか3年のキャリアの中で、一時は辞め、今回産休交代要員として飛び込ませてもらった弱い立場の自分であっても、逃れることはできない。
対処方法は、何度か経験していて重々知っているつもりだ。
そう、本当に知りたいのは、そういうことではない。
それなのに、狭山やほかの保育士たちの平静な態度を見ると、それも、自分の浅はかさから起きた単なる思い過ごしにも思えてくる。もしかすると、ほんの日常の一コマに過ぎなかったのかも知れない。どの保育園でもよくある、他愛のないことのひとつ、だったと…。
省子は、床に寝かせたままのバッグから、心療内科クリニックの名前の入った袋を取り出し、中から数粒の錠剤を摘むと、口に含んだ。
そして、すっかり味のわからなくなったお茶を一口啜った。
††† 蛇嵩山 防空壕跡・ 九時十五分 †††
『オレ、美容室で思い切って髪短くしちゃった』
『カズキ、腰イテぇから、もう風呂入って寝ます』
『ほんとお前チョーカワイイ。モデルになれるって』
『今晩二二時、熱いの♥あげるぜィ。返事ヨロシク』
なんということもない日常吐露から臭い立つ、すでに親しい関係性を築いているとする思い込みと勘違い。
整ったルックスと豊満な肉体だけが目当てのお世辞やただのセクハラ。
こうした、どうでもいい男たちへの一番の対処法は、相手にしないこと。
ここなら、そんな昨夜分のメールチェックを手早く済ませることができる。
しかも咥え煙草という、ちょっとした幸せ付きで。
自分が勤務する南じゃこう保育園の裏手に見える、蛇嵩山と呼ばれる山の斜面に開いた防空壕跡。
里美は、園長やほかの保育士や園児はおろか、時折出入りする園児の保護者たちの目を盗んでここで喫煙するスリルが、もはや習慣づいていた。
多少の息苦しさを感じるのは、昔から地元の子供たちの間で心霊スポットと噂されているせいだろうか。そもそも、入口から覗く限り、大人が屈んでやっと入れる穴が奥に2メートルほど続いている程度の狭い空間だからだろうか。
誰も寄り付かない穴場スポットとなっていた。
ブルルルルル!
尻ポケットに突っ込んであった携帯のバイブ音が鳴った。
『ごめん、ちょっと相談 m(- -)m』
いつもの男どもならいつも通り無視すればよかったのだが、同じ区内で、徒歩で十五分の近所にある保育園に勤めることになった同業者であり、同じように三歳児クラスを受け持つことになった、なにより幼馴染みの親友のトラブルとなれば話は別だった。
奔放な自分とは正反対の真面目な省子が、勤務時間中にメールしてくるとは。しかも、彼女にとって今日は新職場での初日だ。きっと余程のことだと思い、本文を急ぎ見た。
「夜…、ピクニック…? 智…? …ん!」
里美は、クイッと眉を吊り上げ、まだ吸い始めたばかりのメンソールを乱暴に地面に突き刺すと、穴蔵から駆け出し、入口にカモフラージュ用の木の枝で隠しておいた自転車を引っ張り出して、跨がった。
††† 南じゃこう保育園 教室・ 九時二十分 †††
廊下を駆けてはいけないと、日頃から言い聞かせられている園児たちが呆気にとられているのを尻目に、里美はドタバタと思い切り走って見せた。
こういうことだって時には必要だから人生ってのは、と半ば自分への言い訳を肯定しながら、自分が担任するクラスの教室に駆け入った。
「あっ! 先生、いらっしゃったんですか?」
同僚で年下の真澄の呼びかけにもかまわず、里美は、年中行事の祭りに向けて太鼓を叩いている園児のうちの一人の眼前に立ち、おもむろにバチを掴み上げた。
「あぁっ!」
太鼓の音に、鼓や鐘を合わせて叩いていた周囲の園児たちが、一斉に手を止めた。
「透くん、さっき先生にしてくれた話、もう一回できる?」
自分なりにキープしていたリズムを理不尽に止められたことに、三歳の透は途端に臍を曲げて頬を膨らまし、口を噤んでしまった。
周囲の園児たちは、口をあんぐり開けて透と里美を見守るしかなかった。
「チッ…クショう!」
里美は、おもむろにやっちまったといった顔で舌打ちした。
自分の言うことを聞かせたかったら、幼児が夢中になっているものを急に取り上げることなど、もってのほかだった。
里美は、同僚に振り返った。
「真澄ちゃん、ご機嫌取り上手でしょ?」
「え、…ええぇ〜?」
真澄は、またか、といった迷惑そうな表情を浮かべたが、悪びれずウインクしてくる里美に、遂にはどうでもよくなり呆れ顔で首を縦に振った。
「サンキュ!」
言い終えないうちに、里美は瞬時に真顔に返り、透に向き直った。
「たまにはさ、人さまの役に立とうじゃないよ、ねぇ? 昨日の夜、どこへ行ったんだっけ? もう一回、せんせに話してみてよ」
首を傾げる透に、里美はにやりと笑った。
††† ひもろぎ保育園 事務室・ 九時三十分 †††
省子は膝を曲げ、椅子の上に足を持ち上げて体育座りをした。
嵌め殺しの窓から見た空に浮かぶ太陽は、はっきりとした輪郭をぼかし、どこかぼんやりとしていた。
空は、いつからこんなに虚ろになったんだろう。
よく見ると、太陽の外側のラインを一回り大きい円が囲っていた。
虹が白く滲んだような環だった。
「ほら、暈だよ」
保育園の年長だった頃、母親が偶然見つけて教えてくれた。
家から車で三時間ほど走った山中、川の中流に広がった中州で、一家三人でキャンプをしていた。
太陽に薄い雲がかかると、周りに環っかができることがある。暈は、雨が降る兆しなんだと母は説明してくれた。
つまり暈が出たら傘が要るわけか、と父が言ったそばから自分の発想の凡庸さを恥ずかしんで笑うと、少しの間を開けて、母はわざわざ山じゅうに響くのではないかと思うほどの大声で豪快に笑ってみせた。
省子は、そんな二人が好きだった。
中学生になって思い出し、気になって図書館で暈のメカニズムを調べてみたことがある。
雲を作っている氷晶と呼ばれるものがプリズムとして働いて、自分を通り抜けようとする太陽の光を屈折させることで発生させるらしかった。
なら、曲がった光はその後、どこへいくのだろう。
光を鏡に反射させて故意に屈折させ、虫の躯を焼いて遊んでいた男子たちをつい思い出して、それ以上考えるのを止めた。
本にはもう一つ、古代中国では、それが太陽を貫くように走っていると兵乱の兆しとされていたとも書いてあった。
心なしか、猫の額ほどの園庭を囲む、乱食い歯のように凸凹した木々の頭が、朝登園した頃よりも左右に少し揺れているように見える。
せっかく思い出した家族の遠い記憶を、涌き上がってくるただならぬ不安が塗り潰していこうとしている。
今年最初の大きな低気圧の上陸だった。
今朝、TVで見た天気予報士の予想が時間も含めて当たりそうだった。この分だと夕方には、ここ十年で最大規模の降雨量をもたらす大雨が降るという。
遠くで黒くどんよりとした雨雲が生まれるのを見ると、省子は突然スイッチをOFFに切られた電化製品のように首を項垂れた。
そして、両腕で頭を抱えて俯き、腕ごと頭を膝の間に挟み込んで唸った。
「う、ぁあ、…だ、だめ…」
あの日も、ちょうどこんなふうに終わった。
暈のことなどすっかり忘れ、釣りなどをして過ごしていると、急に雨が激しく降り出した。
高台へ避難しようという父の提案で、すべてのキャンプ用品を片付け始めた。
父がテントを畳み、母がバーベキューの下ごしらえにラップをかけた。
省子は、初めての野外体験に興奮していたこともあり、畳んだテントの下に潜ったり、剥いた野菜の皮を顔にくっ付けたり、一人はしゃいでいた。
「パパァァァァァァァァァァァッ!」
見ると、省子より少し年上の小学生くらいの男の子が、川の流れに足をとられたのか、流されていた。
呼ばれたはずの男の子の父親は近くの河岸にいたが、あまりの突然の事態に何をしたらいいのかわからず動揺するだけで、その場で動けずにいた。
省子も、ほかの来場客同様、何もできずにただ見ているだけだった。
父の方を見ると、父は着ていたポロシャツを脱ぎ捨て、川へと助走をつけているところだった。
そして父は飛び込み、素早いクロールで流される男の子に接近し、抱きかかえた。
「わー、パパ! パパすごい…!」
反射的に、省子は川の中に足を踏み入れ、ばしゃばしゃと水飛沫を上げながら、父の元へと駆け寄ろうとした。
「おい! 来るなぁっ! キサマ、死にたいのかぁっ!」
省子は、今まで聞いたこともない恐ろしい父の声に驚き、思わず身体が硬直し動けなくなった。
父は叫んだと同時に男の子の両脇を掴んで自分の頭上高く掲げたかと思うと、水を呑み込んでしまい、その拍子に、川岸へ向かおうとする足を挫かれた。
そこへ間を置かず、大きくうねる濁流が猛烈な勢いで流れ込んできた。
「パパァッ…!」
本来なら鳴っていて然るべき警報が、その時やっと耳に届いた。
雨量の急上昇を懸念した上流のダムが、放水を踏み切ったのだった。
