第二章 茶色と紅2
「きれい・・・」
達也や警視庁の重鎮達が、学校の会議室に集結している頃、その屋上に、二人の男女がいた。
学校は、周りに建物があまりない土地に建てられたので、景色を遮るものがない。特に、太陽が山に沈んでゆく際の夕焼けは格別であった。中には夕方、好きな相手を屋上に呼び出し、思いを伝える者もいるらしい。
二人は肩を合わせながら、その景色を眺めている。二人の表情は、幸せそのものだ。
「ずっと、お前とこの景色を眺めたいと思っていた・・・ずっと」
二人は互いが関係していることを、何としても隠さなければならなかった。顔を合わせても、さも無関係かのように、すれ違わなければならなかった。
それがどれほどの苦痛なのか・・・。それは、直接体験した者にしか、わからないことである。
「本当にいい景色。カメラ持ってくればよかったぁ・・・」
残念そうに言いつつも、その景色から目を離そうとはしない。自分が最も愛する人が見せてくれた、最高の景色。ずっと見ていたいと思うのは、ただ純粋にうれしいからだろうか。それとも、一度目を離してしまい、二度とこの景色が見れなくなるのを恐れているからなのか・・・。あるいは、その両方か。
「冥・・・」
少女の名を呼ぶと、少年は少女を抱き締めた。今まで耐えてきた分を、互いに辛かった事を払拭し、同時に、これからはずっと一緒であることを伝えるために。互いに互いの温もりを確かめ合うために。
「お前が捕まってしまってから、ずっと悩んでいた。俺は正しかったのか、お前にあんなことをさせてよかったのか・・・。お前がいない間、俺の心は濁っていたのかもしれない」
抱き締める力が強くなる。しかし、痛みはない。力の強さに比例して、少年の想いが伝わってくる。
冥の頬を、透明な雫が伝った。
「けど、もう大丈夫だ。お前がいてくれる限り、俺は迷わない。今まで辛い思いをさせて悪かった。よく・・・本当に、よく帰ってきてくれた。もう、絶対に離さないからな・・・!」
冥が捕まってしまってから、少年の心には大きな穴が開いてしまっていた。最愛の人が、自分のせいで逮捕され、挙げ句、死刑を宣告されてしまった。
自分が首謀者なのだと、警察に名乗り出ようとさえ思った。しかし、それでは彼女との約束が果たせない。
二人は誓った。社会を変えようと。二人の力で、国そのものを動かそうと。その約束を果たすためには、少年が捕まらないことが絶対条件だった。
彼女が逮捕されて、しばらくたった頃である。冥を失い、途方にくれていた少年の元に、冥からの手紙が届いた。
会いに行きます。
手紙には、その一言だけが書かれていた。少年は驚愕し、そして歓喜した。
そして、冥と碧子が転校生として学校を訪れたあの日、二人は再会を果たした。しかし、公衆の面前で、再会を喜び合うわけにはいかなかった。
そんなことをしてしまえば、芝居をうってまで、自分と冥は無関係だと思わせていた達也や、隣で冥を睨んでいた碧子に疑われてしまう。その後も二人きりで会う機会がなく、今日に至ったのである。
しかし、たとえ会えずとも、冥は自分のやるべきことをわかっていた。
この学校にきてから今日までの間に、冥は数人の命を犠牲にした。そしてその行動は、二人の目標達成に向けて、さらなる前進を促したのだった。
「早く、二人で話したかった。こうしたかった。本当に帰ってきた実感がわかなくて、これは夢なんじゃないかって、不安で仕方なかった。でも、今なら・・・夢じゃないって思える今なら、言える」
冥も少年を強く抱き締めた。ずっと言いたかった言葉を、より近くで伝えるために・・・。
「ただいま、栄司君・・・!」
達也は絶句した。正義の口から放たれた、とんでもない言葉に。
「今・・・何と言った?」
達也の手が震えている。冷静に受けとめられる状態じゃない。それを理解しつつも、正義は再説明することにした。
本来ここにいるべき、ある人物のことを。
「・・・今井刑事がこの学校に潜入する前、私は既にもう一人の刑事を、ある名目で潜入させていた」
混乱しないように、正義の言葉一つ一つを、ゆっくり解釈していく達也。彼の表情には、底無しの絶望が浮かんでいた。
