第一章 疑惑ノ薫リ2
「ねぇねぇ、神崎君!」
「・・・・・・」
授業が始まって三十分。ショートカットの転校生、紅水冥は依然、達也と話をしようと、頻りに話し掛けている。
しかし、相手が悪い。粘り強い冥に対し、達也は無視をし続けている。
この手のタイプは、相手にするだけ時間の無駄だ。何故か笑いながら話をし、人を小馬鹿にするように会話をやめる。大分問題のある表現だが、結局そう言うことなのだ。
「神崎君ってば!」
冥が声のボリュームをあげた。同時に、体育会系数学教師が冥を睨む。忘れることなかれ、今は授業中である。
教師の鬼のような目によって、有無を言わさずに黙らされた冥は、気まずそうに俯いた。これには達也も気の毒に思ったが、結局のところ、自業自得である。達也が冥に声をかけることはなかった。
・・・・・。
そうこうしている間に、昼休み。いつものように、栄司が歩み寄ってくる。無論、弁当を持って。
「行こうぜ、神崎」
「・・・そいつもか?」
栄司の後ろには、セミロングの転校生、今井碧子。早くも意気投合したのだろうか。
「あぁ、そう言うこと。問題ないよな?」
ニヤリと笑いつつ、達也に許可を求める。
却下する理由はなかった。第一印象から判断すれば、冥よりも彼女の方がましだろう。そして何よりも、栄司がそう言っているのだ。たまには頼みを聞くべきだろう。
「・・・わかった」
達也と栄司は普段、食堂で昼食をとっている。栄司は弁当なのだが、達也はそれを用意していない。いや、用意できない。
彼の母親、神崎愛は、十年も前に死去。父の正義は、この時既に一警察署の署長となっており、息子のために時間を割く余裕がなくなっていた。
その頃から正義と達也の間にすれ違いが生じ始め、今では一緒にいても会話がほとんど発生しない。高校生ともなれば、それが普通なのかもしれないが。
「で、どんな感じなんだよ?紅水は」
食堂へ向かう途中、栄司が問うた。
「どうもこうもない。何度も何度も声をかけてきて・・・教師の声が聞こえなかった
達也はイライラしているようで、手に何かをもっていたら、それを床に叩きつけそうである。
重要な部分を聞き逃しているような気がしてならない。もし少しでも理解できないことがあったら、彼女のせいである。
「俺の見たところ、あいつは相当ガキだな。年齢とかじゃなくて、心がさ。あんまり相手にしない方がいいぜ」
言われなくともそのつもりである。今のところ、達也の冥に対する評価は、最悪と言っていい。社交的で明るい少女は、非社交的な少年とわかりあえないものなのだろうか。
栄司の発言も妙である。彼は達也と同じ意見であることが多いが、他人を拒絶することに賛成はしていなかった。ただの風の吹き回しか、それとも意図的に、冥と達也が関わらないようにしているのか・・・。
ピピピピ・・・!
突如、携帯電話の着信音が響いた。今時のJ-POPではなく、ただの電話がなる音である。
「あ、ごめんなさい。少し待って」
鳴っていたのは、碧子の携帯電話だった。これには達也も焦った。
当然のことながら、この学校は携帯電話の持ち込みを禁止している。それでも持ってくる奴らはいる。しかし、陰ながら使っている程度で、彼女のように堂々と使っている者は見たことがない。
「はい・・・。はい、わかりました」
短いやりとりをして、碧子は電話を切った。
「おい、何普通そうに扱っている?」
別に拘っているわけではない。しかしいくら何でも、目の前で自分の守っている規律を平気で破られてしまうと、気分が悪くなるものである。
当の碧子は、電話を切ると同時に何かに焦りだしていた。
「大丈夫よ。許可はとってあるから。二人とも、私、急用があるから先に帰るわ。ごめんなさい」
「先に帰るってお前、まだ授業が・・・おい!」
栄司が言葉を言い切る前に、碧子は走りだしていた。恐らく、荷物を取りに行くのだろう。
その日、碧子は帰ってこなかった。
人は何故、他人と生きようとするのだろう。醜い心を外面と言う仮面で隠し、好きでもない人のことを気にしながら、日々を生きている。
正直、私にはそれが理解できない。他人なんて所詮、利用する道具にすぎないのに。それに合わせようとする人間が、そして、それが当然のように成り立っている世の中が、理解できない。
とは言え、どんなに下らない何かにも、多少の価値はあるもの。この世の中は、私の実験室として最適だった。
人が人を殺すことは、どうしていけないと言われるのだろう。ただ生きているものを、動かない肉の塊に変えるだけなのに。