そんなになるまで気付かないほど、雨が大量に降っていたのだろうか。警報が実はずっと前に鳴っていて、自分たちが気付けていなかったのだろうか。
状況を飲み込む時間も術もなく、省子の目の前で、父と見知らぬ男の子の身体は、濁流の凶暴な力とスピードのもとに、一呑みされた。
二人は帰らなかった。
「あ、あたしのせいだ…」
省子が父親の元へと伸ばしていた腕は、引っ込める機会を永遠に失った。
そうして、母は寝たきりになり、少し間を置いて省子は鬱病になった。
††† 南じゃこう保育園 教室・十時 †††
「ピッカピカだもん!」
「にんぎょだもん!」
透と紗季は、互いに主張して譲らず、まったく埒があかない。
そのうえ、ほかの園児たちもいっしょになって乗っかり、クラス内は大賑わいを見せた。
里美が透から聞き出そうとした話が、保育園と同区内にある蛇嵩山に触れたことが発端だった。
蛇嵩山の存在は、里美はおろか真澄も園児たちも全員が知っていた。
ほかの地域から引っ越して転園でもしてこないかぎり、「山」や「お山」で通じる、地元では馴染みのある小高い山のことだった。山の反対側にある公園は、先頃開催されたばかりの全園児対象の親子ハイキングの会場にもなっていた。
「カラスがお菓子を持ってっちゃったんだよね?」
「さっちゃんが、おしっこ漏らしちゃったよね?」
「ジュース、タケちゃんのだけアッポーだったよね?」
里美は、次々に飛び出すハイキングにまつわる話を聞き流すか適当に返事をして巧くかわし、それ以外の内容を耳聡く拾い聞きするようにした。
そんな里美の子供たちの扱いの粗雑さを見兼ねた真澄が、会話を楽しいイベントの思い出話の時間に変え始めた。
「みんな、よく覚えてるねぇー! カラスびっくりしたねぇ、大きくてねぇー! ジュースおいしかったねー! みんな何ジュースが好きなのぉ?」
里美が怪訝そうな視線を送ると、真澄は、これでおあいこですとでも言いたげな、悪戯小僧然とした笑顔を返してきた。
「お山、怖いもん…」
紗季が小声で囁いたのを、里美は聞き漏らさなかった。
紗季を抱きかかえて、園児たちの輪から離し、神妙な顔つきを近づけた。
「紗季ちゃん、どうして怖いの?」
「おにんぎょが掴まってるの…」
「あぁ! にんぎょ、じゃなくて、おにんぎょ。人形のことね? …それってどんなお人形?」
「ハッパのお人形。棒みたいなの、ハッパなの。いっぱいのの! いっぱいのの!」
「掴まってるって、どうして? 何だろうなぁ…」
ほかの園児と思い出話で盛り上がっていたはずの真澄が、ハッと表情を変えて思わず口走った。
「わ、ワラ人形だ…!」
里美が眉間に皺を寄せてみせると、真澄は一度は肩を竦め、そうかと思うと一転、さきほどの笑顔になって、お構いなしに自分の閃きを最後まで押し通した。
「ほら、掴まってるんじゃなくて、釘で打たれて張り付けられているってことじゃない?」
園児たちは面白がって、すぐさま思い思いの反芻をした。
「わらにんぎょ?」
「わらいんじょ、ってなぁに?」
「にんじょしめ?」
「それは、足がお魚しっぽのひとでしょ」
里美は、保育園にあるまじき話題をまんまと提供した真澄を、思い切り睨みつけた。昔ヤンチャして下級生や他校の不良どもを震え上がらせていた頃の、あの目付きをしてやった。
これには真澄もたじろいで、苦笑いのまま小さくお辞儀した。
里美は、ため息を吐いた。
善きも悪しきも吸収盛りの三歳児に、妬みや嫉み、恨みで人を呪う手段についての話をするのは、いくらなんでも性急過ぎるし、あまりにもモラルに欠けている。
だいたい、そんなことをどうやって説明するというのだろう。説明している途中で、話しているこっちの胸が悪くなる。
大学を出ていて度が過ぎる過ぎないの境目もわからないのだろうか。それとも、これまで出会ってきた男や友達が悪いのか。いや、そもそもこの女を生んで育てた親のせいなのか…。
そのくらいは、ルール無用の信条を掲げる高卒止まりの自分でもわきまえているというのに。
そっちがその気ならこっちもまた、ここでヤンチャでもしてやろうか?
涌き上がる苛立ちを、子供たちの手前、なんとか丸呑みした。
そうだ、爆発するべきなのはここじゃない。
しかし、噂は確かにあった。
過去に何度か山についてのそうした善からぬ話が巷で流行っては、すぐに廃れたりしていた。
「う〜ん、そ、そうなんだ。お人形がいっぱい掴まってるんだ。でもさぁ…」
子供たちの興味を、別の話題で箝げ替えようとしたが、省子の顔が脳裏をちらつき、思わずその先を続けることにした。もちろん、呆気にとられた真澄の顔は無視して。
「お人形がいるのってお山の上にある神社の裏でしょ?」
「うん! じゃんじゃ! じゃんじゃ!」
「じゃんじゃ、じゃないよ、じんじゃだよ!」
「みんな、そんなとこ行ったことあるのぉ?」
「う〜ん…」
ほとんどの園児が首を傾げた。
「パパと行ったぁ」
会話に加わってきたのは、本命の透だった。
里美の声色に緊張が混じった。
「え? いつ行ったの?」
「じゃんじゃ、ピッカピッカだよねぇ!」
だが、主張は相変わらずだった。
ここは少し根気が要る。相手の話にひとまず合わせながら、相手の興味をじょじょに突き、こちらの聞きたいことを聞き出していくのだ。
「ピッカピカって、神社が?」
里美が聞き返すと、透は自分の話を聞いてもらえるとみえて興奮し、里美に抱きついて胸に顔を押し付けてきた。
里美は、両手で透の頭を挟むように掴んで胸元から引き離し、顔を自分の顔の前に寄せて、まさにつぶらと呼ぶに相応しい瞳の奥を見つめた。
透が真顔になった。
「神社のどこがピッカピカなの?」
「う〜ん、とおねんとこ」
「とおねんとこ…? とおる…。透くんのこと?」
透は、自分の名前が飛び出したことが嬉しいといった風で、満面の笑みで答える。
「とおる、とおる! とおる、とおる! ゆーほ、いっぱいね!」
「ゆ、ゆーほ…? ゆーほ、ゆーほ…。…もしかして遊歩道? 遊歩道なら一本通ってるけど」
「ちがう、ちがう! ゆーほ、ぼー! ゆーほ、ぼー! とおる、とおる、ゆーほ、ぼー! ぼー、ぼー、ぼーって!」
「とおるくんのそばで、ゆーほ、ぼー…?」
「うん、そうね、そうね! でも、とおる危ないから行っちゃダメってぇ」
里美が理解に苦しんでいると、真澄が飛び込んできた。
「わかった! UFO、ボーン! でしょ? お山、UFO出るって言うもんね〜!」
真澄は、里美に無視されているのをいいことに、園児たちに向き直った。
「そうだ、みんな、おしっこ行こうか? おしっこ出る人ぉ〜?」
「ハーイ!」
「じゃぁ、うさぎさんで行くよーっ!」
「ハーイ!」
真澄に連れられ、園児たちは両手を耳にあて、ピョンピョン跳ねながらクラスを出て行った。透も紗季も、それに倣ってキャッキャと声を挙げて跳ねて行った。
ひとり残された里美は、一気に疲れに襲われ座り込んだ。
「けっきょく収穫が、呪いにUFOとは。我ながら情けないねぇ…」
††† ひもろぎ保育園 事務室・ 十一時 †††
あの絵を初めて見た時、心が躍った。
あの感覚は何だったのだろう? 智の絵が持つパワーではなかったのか?
それとも、自分が早く新しい職場に馴染みたいがために無意識に、何でもいいから親しみを覚える何かを探して、それに気持ちを寄りかからせていただけなのだろうか?
あるいは、そうかも知れない。
でも、いま冷静になって、その分を差し引いて振り返ってみても、智の絵には何か人を惹き付けるものがあるには違いない。
仮に、仮にだ。
智の、あの突然の振る舞いや手首の傷跡から推し量って、家庭環境に問題があったとする。その影響が智の絵の才能を開花させているという解釈だって成り立つのではないだろうか。
かつて天才と謳われた名立たる芸術家にもそういった例は多いと、何かで読んだこともある。そんな彼らの作品に触れて、何かを始めたり、元気を取り戻したり、命すら救われたりした人たちが世界に数多くいることも。
だとしたら、自分はそうした奇跡のバランスを保つ親子関係に、要らぬ梃を入れることになるのではないだろうか? それを境に智の才能が消えてしまいはしないか? それなら、注意を促すなどの直接的ではなく、もっと遠くから見守る間接的な手段を考える方が得策なのではないのか。
なによりも子供の才能。
智の未来にとって。
いや、すべてが考え過ぎなのかもしれない。
でも、そう考えて致し方ない証拠があるではないか。
これは、TVで見る刑事ドラマや法廷ドラマなどでも登場しては軽くあしらわれる、いわゆる状況証拠でしかないのかも知れないが…。
いずれにしても、ともすれば鬱症状を発症してしまいそうないまの自分の頭の中では、何を考えても悪い方向に堂々巡りするだけだ。
しかし、気付いていてもなかなか抜け出せないのが、この病気の質の悪さだった。
ずるずるずるずる、引き摺られるように〈向こう側〉へ持って行かれ、奈落の底へ〈堕ちそうに〉なる…。
ゴゴゴゴゴ!