「その刑事を送り込んだ理由・・・それは達也、お前を友として見守らせるためだ」
達也が高校に入ったとき、既に彼は他人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。周りの人間達が徒党を組み、派閥を形成していく中で、彼は一人だった。
そんな達也にただ一人、声をかけた人物がいた。
茶色の髪と軽いノリ。その人物をどう解釈すれば、彼が刑事だということかわかるのだろうか。
倉坂栄司・・・。徐々に打ち解けていった彼らは、互いにとって、唯一無二の親友となっていた。
「彼は今井刑事と同じように、未成年にして刑事となった。優秀さもさることながら、彼の気楽な性格が、いつか刑事という職のイメージを変えるだろうと、期待していた」
どうやら栄司は、正義の期待の星だったらしい。新たな警察・・・正義はどのような警察の理想を描いていたのだろうか。
「だが、携帯電話の発信履歴に、紅水冥の携帯へかけた記録が残っていた。それによって、彼と紅水冥が、何らかの形で関わっていることが判明。それについて詳しく調べるよう、今井刑事に連絡した」
恐らく、碧子が堂々と携帯を使っていたあの時だ。あの短い応答の中では、とてつもなく重要な会話が展開されていたのだ。
自分の期待していた人物が、最悪の形で裏切った。信じたくはなかっただろう。しかし、警視総監と言う立場上、捜査に私情をからませるわけにはいかない。正義は断腸の思いで、碧子に電話をかけた。彼はどんな様子で碧子と話していたのだろうか。
「・・・今井刑事が倉坂栄司の親族に聞いたそうだ。彼には、同年代のガールフレンドがいたと。その女の子こそが、紅水冥だった」
「・・・・・・」
達也は何も言えないままだ。ただ、警察はこれから先、倉坂栄司と紅水冥の二人を逮捕するために動くだろう。それだけは、理解していた。
ただいま。その言葉には、逮捕され、裁判を受け、死刑を言い渡され、脱走し・・・今までの辛い時間のすべてが込められていた。
それを受けとめようとするかのように、栄司はもう一度腕に力を込めた。
「おかえり、冥」
体を離し、冥の目を見ながら、栄司は応えた。冥の言葉、想い、全てに。
「・・・これからどうするの?」
もうこの学校には留まれない。二人のことに、警察も気付いているはずだ。すぐにでも行動を起こすだろう。警察の指揮をとっているのがあの人なら、尚更だ。
全てを理解し、栄司は笑みを浮かべた。
「決まってるだろ。犯罪を終えた犯人がとる行動は一つ・・・」
あの人に教えてもらった。感謝しないとな。
「逃亡・・・さ」
達也は一人、誰もいなくなった会議室にいた。夕方だった。
正義や碧子、そして警察の重鎮達は、この町の警察署に捜査本部を構え、倉坂栄司と紅水冥の行方を追うらしい。当然だろう。幾つもの命を奪った危険人物達を、放置しておくわけにはいかないのだ。
達也は迷っていた。このまま何もせず、ただ結果が出るのを待つか、それとも・・・。
恐らくこの決断が、この人生最大の別れ道だ。それぞれの方向には、全く違う未来が待っている。どちらに行くかは、達也次第である。
『・・・・・・』
達也が椅子から立ち上がる。前言撤回。迷うはずがなかった。そして栄司も、迷ってはいないだろう。
お前が逃げるなら、俺は追うしかない。達也の目は確かに、栄司の後ろ姿を捕らえていた。
翌日、警視総監の急遽行った記者会見で、この事件の構図が明確になった。
「先日報道されたとおり、死刑囚紅水冥がレクイエム刑務所から脱獄。依然、共犯者の倉坂栄司と逃亡を続けています」
静かな記者会見である。カメラの音こそ聞こえるが、記者達が正義の言葉を遮る気配はない。
この様子は生中継されている。全テレビ会社の放送を一時中断し、全国の家庭へと繋がっている。誰もが、正義の言葉を黙って聞いていた。
「これから発表する地域の方々は今後、老若男女に関わらず、可能なかぎり外出を控えて下さい。彼らは危険です。我々も最善を尽くしますが、皆さんの安全をお守りできるかはわかりません」