低く床を震わすような音に、驚く省子。
自分が朝、案内された机の方からだった。
床に落ちていた鞄を拾い、中から震える携帯電話を取り出した。
『ダイジョブ!気のせいかもヨ <(。o 。)> 』
里美からのメールの着信があった。
『昨日の夜、蛇嵩山へ父親と行ったという園児がいたから、気になって話を聞いてみたけど…』
オカルトチックな都市伝説まがいの内容で、どうでもいい返事しかできないことを詫びていた。
『PS. 今夜、久々に飲もうよ。初出勤祝いってことでさ!』
内容はともかく、最後のその一言で、省子は少し救われた気になれた。
顔を上げると、廊下に面した窓ガラスの向こうに、狭山が歩くのが見えた。
狭山も省子の視線に気付くと、手にしていた祭り用の飾りと団扇を下駄箱の上に置いた。
「何か要るものある?」
窓ガラスを半分開け、狭山が顔を入れて尋ねてきた。
省子は、できる限りの笑顔を見せて、小さく首を横に振った。
狭山も微笑み返した。
「智ちゃんって…前から絵が上手だったんですか?」
省子は、智のことをそれとなく遠回しに聞いてみようと思った。
「そうねぇ〜、でも割と最近じゃないかなぁ。グンと絵が面白く…なんていうかほかの子たちよりも表現力が出てきたっていうのかなぁ」
やはり、智の絵の力を認めるのは自分だけではなかったようだ。少し、安心した。
「いつもお迎えは何時くらいですか?」
「え〜っと、智ちゃんとこは割と遅い方だったような…夕方六時頃かなぁ」
それだけ言うと、狭山は省子の意図を察し、笑みを一段と大きくして見せた。
「私も居てあげるから、心配しないで。今日は大っきな低気圧が来るっていうから、園児のお迎えもみなさん早い時間に来ると思う。そうしたら、先生たちにも早めに帰ってもらって大丈夫だから」
省子は、涙が出そうになった。礼を言おうにも、声が詰まって言えなかった。
こういう人たちに支えられて、自分という人間は生きている。他人よりずっとずっと暗いものだと思っていた自分の人生に、狭山や里美のような人によって何か温かい光のようなものが時折灯されては、救われている。
私は、きっと生かされているんだ。
狭山の後ろ手に、大きな神輿が運ばれてきた。園児たちが自分たちの手で、新聞紙を材料に作った張子に、絵の具による着色を施した大蛇の神輿だった。この地域で、現在は形式的ではあるが、古くから祀られている大蛇神をモチーフにしていた。
狭山は、笑いながら大蛇の頭を撫でた。さまざまな色の色紙を繋げて作った縄のような飾りを、体中に巻き付けながら言った。
「お迎えにはいつもママが来てるねぇ」
狭山は、省子が尋ねずとも話を続けてくれた。
人間同士の付き合いだから、保育士によっては多少うまが合わないこともある、ということを前提にしても、お迎えにくる智の母親とは、狭山もほかの保育士たちもいたって普通に接していること。
そのうえ、保護者が中心となって開催する保護者会イベントにも欠席せず、積極参加していること。
父親は滅多に姿を見せたこともないし、それ故にどんな人間かは検討もつかないが、それはどこのパパも仕事中心で、家のことはママ任せなところが多いから、ほかの家庭でも大差はないということを話してくれた。
智の手首の傷は、省子に指摘されてみれば確かに気になるが、本人による掻き壊しが原因かもしれないし、最近、園児たちに鋏を使わせ始めたから、保育園でケガをしたなどという事実は認められなかったにしろ、興味本意で家でも鋏をいじって自分で傷つけたかも知れない、とも付け加えてくれた。
どこか、親御さんとの繊細なトラブル対処を避けたいがための都合の良過ぎる言い訳ともとれなくもないが、いまの省子は、狭山の物言いに信じてみたくなる説得力を感じていた。
狭山の話を頭の中で繰り返し、整理していた。今度こそ礼を言おうと顔を挙げたときには、もう狭山の姿はそこにはなかった。神輿を仕舞うために、園庭の隅の倉庫にでも行ったのだろうと思った。
納得できる点はいくつもあった。
だが省子には、なにか自分でも届かないような心の奥底に、気になるものが引っかかっているように思えてどうしようもなかった。
黒雲は、遠くの空でいくつも数を増していた。
††† 南じゃこう保育園 事務室・ 十二時 †††
保育園の中でも、年長を除く年少から年中までの園児たちには、午睡とよばれる昼寝が必要で、クラス毎に午前十一時から午後二時くらいまでをピークにしていた。その間は保育士たちにとって幾ばくか気が休まる時間でもあった。
その時間を利用して、真澄は園長に直接、里美の言動の一部始終を報告した。
園長は、日頃から何かにつけて、里美が保育士たちに対して言葉や、あの視線によってプレッシャーを与えていることについて、真澄に限らずほかの保育士たちからもたびたび相談を受けていた。それどころではない。つい先週は、里美が担任クラスの園児たちの散歩の途中、お前ら疲れたろうと全員を自宅に招き入れて、炭酸飲料を振る舞いゴロ寝させたことが保護者の耳に入り、憤った保護者たちに囲まれる中、園長共々土下座したばかりだった。
いくら懐が深いと評判の園長の堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題だった。そこへきて、勤務時間中の無断外出と喫煙の事実は決定打となった。
「職務怠慢による懲戒解雇という処分も頭に入れておいてください」
園長は、里美を事務室へ呼び出しパイプ椅子に座らせると、静かな声で、しかしキッパリと言い放った。
居合わせたほかの保育士たちの間にも、一瞬の緊張が走った。
いつもなら、出来は悪いが気の良い生徒を大きな人間性でもって包み込む熱血教師さながら、諺や四字熟語を駆使して態度を改めるよう反省を促し、最悪でも宥め口調で休職を勧めてくるところだが、今日は違った。
「私にはもう、あなたを庇い切る自信がありません…」
園長の眼は、里美を見ていなかった。焦点を結んでいない視線を潤ませながら、何も置かれていない机の上に漂わせていた。
里美は覚悟を決めた。
「まったくお固いねぇ〜」
ほかの保育士たちは眼を丸くしながらも遠慮がちに、席を立つ里美を見た。
「あんたらがそんなんじゃぁ、子どもたちはのびのび育たないと…あたしは思うけどね」
園長も口をぽかんと開けて、里美を見た。
しかし、里美の姿はすでに見えず、いかにも里美らしい置き台詞だけが聞こえてきた。
「んじゃ、世話んなったね」
事務室には、この後一時間ほどの無言が続いた。
††† 県道6号線 蛇嵩山方面・ 十三時 †††
「今夜一晩、カラダ空いてるけど、どう?」
艶めいた誘い文句に釣られ、黒塗りの高級車で駆けつけた雅哉は、女を拾うと、街外れのファッションホテルが集中するエリアへ向けてハンドルを切った。
早速、疼く下半身を掻き掻きしたそのままの指先を、助手席の女の白く透き徹るような太腿にゆっくりと這わせた。
抑えようにも荒ぶる男の鼻息が車内に響いた。
「停めろ」
「え…?」
女は、雅哉の手を平手打ちでスパンと撥ね除け、車が停まらないうちにドアを蹴り開け、道路へ跳び降りた。
「おい! よせぇっ!」
雅哉は、慌てて急ブレーキを踏んでガードレール沿いに車を寄せた。
女は、アスファルトに身体を打ち付けつつも、横向きに二回転すると器用に起き上がり、歩道を歩く親子へ駆け寄った。
「こんにちはお父さん、透くん!」
「あ、さとみせんせー!」
††† 同・ 十三時十分 †††
黒塗り高級車の運転席には、先週知り合いに付いて飲みに行って以来メールや電話でしつこく言い寄ってくる、しがないバー経営者の雅哉。先ほどまでの期待させられた疼きをどこかへ放置された穴埋めに、開店前の準備中であることを痣とらしくも急に思い出してみせた。
「ったくッ…こっちぁ忙しい身だぞ、わかってんのか!」
後部座席には、元担任クラスの園児である透と、その父親で小学生向け学習塾を経営する塾講師の菊池。低気圧の危険性を理由に早々に以降の授業をキャンセルし、透を迎えに行くことができたうえ、車で自宅まで送ってもらえる幸運に感謝した。
「いやはや、ほんとにいいんでしょうか? 助かっちゃいますぅ」
「おい、塾コウのとっつぁん! 俺はガキどもの送迎ウンちゃんじゃねぇぞ。金払え、金!」
助手席では、奇遇にも車内にたかり合わせた奇妙な面子にご満悦の里美。
「よし! 役者が揃っちゃったから、いざUターンしな!」
里美は、突然、雅哉の頭を平手で引っぱたいた。
「痛ぇなぁ…!」
里美は、雅哉の特効薬、白い太腿をこれ見よがしにスカートのスリットを、するりたくし上げて露にした。
「ほら、行け行け!」
「あ〜あぁ〜、もう! 揃いも揃ってお前ぇら、それでも教育者かっつの」
雅哉は、むくれ面を張り付けて怠惰に進行方向を変え、ファッションホテルに別れを告げた。
車が家とは反対方向に走り出し、菊池は不安を口にした。
「あのぅ、こちら家の方角とは少々違うようで…」
「んなもん、俺とて知るか! こいつに聞けっつの!」
雅哉は顎で、里美を指した。正確には、眼で里美の太腿を盗み見した。
「お父さん、昨日の夜どちらへ行かれました?」
「え?」
唐突な質問に、菊池の不安は別の不安にとって変わった。
「いえいえ、深い意味はないですよ。ただ、透くんがお山に行ったって言ってたから気になって」
「ああ、なんだそのことですか。いやぁ、かたじけない。山の麓の沼に夜釣りに行ったんです」
「ほぉう、教・育・者・様が、夜のお山に子連れでねぇ」
さすがに雅哉も口を挟んだ。
「いやぁ、もちろん十八歳未満の夜の外出に条例があるのは百も承知です。しかも三歳児ですから、どうかなぁとは私も思ったんですがね」
菊池は、単なる世間話だとわかると身構えるのを止めた。
「奥さんは一緒じゃ?」
「昨夜は、妻が母親同士で声をかけ合ってのママ会に行ってしまったこともあって。…まぁ、ただの飲み会なんですが、ははは」
「ああ、ママ会ね」
「それに最近休みにどこへも連れて行けてなくって、互いに気晴らしになるかと、透を付き合わせちゃいまして。あの、その、…なんとかここだけの話ってことで、どうかひとつ」
「言い訳はもういいよ、とっつぁん。聞いてるこっちが痛ましくなってくる」
会話をそれなりに上手く打ち切った雅哉に、気付かれずに笑みを送ると、里美は後部座席を見やった。
透は、菊池に寄りかかってスヤスヤ寝ていた。
ちょうど今頃保育園にいたらいつもは午睡の時間であり、車の振動が心地良かったこともあったのだろう。
里美は、そんな透の寝顔を愛おしく思った。
††† 蛇嵩山・ 十三時十二分 †††
黒塗りの高級車が県道6号線の途中で止まると、そこからは蛇嵩山がよく見えた。
しかしその手前、車近くのガードレールが一部、突き破られていた。
運転席の雅哉からは、それがよく見て取れた。
「里美ぃ、あれ」
里美も菊池も驚いた。
「完璧事故ってるなぁ」
「警察、もう来たんですかねぇ?」
「さぁな。でも来てたとしたら、ガードレールをこのままにしておくかなぁ。危険を知らせるポールとか、何か立てるくらいはやりそうなもんだけど」
「じゃ、呼びましょうか、警察」
と、菊池が携帯電話に手をかけた瞬間、
「待って!」
里美が制した。
道にブレーキ痕が見当たらない。つまり、それでは減速もせずにそのまま突っ込んだということになる。しかし、そこから獣みちが無理矢理押し広げられるようにして山の上へと走っているのを見ると、事故というわけでもないような気もしてくる。その現場はまるで普通に道があったから走った、とでも言いたげだ。
そう里美は思った。
「おい、マサ。あたしと寝たいんだったら、さっさと走れ、ボケ」
里美は、唖然とする二人をいきなり現実に引き戻した。
「な、なんつう女…」
雅哉は、里美の悪態に腹を立て、その勢いでアクセルを思い切り踏み倒した。
「ぐぉぉぉおおおオオオオッ!」
車は、ガードレールがかつてあったアスファルトの端から、ミカン箱ほどの段差を飛び降りて地面に着地し、乱暴な獣みちを、目隠しをされた猪のように突進した。
「な、な、なんで、僕もなんですかぁ?」
「バチだバチ! 子連れ夜釣りの教育者のよォ!」
激しい振動と怒号を受け怯えながら眼を開けた透を、宥めながらたじろぐ菊池に、雅哉は自分の鬱憤を晴らすように語気を荒げた。相手が自分とはまるで正反対のインテリの家庭人だと知ったからには、余計に喉に力が籠った。
里美は、獣みちを走り、山を上って行くに従い、妙な胸騒ぎを感じていた。なにか、入ってはいけない禁域へ駒を進めてしまっているような…。
ふと、省子が心配になった。
車が山の斜面を登り切った途端、眼前に岩が現れた。
「あ!」
雅哉が急ブレーキをかけた甲斐なく、車は衝突した。
三人が焦って車を降り状態を確認すると、バンパーは折れて寝癖のようにあさっての方向に跳ね上がり、ヘッドライトは跡形も無く粉砕し、フロント部は大きくくの字に窪んでいた。
雅哉は、二人の前で躊躇うことなく大いに落ち込んでみせた。
「ああ、なんてこった。ローンもたんまり残ってるってのにィ…。泣きてぇ。せめてお前の胸で泣かせてくれぇ〜」
里美は、自分の胸に顔をうずめようとする雅哉の額を、下から掌でパチンと跳ね返すと、岩の周辺を歩き始めた。
「ったく、坊やったらないね」
菊池は透を抱っこして、大丈夫だ何でもないよと安心させ、身体を小さくぽんぽんと慣れた手つきでたたいて眠らせながら、里美に付いて歩いた。
「警察呼んだ方がいいですよ、やっぱり」
「そんなもん、俺の方が呼びたいよぉ! 車も俺もオシャカにされてよぉ…」
雅哉はポンコツに寄りかかって座り込んだまま、すっかりダダっ子に成り下がっていた。
狼狽える男二人を無視して、里美は、夫婦岩の周りの開けた苔の広場を歩きながら思考していた。
「この道作った張本人の車はどこへ行ったんだろ」
「え…?」
突然の謎掛けを前にして、菊池も雅哉も我に返った。
「そ、それもそうですねぇ。自分たちみたいに6号線から来たのであれば、この岩にぶつかったでしょうし」
雅哉はポンコツに背中を擦り付けながら立ち上がって、今走って来た道を見下ろしてみた。
「そうだな。でなきゃ反対に、この岩からスタートして6号線まで突っ走ったってことになっちまうもんな。タイヤの跡が岩までキッチリ続いていたのを俺は見てるし、かといって岩をスタート地点にしようとしたら、この通り岩が邪魔してできないだろ…」
三人による推理が始まった。
「そうですよ、だいいち、6号線のガードレールはこの山の方向に向かって、突き破られてたんですから」
「…となると、ますます車はどこへ…?」
「う〜ん、僕にはまったく検討がつきませんねぇ…」
「…UFO…」
里美が呟いた。
「UFOが車を攫って行ったのかも」
菊池も雅哉も、里美をあからさまな疑いの目で見た。
「ブッ! なに子供みたいなこと言ってんの、お前」
里美は、真顔そのものだった。
「その通り、子供よ。子供が言ってたのよ。…透くんが」
菊池は、不意に話の矛先が再び自分に向けられ戸惑った。
「え? ウチのは保育園でそんなこと言うんですか? 恥ずかしいなぁ…」
「このタヌキおやじめ! たいていは親の影響だぞ、そういうの」
里美は、どこか遠くを眺めながら言った。
「子供たちはねぇ、いろんなことを教えてくれるもんなんだよ。言葉をうまく使えないけど、それでもなんとか伝えようとしてる。でも、それを大人がきちんと受け取るのはなかなか難しいけどね」
「それなのに、仕事中、わかった気になって相手してんのかよ?」
無神経な物言いに悪びれもせず、へらへらと右に左にくねらせて斜面を上ってくる雅哉の脇腹に、里美は深く肘鉄を喰らわせた。
「るせぇ、この甲斐性なし男! UFOじゃないかも知れないけど、UFOじゃないっていう証拠だってないだろ」
「うぐっ…。そ、そんなの方便だって! だったら、突然ブラックホールが現れて車呑み込んだってことでもよくなるだろうがよぉ!」
激痛で怒り散らされた雅哉の言葉を、風でも払うように受け流し、里美は決して長くはなかったが濃密だった保育士生活を振り返って、有りっ丈の憶いを言葉にした。
「子供たちの本当の気持ちを理解することなんて、たとえいろんな技術が進んでも、世界中の人間に超能力が身に付いても、UFOが飛んできたとしても、所詮無理な話なんだよ。言葉が通じるはずの大人同士だって、わかり合えてるって言える?」
「ははは…その辺は我々れっきとした現代人、なんとかやってますとも、先生」
里美は、夫婦岩の小さい方、妻のほうの岩の頭を撫でながら菊池に言った。
「奥さん、いま実家帰ってるんでしょ?」
「うっ…!」
菊池は口籠ることで、図星だと告げていた。
「ごめんね、菊池さん。あなたの言ってたママ会に出た、どこかの奥さんが話してたのを聞いちゃったの。熟の先生だってたいへんよね。ビール片手に子供連れて夜釣りでもしなきゃ、やってられないんだから。たっくさん溜まってんのね」
里美は、岩の周辺に落ちていたビールの空き缶を拾い上げて、菊池の前でぶら下げてみせた。
「は、はぁ、参りました…。透を探しにこの辺を歩いたときに、邪魔になってついポイッと…」
「透くんを探した?」
里美の視線は、鋭く菊池を追及した。
「いやぁ、ははは! 下の沼で釣ってて夢中になっちゃいまして、気付いたら透が居なくなってて。それでこの辺をぐるっと歩いて、…は、はははは…!」
「こら、菊池っ!」
里美は、菊池を一喝した。
「おみごと!」
雅哉は、クククと笑って拍手した。
里美が、汚れたままの空き缶を菊池を見据えながらその眼前に押し付けると、菊池は、そのタブを千切った穴を、透を抱いている手の人差し指に引っかけて何とか受け取った。
すっかり恐縮した菊池は、それ以上の弁解を止めた。
里美は、父親の腕に抱かれて眠る透を見つめた。
「だからやっぱりさぁ、わかろうとしてあげられるかどうか、ってことなんじゃない…」