実に素直な言葉だった。無駄に警察の威信を守ろうとするよりも、よっぽど効果があるだろう。
とは言え、この発言は一般人達を大きな不安の中に追いやるものだ。反発は起きるだろう。そのことは正義を初め、警察の重鎮達全員がわかっていた。
「今この時より十二時間の間、全警察官が出動し、皆さんを護衛いたします。その間に、一般の方々には、これからしばらく、家に引きこもるための準備をしていただきます。その時間を過ぎてから、皆さんの安全は保障しかねます。無責任かとは思いますが、皆さんのご協力をお願いします」
正義が深く頭を下げ、記者会見は終了した。警戒すべき地域のスーパー、コンビニ等が、押し寄せる客であふれ返ったのは言うまでもない。
「タイムリミットまであと三時間。それから数日、一般人は自宅に張りつけ状態になるわけですね」
時計と外に何度も目線を移す碧子は、珍しく緊張しているようだった。無理もない。
実際のところ、これはかなり分の悪い賭けだった。家に籠もった者達が、いつまで大人しくしていてくれるかはわからない。彼らが従ってくれている間に、警察は冥と栄司を発見、逮捕しなければならない。
捜査している間に犠牲者が増えないようにするには、この方法しかなかった。時は一刻を争っている。のんびりしている時間はないのだ。
そしてこの捜査には、もう一つ問題がある。
指定された町の者達を家に籠もらせることは、一切の目撃証言も得られないということだ。
時間もない、情報もない。警察の勝ちは、万に一つの確率といえる。
「間に合うでしょうか」
「間に合わせるしかないのだ。ここまでしておいて、間に合いませんでしたで済むはずがない」
警察の重鎮達は皆、正義の一挙一動に注目していた。もし間に合わなければ、全ての責任を彼にとらせる魂胆だろう。それがわかるだけに、碧子はさらに緊張せざるをえなくなった。
うまくあの二人を逮捕しなければ、正義は間違いなく辞任させられる。そうなれば、彼の言う、新たな警察が完成しないまま、彼は警察を去ってしまう。それは、警察が永遠に進歩しないことを意味していた。
『国民の信頼を失った警察を変えられるのは総監しかいない・・・何としても成功させないと』
現在の警察の状況はかなり深刻である。今の世の中、警察を心から信用している人が、一体何人いるだろうか。
ほとんどの者は警察を信じられず、自分の身は自分で守らなければならない。その心意気自体は悪い傾向ではないが、そう思わなければならない時点で、警察の威信は失われていると言っていい。
碧子の見るかぎり、崩れ落ちた警察を変えられるのは、神崎正義ただ一人なのだ。
「少し、緊張しすぎじゃないのか?」
「!・・・あなたは」
突然声をかけられ、慌てて振り返ると、そこには達也がいた。
「ど、どうしてあなたがここに・・・」
「大変だった。ここを見つけることじゃなく、ここに入ってくることがな」
警察署の入り口では、何人かの警察官が立っている。彼らに気付かれず、入ってくることは不可能だ。
どうやったのかは知らないが、彼がここにきてしまったことは問題である。
「ここは捜査本部よ!?一般人が入っていいところじゃ・・・」
「待て、今井刑事」
達也に説教しようとしたのを、正義が制した。彼の手には手帳らしき物が握られている。
「・・・覚悟はできているな?」
短い問いだった。だが、その一言の中には、幾つもの意味が込められている。達也を貫くように見下ろす正義。
もちろん、覚悟はできていた。そうでなければ、わざわざここに出向いたりはしない。正義の目を、達也は真正面から見返した。
「・・・ああ」
こちらも一言だった。それで十分なのだろう。
「では、これを持て」
正義が手に握っていた何かを投げる。達也はそれを力強くキャッチする。
投げられたものには、警察を示すマークがあった。黒い革で覆われたそれを開くと、達也の顔写真が貼られている。
それは、自分が警察官であることを示す手帳。正義や碧子が持っているのと同じ物である。
「そろそろ時間だ。いつでも出られるようにしておけ。神崎刑事」
その言葉に答えるように、達也は警察手帳を強く握り締めた。