「なぁんだ、それならチョロイじゃん。俺の得意分野だって」
すかさず雅哉が茶化しにかかり里美の肩に腕を廻したが、その腕を里美は振り払った。
「なんもわかってない。だから男って…」
「どうせ、俺なんて子供たちより子供だ、とか言うんだろ?」
里美と雅哉の泥仕合がひと際冷え込もうとしたとき、菊池が大声を発した。
「閃いた!」
菊池は、う〜んと唸った透を再び眠らせながら、小声で照れ笑いをした。。
里美と雅哉は、菊池の名言を待った。
「それ、『UFOボー』じゃなくて、『幽霊ぼぅっ』ってことですよ」
里美は呆れ顔をした。
「おいおい、『それ』って、お前ら一体何の話してるわけ?」
雅哉は、自分の知らない事情が里美と菊池の間にあることが、いまやっとわかったところだった。
構わず菊池は続けた。
「透はまだUFOなんて言葉知らないはずです。というのもですね、子供の躾には楽しそうな『UFO出るぞ』より、怖そうな『幽霊出るぞ』の方が効果ありますから…!」
「UFOじゃなかったら幽霊って。何の話にしろ、よくわからない話はみんな、最後は結局オカルト頼みってことだな。よし、これで一件落着、と!」
雅哉は、左側の眉だけ吊り上げた人を馬鹿にした笑顔で、菊池に返した。
菊池は、それまでの満面の笑顔を急いで撤回した。
骨折り損なムードを一気に崩しにかかったのは、里美だった。
「ねぇ、知り合いに心理学がどうのって人がいる、とか言ってなかったっけ?」
不意を突かれた雅哉は、しばらく朧げな記憶を辿ってから答えた。
「あぁ! 俺の知り合いじゃなくて、俺の妹の知り合いって話な。それに心理学じゃなくて、児童心理学だ、確か。それって心理学の子供バージョンか? やっぱ、そういう子供臭ぇの好きなのか?」
「くだらん揚げ足とりはトバして、とっとと連絡先教えろ」
雅哉は、もはや舌打ちするのさえ疲れ、速やかに妹へ電話し、事情を飲み込めないままの妹から、ひとまずその知人の連絡先だけを聞き出し、得意気な顔をしてみせた。
里美は、すかさずそれを省子にメールした。
仮に、自分で連絡をしても、園児が描いたという絵の内容を詳しく知らないため、役に立たないだろう。それゆえ、絵を直接見ていて、園児の行動を見ている省子が、直接話をするのが一番だと判断した。
里美は、周囲をぐるりと見渡して呟いた。
「ふぅ…これまでか。…じゃぁ、送ってくよ、菊っつぁん…」
もう少しくらいは親友の役に立てるだろうという義心が、不発に終わった里美の声はそれまでとは打って変わって、もはや力無かった。
雅哉も菊池もそれを察した。
三人は、斜面に沿って斜めに止まっている雅哉の拉げた車に、億劫そうに乗り込んだ。
††† ひもろぎ保育園 ヒノキ組 教室・ 十四時三十分 †††
ほとんどの園児たちが、午睡から目を覚まし出していた。
省子は、やっと起き出すなりママ、パパと両親を呼ぶ子の寝ぼけ眼や、まだ寝息を立てている子の静やかな寝顔を見て思った。
子供たちの顔と名前、子供たちの親の顔と名前が一致するのには、あとほんの僅かの日にちがありさえすれば大丈夫だ。この子も、その子も、あの子も、きっと親に似ているから。
だから、こんな美しい顔をした子供たちが、実の親の手によって悲惨な目に遭わせらるようなことがあってはいけないのだ。今も、これから先もずっと。
ブブブブブ!
尻ポケットに隠し入れてあった携帯のバイブが震えた。
もちろん、保育士が勤務中に携帯を弄るなど、もってのほかであることは百も承知だし、過去に一度も経験はない。
でも今日だけは、特別だ。
さまざまな傾向を持つ乳幼児対応のためのアドバイスを緊急に必要とする新人特例を、自分に自分で発効するのだ。
それでもやはり気が引けたが、何とか気を振り絞り、そう毅然と臨むことにした。
栄子が、起きざまに両脛に抱きついてきた園児の相手に手こずっている間に、背を向けてメールチェックした。
『児童心理学かじってる知り合い(の知り合いの知り合い…)がいるよ』
省子は顔を上げた。
それなら自分にも、多少の知識はある。この仕事は、その知識を毎日実践する仕事だ。
でも、そのなまじっかな知識と思い込みが、いまでは裏目に出ているのかも知れない。
だから、知って知り過ぎることはないだろう。人の成長にとって幼少期はとても大事で、自分は、その大事な時を生きている子供たちと一緒に過ごしているのだから。
里美のメールには、その「知り合い(の知り合いの知り合い)」がこれから遅い昼休みをとるため直接相談できるとの旨と、連絡先が記されていた。
さすが親友、と思った。
初めて出会った保育園の年長の頃から、里美の行動力には感服していた。
省子は、遠方から転園してきたばかりで、他の園児たちからあからさまに無視され、時には顔面や頭を立て続けに殴られ蹴られる等、肉体的な厭がらせも受けていた。
それを、意地悪な子たちが集まる前で、その中の大将格を大胆にも正面切って叱りつけ平手打ちをして、大泣きしようが土下座で謝らせ、助けてくれたのが里美だった。
「へーき?」
そう笑顔で声を掛けてくれた時以来、全く正反対な性格をした二人はなぜか惹かれ合い、そのまま二十年以上も友人を続けていたのだった。
それにしても、里美の人脈図のなかに頭脳派がいるとは思いも寄らなかった。
いや、里美のことだ。どこかの誰かのアドレス帳を勝手に写し取るなりして、自分の知り合い(ダチ)ということにしているのだろう。
相変わらず大胆不敵な女。
中学一年の頃、先輩不良グループに体育館裏に呼び出されながら、四十分後、無傷で戻っただけでなく、相手方十六人中十三人に深手を負わせていたこと。
高校三年の頃、県内で援助交際をしていた女子高生を更正させるため、面倒みてやると言って束ねるも、魅力を感じてか一転、元締め裏稼業を始め出し、噂を聞きつけてアプローチしてきたその筋の人からのスカウトを鼻で嘲笑って一蹴した挙げ句、数日後、やっぱ退屈だとのたまって突然廃業したこと。
こうしたことを武勇伝と呼ぶなら、里美ほどの強者はいないだろう。
なにしろ平然とやって退けたうえに、自尊感情など何処吹く風と決して自惚れること無く、また新たな武勇を積んでみせるのだから。
『Thank You * SATCH !』
省子は手短かに返事を済ませ、顔を上げた。
見ててね。やるよ、私だって。
そう自分に言い聞かせ、園児の寝顔に微笑んでみせた。
「栄子先生、すみませんが、あとお願いします」
そして立ち上がると、キョトンとする栄子を後に、クラスを出た。
里美の武勇が感染ったようで清々しかった。
††† 蛇嵩山・ 十四時四十五分 †††
「いやぁ、でも勉強になりましたよ」
菊池は、授業の終わりに、教師が今日のまとめに入ろうとするように、ポイントを摘み始めた。
「何がよ?」
雅哉は、運転席から車の惨状を見つめ、改めて気落ちしながらギアをバックに入れた。
「わかろうとする、ってことですよ。僕もウチで教えてる生徒のことや自分のことばっかりで、透を全然かまってやれてないですから」
「そう。そんなもんよね、実際は。…大事にね、透くん。それに奥さんも。…せっかくの家族なんだから」
里美の台詞に嘘は無かった。
照れ隠しに頭を掻きながら沁み沁みと感じ入る菊池が、再び閃いた。
「そうだ! 『とおる、とおる』って言ってた、という話だったんですよね?」
「ええ。それが?」
「トンネル! トンネルのことですよ」
「でも、トンネルなんて、この山には無ぇぞ」
「そうです。トンネルはないけど、透はあそこのことを、そう呼ぶんですよ」
「あそこ?」
菊池は指差した。
草木にあちこちを擦られて灰色がかったガラス窓の向こうに、暗がりがあった。
「…はっ!」
里美が思わず声を挙げると、雅哉は急ブレーキをかけて車を止めた。
暗がりとは、防空壕跡だった。
里美は、UFOや心霊の類いの話を、他人から超現実派と言われているほど、右から左へ通り抜けさせているわではないが、頭から否定もしているわけでもない。ただ、いまは自分が喫煙に使っている、まさしく今朝方も訪れていた場所に、気を惹かれないわけにはいかなかった。
「菊っつぁん、悪いけどここで降りてくれる?」
「ええ? ここで…?」
「こっからは、とってもプライベートな超ミステリーゾーンだから」
菊池の困惑顔と、透の気持ち良さそうに涎を垂らす寝顔が、遠ざかる。
雅哉の車は、菊池と透を、ガードレールが破損した辺りの県道6号線上に降ろした後、6号線を防空壕跡に向けて走っていった。
路上に残された菊池の前に、手も挙げていないのにちょうど通りがかったタクシーが停まった。
渡りに船とばかりに、後部座席に透を抱きかかえたまま乗り込んで座り、ドライバーに行き先を告げた。今度こそ、家に帰れる。
一息吐いて、楽になった手をふと見ると、指に引っ掛けていたビールの空き缶の汚れが落ちていて、銘柄がよく見えた。
「…あ、これ、僕が飲んだのとは違うなぁ…」
タクシーは、山を背にして走り去っていった。
背面の窓ガラスから外を覗く菊池には、防空壕跡の暗がりが、先ほどよりどこかいっそう暗く広がっているように見えた。
††† 蛇川沿い 喫茶せんとえるも・ 十五時 †††
空を見上げると、駆け足で広がっていく黒雲がぽつりぽつりと雨を降らせては肩を濡らし、無造作に吹く風が通り過ぎては髪を乱暴に巻き上げていった。いよいよ接近している低気圧は、やはり生やさしいものではないことが明らかになってきた。
しかし省子はそれ以上に、頭の中でとぐろを巻いている冥く大きなものに、自分なりに向き合わなくてはいけないと思っていた。
そのために体調不良を理由に、狭山に早退を申し出、帰途に就いたのだ。
初日だし仕方ないわよねお大事に、と言い園の玄関まで見送ってくれた狭山に一礼した後、園から一キロほど離れた蛇川に沿う土手の上の歩道を歩いていた。
約束の場所は、土手にかかる木の階段を降りたところにあった。
他の民家とは距離を置くようにぽつんと立つうえに、先に棘をたくわえた柊に四方を囲まれている小さな一軒家は、せっかくのガラス張りの外観を活かすことなく、来る者はおろか陽の光さえも拒んでいるようだった。
痛々しい柊の枝を摘んで持ち上げると、「占」の一文字が描かれた皿状のステンドグラスが眼に入った。これが看板なのだろうか。
少なくとも自分はいま初めて存在を知ったが、ここを、地元の人間も果たして知っているのだろうか。
今日から開店したようでもあり、昔からあったようでもある奇妙な佇まいに、確かに喫茶店と聞いてきたことを忘れさせられたまま、重いガラスの扉を開けた。
「はっ…!」
目の前に魔女が立っていた。
それは、老いているのか若いのか、男なのか女なのか、一目では判別のつかない、異様に背丈の高い人物だった。
省子が対応に窮していると、その人物は、肩から足先まで隠れる長い黒マントから長い腕を覗かせ、長い人差し指の長い爪先で、狭い店の奥を指した。
「中へ」
「は、…はぁ」
そして、ドアの表側に『休』と描かれたステンドグラス板を掛け、ゆっくり閉めると、内側の錠を降ろした。
省子が奥のテーブル席に座ると、すぐさま手作りであろうガラス製のカップとソーサーが一人分運ばれ、省子の前にかちゃりと置かれた。
相手は、事典のような分厚い本を一方の手に、いかにもいかがわしい薄紫色をした水晶をもう一方の手にして、省子の向かいに腰掛けた。
「あたしが、知り合いの知り合いの知り合い、よ。時間は永遠に巡るけど、ご要件は簡潔にお願いね」
「わ、わかりました。よろしくお願いします」
省子は相手のペースに面食らい、思わず出て行こうかと腰を上げかけたが、向かい合って座られじっと見つめられると、もはや観念して腰を降ろし話し始めるしかなかった。
「あの、…では早速なんですが。…児童心理の方面に明るくていらっしゃるんですよね?」
「万事につけて一生涯修行中の身よ」
相手は、片手にある本を掲げ、タイトルを省子に見せた。
『児童心理学・超入門』。
この壁を崩すのは一苦労だと直感した。
「担任を受け持つクラスの三歳の女の子の園児が絵を描きまして、その絵が妙に、」
「黒いからといって、必ずしも暗い内面の発露とは言い切れないわね」
早速、状況説明の冒頭すら終えさせてもらえなかった。ただその理由を問おうものなら、今度はもう片方の手で水晶を掲げ、魔力で会話の先を読んだとでも言われそうなので止めておいた。
「その絵はいまあるの?」
「い、いいえ、ここには…」
「あら、がっかりね」
早くも弱点を突かれたが、紹介してくれた里美の面子もあるため、このまま手ぶらで帰るわけにはいかなかった。
「説明します」
「じゃ、聞くわ」
「絵は、その…黒、確かに黒が基調になっているんですが、…背景の空を画用紙の隅から隅まで一杯に、黒く塗り潰そうとしてあって。そこに色んな色で人やお弁当を描いて、色とりどりで。で、…」
「で?」
「…奇麗なんです」
省子は、智の絵を説明しようとすればするほど、話がどう転ぶのか自分でもわからなくなりかけたが、この場はひとまず何とか話をぶつけることで相手からの言葉を得ようと思った。
「何が描かれていて?」
「その、大勢の人が集まった楽しそうなピクニックの絵なんですが、それがなぜか夜だというのがちょっと…」
「なるほど。貴女もお仕事柄よく耳にされていることでしょう。黒イコール闇で、闇つまり夜を怖がっているという俗説」
「ぞ、俗説…」
すると相手は、本をぱらぱらと開き、一般的に専門書などでも解説されて知られている、子供の絵が表す心理パターンを一気に並べ立てた。
「たとえば、線や形は理性を、大胆な構成は自信を表すという。それに、絵に興味を持つ子は、外からの刺激に敏感で衝動的だともいう。男の子よりも女の子の方が、色に対しての興味が強くて、赤やオレンジなど暖色系の色を好む子は愛情を感じて育っていて協調性があり、反対に青や黒など寒色系の色を好む子は知的である反面、攻撃的で大人を気にかけない独立性がある。中でも特に黒は、恐怖や不安などの抑圧感情の現れで、黒く塗り潰された乗り物は要注意。乗り物は母親の象徴である、…とかね」
省子も知っている話がいくつかあった。
「それが、全部俗説と…?」
「いいや、一理あるわね。実際そうした見方を元に臨床心理士なんかはお勉強に励んでいるわけだし」
「それでは…」
「あたしが言いたいのは、そうした定説に捕われることのない寛大さ、懐の深さ、多様性を持ったものの見方が必要じゃないかな、ということ」
「…と、仰いますと…」
「貴女も実際に毎日子供たちに接する中で、いくら専門書等に書いてあることとはいえ、はいそうですかと納得のいくものばかりでもないんじゃないかしら。育児というものは」
「た、確かに…」
「子供にしてみれば自分でもどうにもできないもの、たとえば親から受け継いだ遺伝的な要素も関係するだろうし。ほかにも環境的な要素、子供に普段接している側の人間の心理状況が与える影響もあるでしょうね。つまり親や祖父母や保育士たちは、外見面、肉体面には大人であるとはいえ、精神面では必ずしも人格者であるともいえなくて、またその言動は日頃からその時その場所で常に変わり続けているわけよ。だから、そうしたいろんな不確定要素を前提に含んだ分析によるパターン化には、一概に頼れるとは言い切れないと考えるのよ」
省子は、自分の目の前の相手が、一体何者なのかますますわからなくなってきた。
里美の人脈図のどの辺りに位置するというのだろう。二人で会話が成り立つのだろうか。
しかし、相手の言い分には、省子にとってあながち聞き流せないものがあった。
子供は親の血を受け継いでいるとも言うし、子供教育のプロとは言うものの保育士の心の中も朝から晩まで一定のバランスを保ち続けているとは言い難い。相手に言わせれば、きっと自分も悪い例の一つに分類されるであろう。
「仰ることはわかるような気がします。では、それを前提にしたうえで、その子の絵のことをどう思われますか?」
ストレートな相手にはストレートが一番利く。今度は我ながら上手く切り返したと、省子は思った。
「ふむぅ。確か…大勢の・楽しそうな・夜の・ピクニックだったわね? 弱冠三歳にどこまでの画力があるのかはわからないけど、『楽しそう』と感じた理中は何?」
「ほかの子の絵に比べて、登場するもの一つ一つの形がはっきりしているんです。通常の三歳児が人を描くとき、ぐるぐる円を描く段階から、円の中に点を描いて眼を作り、手足が出てくる『頭足人』の段階に入りますよね?」
「あら、あたしあの宇宙人みたいなの好きよ。子供たちの眼には、周りが本当にああいう風に見えていたりしてね」
「は、はは…。でも、あの子が描く人には口も耳も髪も胴体もあって、すでに四〜五歳児レベルなんです。それに空、星、森、地面とそこに敷いたシートらしきもの、並べたお弁当。どれも色分けされていて、何と言うか写実的で…」
「とっても楽しそうで、なによりじゃない」
「ええ、そうなんです! …そ、そうですよね…」
結局、絵の印象を述べると、その全てがひたすら肯定的であることに、自分で再認識しただけだった。何を相談したかったというのだろう。自分はもとより、何より相手にそう思われているに違いない。混乱が止まらなくなってきた。
違う。言いたいことは、そこにはない。
省子は、逸る気持ちを落ち着かせた。
相手の、人を突き放す言葉は癇に障ることも多いが、一歩引いてみれば、これだけ取り散らかった話を我慢強く冷静に分析してくれていると言えなくもない。
託してみよう、この魔女に。
いつ告げられるかわからない制限時間がくるまでは。
省子は、今朝の保育園での一瞬の出来事の顛末を話した。
しかし、相手の返答は、話の矛先を意外な方向へ向けた。
「その三歳児ちゃんが夜好きだとしたら、それは確かに珍しいわね。じゃぁ、それを見た貴女は、なぜ夜に拘るの?」
「それは、あれだけ写実性に優れているのに、なぜピクニックが夜なのか、ということなんです。どうも、そこだけ逸脱している気が…」
「闇夜のようなものに安住したがっているんじゃない? 依存しているとか」
「や、やっぱりあり得ますか…わずか三歳の子供でも」
「ううん、貴女が、よ」
「えっ?」
††† 県道6号線 防空壕跡付近・ 十五時十分 †††
黒雲は、空を一様に染め、周囲一帯をいままさに覆い尽くし終えようとしていた。
四方を山で囲まれた土地であるゆえ、こうなると昼間だというのに明かりが必要になるが、生憎、雅哉の車の破損したヘッドライトは自分が走っている道すら満足に照らすこともできず、そのひ弱な色がアスファルトと前方の視界との境界線を曖昧にしてしまうだけだった。
細かい雨の粒は前後左右のウィンドウを叩き、辛うじて動くワイパーは黒板を引っ掻くような甲高い機械音と、飛び石を飛ぶように躓いては跳ねる低いゴムの音をたて続け、車内は不揃いな鼓笛隊を抱えたように騒々しかった。
どこか不釣り合いな色と音が、ぞわぞわと自分たちを取り囲みどこまでも続いていくようで、蟠りを残す里美と雅哉をいっそう、居心地悪くさせた。
「うっ…」
雅哉は短く呻いて、急ブレーキを踏んだ。
防空壕跡の手前まで来ていた。
里美の勤めていた『南じゃこう保育園』からは自転車なら五分ほど畦道を走ればいいが、車で近づくとなると、山を遠巻きにして弧を描く県道6号線を走らなくてはならない。おまけにいまは充分に視界も得られないため、結局十分以上はかかってしまった。
里美は迷惑そうに雅哉を一瞥したが、雅哉の凍ったような表情にただならぬものを感じ、その視線の先を追った。
最初は、蛍かと思った。
それにしては大きい。防空壕跡の横に生える木を、毎日のように見ていて大きさを知っていたから、すぐにそれと比べられた。
迎え火にしても大き過ぎる。数も百八本には満たない。
それに盆提灯でもないのは、そもそもいまがお盆の時期ではないことから明らかだった。
「ひ、ひとだ…ま…」
里美の呟きをきっかけに、雅哉は腹の底に抱えていた怯えを撒き散らした。
「よせよ! お前こそガキ臭いっつの、馬鹿馬鹿しい!」
雅哉は完全に怯えていた。
「だったら、いま見えちゃってるものをなんて説明すんの」
「そ、そういうのはなぁ、いろんな偉い人が科学で説明してんだ。いまは、総称して未確認飛行物体っていうんだ、確か」
「なんだ、やっぱりUFOじゃない。それにあんた、どう見ても科学ってツラじゃないでしょ」
恐怖に捕われないよう、雅哉は無闇に饒舌さを増し、そんな雅哉を里美は詰った。
「ツラと頭を一緒にすんなって。こう見えてお勉強してんだ。客商売ってなぁ博識じゃなきゃ務まんねぇだろ。トークがウリなんだからよ。ひ、人魂ってのはなぁ、リンとか、ガスとか、プラズマとか、そういうもんが…」
「呆れた…。何が博識よ。暇を持て余してるもんだから浅知恵溜め込んで、女口説く時に使おうって魂胆だろ、どうせ。見え見えなんだよ、タコ」
「見え見えなくらいが丁度いいん…」
「引っ掛かる女も、タコに似合いのタコ女…」
雅哉も里美も、やり終える前に絶句した。
防空壕跡の穴の中から、光る玉がいくつも這い出して宙に浮いていた。
そうだ風船だと、里美は思った。
大きさは、どの玉もどの玉も、昔、縁日で親に買ってもらった風船ほどだった。
思い出の中で、輪郭のはっきりしないぼんやりとした円を象って、それは、ゆらゆら宙を揺れている。
色のことを思い始めると、縁日の風船はどこかへ消え、それは、その頃住んでいた山向こうの、祖母がいる旧家の屋根裏に架かっていた古い裸電球にとって変わった。
そう、どこか懐かしく、どこか恐ろしい…。
昼間だというのに闇のように暗い、黴の臭いが充満する空間で、このスイッチを捻ったら、周りは一体何を見せてくれるんだろう。
埃を被った古い布の下。
錆びた釘を何本も打ち付けた木箱の中。
スイッチに手を伸ばして捻った瞬間、気配に振り返ると、突然真後ろに立っていた皺苦茶のあまり顔が失くなった祖母。
『こんな時間に、そんなところで、何してるんじゃぁああああ!』
「はっ…!」
我に返った頃には、里美にも雅哉の怯えが伝染っていた。
「ほんと、『幽霊ぼぅ』だね」
「っつうか、季節外れのジャコランタンだろ。ど、どうせならもっと鬼みてぇな嫌ぁ〜なもんが景気よく、どばっとさぁ…」
口数に反して、突然現れた悪魔から鬼火を見せられたように眼を潤ませる雅哉を放って、里美は車を降りた。
「…透くん、こんなの見ちゃったのね…」
里美は、あまり役に立つとは思わなかったが、安物のバッグを傘代わりに頭上に掲げ、6号線の舗装道路を降り、雨水でぬかる草むらを歩き始めた。
「おい、待てよ。…ヒィッ…ヒィッ…、待ってくれよぉ〜!」
慌てて車を降りた雅哉は、自らを何とか奮い立たせようと、尻尾を踏まれた猫のような奇声を時折挙げながら、里美の後を追った。
††† 蛇川沿い 喫茶せんとえるも・ 十五時十六分 †††
雨風に、外側を上から横から激しく殴られるガラス音が、室内にどむどむと低く反響する中、魔女が湯気の立ち上る白い飲み物を運んできた。
向き合う二人は、漂う重い空気の中にいた。
「それじゃあ、お天気もまずいことだし、そろそろ結論ね。まずは園児ちゃんのことから」
相手はカップの中身をすうっと一口で呑み干し、カップを置いてソーサーを鳴らした。
「絵を見てないから自信はないけど、聞く限り、絵には異常を見出せないわね。確かに鋭い観察力がありそうだけど、如何せんたったの三歳児ちゃん。時間的な概念まで表すのは難しいと思うわね」
言い終えるや立ち上がろうとする相手を見て、省子は、切っ先を自分に向けられたまま突然迎えようとしている終幕に焦り、とっさに食い下がった。
「つまり、昼と夜の区別までは絵にできないはずだと?」
「そう。それに、『楽しそう』な絵そのものにストレス要因が見当たらないの」
「ストレス要因?」
相手は、もう一度座り直して答え始めた。
「たとえば草原なんかの広い場所にぽつんと一人でいる、とかの『楽しそうでない』絵なら、疎外感・孤独感・疲労感を見て取れる」
「う…」
そのとき省子には、相手の傍らの水晶が自分に向けて一瞬光ったとさえ思えた。
「それらのストレスを引き起こす原因、ストレス要因には、両親の不仲や離婚、両親や周囲の人間、たとえば保育士などからの無視や暴力、身近な人の病気や死、引っ越しや出産などが考えられる」
「出産も…?」
省子の声を気にせず、相手は続けた。
「でも、絵に登場するものや色、勢いを考えると、舞台が夜であっても総じて『楽しそう』なら、特に自分を圧し殺している原因があるとは考え難い。ましてやストレスが満杯になって爆発寸前にある兆候の表れもない。むしろ、巧くバランスが取れているとの判断も付くわけね」
「な、なるほど…」
それはつまり、「アンバランスな状態というバランス」が保たれていれば、それで問題ないということだろうか。
「次に貴女についてだけど、そうした絵に含まれる可能性を排除して捉えているわね」
「え…? 私は、子供たちには自由に描いて欲しいと、常日頃から、」
「写実に拘って、時間認識の点を見落としてるもの」
省子の台詞の最後を予想して切り上げ、相手はペースを崩すことなく告げるべきことを告げた。
「原因は、貴女自身の絵の見方にあるわね。その園児ちゃんの捉え方、親御さんの捉え方に偏りがあるの。見落としも良くないけど、思い込みもまた良くはないわね」
「た、確かにそれは否定できません…」
「何か強く抑え込んでいるものの、心当たりがあるんでしょ?」
「わ、…私ですか…?」
「そ」
あまり、普段から他人に話すことを好んではしていなかった。
子供の頃の父親の死、心的外傷、鬱病の発症と闘病生活、不規則に寝込んでしまう母親の看病、心療内科の通院経験、薬漬けの日々、克服と再発の変遷、そしていまでも時折発症しかけ、ともすると正常の∧向こう側∨へ行ってしまいそうになる堪え難い恐怖…。
それらの全てを、思い切って告白した。
自分のことをあまりに相手に見透かされてきて、これ以上隠しても無駄だと思えたのだ。
魔女は黙って聞き終えると、一言発した。
「ふむ。それは面白い」
「え?」
省子は、せっかくの身の上話を笑い話にされた気がして、さすがにむっとした。
しかし、相手は声のトーンひとつ変えずに両腕を鍵の字に振り上げた。
「ガッツポーズ。あたしの心眼もまだまだ枯れてはいないようね」
省子は堪らず席を立ち、手早く一礼を済ませ、玄関ドアへ踏み出した。
魔女は、省子を振り向きもせず、囁いた。
「あたしもそうなのよ」
家中に響いていた雨音が一瞬止んだ気がした。
その隙間に声が入り込んだ。
省子は思わず足を止めた。
「人はいずれ死ぬわ。誰もが死に向かって生きているけど、死ぬために生きているわけではない。そこが哀しいけど、同時に美しいのよ。そう思わない?」
何が言いたいのだろう。
人の死が、哀しくて、美しい…?
そう言われて、父親の顔が浮かんだ。
いまは哀しそうだ。
哀しそうな父を見ると、憂鬱な症状が首をもたげる。
「お父さんの思い出を哀しくしている原因も、貴女自身の見方なのよ」
そういえば、父はいつも哀しそうだったわけではない。
美しい父もそこにいる。
それは、父の自己犠牲的な死に栄誉を送りたいからではない。
ただ、そばに居た人が、そばで生きていたということ。
その証としての思い出を、大切にしたいと思えてきた。
省子は振り返り、もう一度席に戻った。
「あら、お帰りなさい。まだお代も頂戴してなかったことだしね」
相手は、省子の前に置かれたカップを指差した。
中身はなみなみ注がれたまますっかり冷めていた。
「ええ。まだ口も付けていませんから」
省子は、カップを手に取り一口啜った。
ミルクだった。
何か甘いものをたっぷり入れたミルク。
まるでおやつの時間に子供たちが喜んで呑むような。
それが、どこか可笑しかった。
少しばかり頭が冴えてきた気がした。
省子が魔女の眼を覗き込むと、相手は微笑んできた。
「ストレス要因、あるかも知れません」
「あら、とっておきのネタを隠してたの?」
省子も微笑み返してみせた。
智が、絵が頭抜けて上手いということは、それだけ日頃絵を描くことに時間を割き、絵画への執着が強いということ。だから余計に、あの絵の内側に、隠された心理が表されていると、やはり考えざるをえないのだ。
「その子に絵のことを尋ねたら、突然鋏を握って自分の髪、前髪を斬り落としたんです」
「やだ、危ない。でも、子供という生き物は、衝動で生きているようなもんでしょう」
「確かにそうです。では、その際に振り上げたあの子の手首に、横に走った傷跡があるのを見たんですが、それも衝動で片付けられますか?」
「ほかの園児ちゃんと喧嘩して付いたとかは、なし?」
「そうは上から聞いていません」
「お家で転んだ拍子に付いたとか?」
「親御さんから保育士へ何か報告があったとも、特に聞いていません」
「ふむぅ。要するに貴女はそれを…虐待、と結論しちゃいたいわけね?」
「というか、捨てきれない線だと思っています」
「根拠は…?」
根拠となると弱かった。
確証は特に何もないのだ。
本当に思い過ごしで終わらせられたらいいのだが、そうできないのは、何より頭の奥にこびり付いて離れない、あの何かおぞましい含みを持った嗤い方があるからだった。
〈クケ…〉
根拠といえば、実にそれだけしかない。
「…特には、ありません」
「…なるほど」
そのとき、魔女が水晶の奥を見つめた気がした。
そして、ほんの少し和らいだ口調で、この会話を締めくくる言葉をくれた。
「気休めでしょうけど、自分で人の心理に深く触れる経験が有るのだから、それを信じるのが一番かも知れないわね。人によっては、貴女を羨ましがるかも」
「う、羨ましがる…? そ、そうですか…」
省子は、雨が打ち付けるガラス窓の向こうを見た。
「行くんでしょ? 本気で止めようと思えば止められたけど」
「はい」
残りのミルクを一気に呑み干し、テーブルにお代を置くと立ち上がり、玄関へ向かった。
「ほら、傘だよ」
「え?」
魔女は、どこかで聞いたような台詞を唱えると、黒い傘を放って寄越した。
傘は宙で環を描きながら空気を受け、柊の葉のような形に開いて、省子の足下にゆっくり着地した。
「ありがとうございます」
省子は、それを拾い上げると玄関の重いガラス扉を開けた。
「こちらこそありがと。お陰で少し自信が戻ったわ。またいらっしゃい。その時は貴女の未来をちゃあんと占ってあげるから」
「はい。では、お身体に気をつけて」
「貴女も気をつけてね、脳に」
「え?」
「ふっふふふふふっ!」
またあの人なりの独特な冗談だろうと聞き流すように、省子は一礼し、表へ出た。
室内の奥のテーブル席では、魔女が、本を放り投げ、水晶の中を覗き込みながら囁いた。
「またいらっしゃい。さまよえる死にたがり屋さん…」
ガラス扉を閉めると、省子はその場に立ち尽くした。
すっかり疲れていた。
智の心を暴くつもりが、自分の心を曝すことになってしまった。
反射的にバッグの中から薬を取り出そうとして、ふとその手を止めた。
自分自身の心についての苦い経験が人の役に立つかも知れないというなら、そのくらいの犠牲は、これまでに比べれば数の内には入らない。
一瞬、脳裏に父親が浮かび、微笑んだ気がした。
省子は、薬をバッグの奥底へグッと押し込み、柊型の傘を差し、雨の中を歩き出した。
『ひもろぎ保育園』へ戻ろう。
智の絵を取りに。
††† 蛇嵩山 防空壕跡・ 十五時二十分 †††
辿り着いた防空壕跡を前に、雨に打たれていることを忘れ、里美と雅哉はしばしの間ぼぅっと見蕩れていた。
十数個の光る玉が、眼前で宙を漂っていたのだ。
「嫌なこと考えちゃったよ」
「なによ」
「ここって防空壕だったってことは、当時この中でも人が山ほど…」
「そうね。昔からあるもんね、変な噂…」
「でも、本当に見たのは初めてだ」
「私だって…」
「あ…?」
穴蔵の中、半分くらい入った辺り、土の中から何か光るものが見えた。
里美は、朝方にはまったく気付かなかった。知らぬ間に自分が、土を足か尻で弾いていたからか。それともその後に降り出した雨が、中まで吹き込んで土の表面を浚ったからか。
「おい、やめておいた方が…」
雅哉が言い終わらないうちに、純白のブラウスが汚れるのも構わず、里美は雨に濡れた泥の壁に身体を擦り付けながら、穴蔵の奥へと入り込んだ。
そして、光るものの周辺の土を、ゆっくり指先で掘り起こした。
ペンダントヘッドが現れた。
その下に白い布のようなものが見えたので、そのまま今度は両の指で周辺を掻き出してみた。
「ちょっと、手伝ってよ」
初めは嫌がってはいたが、一度、里美に無理やり手を泥の中に突っ込まされると、雅哉は悪態を吐きながらも、砂場遊びをする子供のように無我夢中で掘り始めた。
それほど間を置かず、雅哉の手が何かの塊を掴んだ。
里美は、雅哉が掴んだ塊をいっしょになって掴み、二人で思い切り引っ張った。
ずるずるずると、泥の中から引き出される塊が布の結び目であったとわかったと同時に、その結び目の先に、布に覆われた大きな塊が現れた。
勢い余ってそれが泥から転がり出て、二人の膝元で止まったと思うと、ぬるりと布が捲れた。
「うっ…!」
二人は揃って、自分の掌で鼻から下を覆った。
塊の右上、捲れた部分から、小さな鋏の刺さった眼がこちらを見ていた。
耳の穴に向かって、ミミズが頭を突っ込んで蠢いていた。
鼻の穴から、背中を黒光りさせたダンゴムシが続けざまに零れ落ちた。
口の中は、湿った泥団子が一杯に溢れていた。
死んだ女の無惨な首だった。
里美は、正視していられず思わず顔を背けた。
雅哉の眼は、呪縛を受けたように、女の頭頂部に釘付けになった。
そこには、旋毛を抉って、穴が開けられていた。
その穴からは、山のあちこちに生育しているウマノスズクサが一本突き出ていた。
先端には、金管楽器のチューバのような形の花を小さく咲かせていた。
茎には、白い糸で何かが括り付けられていた。
後ろ手に縛られた、小さな女だった。
白い筋と白い膜で覆われた、なまめかしい肉体。
艶やかな橙をして、いくつも迫り出す襞。
その向こうに覗く、黒ずんだ胎内。
女は、全身をいまもなお細かく攀じらせ、苦悶とも恍惚ともとれる歪めた表情をしている。
雅哉は、どこか不謹慎であるという気持ちに後ろ髪を引かれながらも、誘われるように思わず手を伸ばし、遂には指先でそっと震える襞に触れた。
瞬間、小さな女の頭が横一線に裂け、その暗く深いクレバスから何本もの黒い脚が現れた。針金のように細く長い脚は何かを掴もうとするように、中央の関節を中心に、上に下にと中空を無茶苦茶に掻き混ぜていた。
「…お、お菊虫…」
死んだ祖母から聞いたことがある。
城で殺されたお菊の霊が、虫の姿を借りてこの世に現れる。虫の蛹は、後ろ手に縛られた女のような姿で大量発生する…。蛹の状態は、『皿屋敷』のお菊からその名をとっているという。
雅哉は、よりによっていまは蘇らせたくない記憶に、目眩が起きそうだった。
針金の黒い脚を皮切りに、見る見る蛹は孵化した。
品やかに伸びる触覚を持った蟻のような頭。
ビロードのような透き徹る両の翅。
翅の中を涙のように流れる黒い翅脈。
広げた翅の線形は、女性の子宮を象るように淫靡でいて、ロールシャッハ・テストのインクの染みのように脳漿の奥底を揺さぶる。
そして、鱗粉を散らして飛び立つ時、腹端から分泌される麝香のような香気が、雅哉の鼻腔の奥に張り付き、咽せ返った。
「…ジャコウアゲハ…」
雅哉は、二、三度白眼を剥くと、込み上げてきた昼食のナポリタンを抑えきれず、その場に残らずぶちまけた。
††† 前編終わり → 後編へつづく †††