生存する権利の侵害?悲しむ人がいる?多分、どちらも正解だと思う。だけど、実際人が他人を悪だと感じる要因はそれじゃない。
人が人を悪だと思う本当の理由は、人が人を殺す理由だと思う。
怨恨、金銭欲、憎悪、保身、独占欲、渇望、恐れ、正義感・・・。それら負の感情が、人を傷つける事の原動力。刃物や鈍器、あるいは拳を通して、負の感情を相手に叩きつける。そう言った、負の感情の醜さから、人は悪と判断する。人を殺す理由から。
けど、この論理で考えると、一つの疑問が湧いてくる。
人を殺す理由が悪の本質なら、理由のない殺人は、悪とは呼べないのではないだろうか。
全く知らない人を、何の理由もなく殺すことは、悪として判断されず、永遠に続けることができるのではないだろうか。
一度は中断させられたこの実験・・・今度こそ疑問の答えを見つけよう。
私と、彼で。
殺人事件が起きた。
被害者は町で服屋をやっている五十代の男性。何かしら特別な間柄の人間がいるわけでもなく、特に恨みも買っていない。変にいい人のように扱われている者よりも、凶刃がむく可能性の低い人物であると言えるだろう。
怨恨とは程遠く、又、自宅からは何も盗まれていない。理由の見当たらない殺人事件に、警察では、ある人物の名が浮上した。
勿論、現在脱走中の通り魔である。
警察内では、名前を公開しようと言う意見が相次いだが、少年法に邪魔をされ、いまだに踏み切れないでいる。それにより、一般人は恐怖に怯えながら、日々を過ごすこととなってしまった。
「早速動きだしやがったな。あの店いいの売ってたのによ」
新聞の一面を眺めつつ、栄司は呟いた。その隣では達也が横目で新聞を睨んでいた。
この殺人事件の後、警視総監、神崎正義が会見を行った。無数の記者の前で、名前を公表できないことを話し、頭を下げた。達也にはそれが情けなかった。
正義は昔、達也にこう話したことがある。
「いいか達也。今の警察は不正行為が相次ぎ、一般市民からの信用を完全に失っている。いや、最初からなかったと言っていい。しかし、今ならまだ間に合うかもしれない。昔から政府の犬として働いてきた警察を、正義の集団に変えたいと私は思っている。もしそれが叶って、お前との時間をもてるようになったら、ゆっくり話をしよう。お前が何を目標にし、何を想い、何を望んでいるのか。その時が来たら、教えてくれ」
『一体いつ、その時が来る・・・?』
警視総監ともなれば、のんきに子供と時間をともにしている暇はない。達也も、その事は十分に理解している。
しかし、一度交わした約束をいつまでも延期されたくはない。あと数年もすれば、達也は自立する。その時までに、約束は果たされるのだろうか。
「なぁ、達也」
「?」
栄司の声に、いつもの明るさはなかった。それも当然。
「俺たち、何やってんだろうな」
通り魔が学校にくるとわかっていたのなら、今回の犯行を止めることは容易だった。達也と栄司のどちらかが、冥と碧子のどちらかを追っていれば、どっちが犯人かもわかった。さらに、犯行も止められた。
行動できたのに、しなかった。二人はそれを強く後悔していた。行動したときの後悔よりも、行動しなかったときの後悔のほうが大きい。と、誰かが言っていたような気がする。まさしくそれだった。
達也を置いて、校舎へ入っていく栄司。その後ろ姿がやけに小さかった。
「・・・・・・」
達也は石段に座り、俯いた。授業なんて受けていられる状態ではない。教室に行けば、あの二人と顔を合わせなくてはならない。
そうなれば、達也はクラスメイトの目の前で、二人に大声で問い詰めてしまう。お前が犯人か、それともお前か。公衆の面前で。できればそんなことをしたくない。
どうすればいいのか・・・。
「授業はどうした?」
「・・・!」
聞き覚えのある声にはっとし、顔を上げる。達也の目の前には、ここ最近顔を合わせていない、神崎正義が立っていた。
「な・・・」
何故ここにいるのか。通り魔の件で多忙を極めているのではないのか。
しかも、今は朝九時。当然、公務員は出勤している時間である。それが警察庁の長ともなれば尚更だ。
「十分に多忙だ。今お前が考えていることでな」
達也の胸中を察したようだ。十分忙しい。となれば、余計にわけがわからなくなってくる。
一体何をしにきたのか。学校にきている辺り、達也に用があるのは明らかだが、用件の見当が付かない。そもそも、しばらく放置しておきながらいきなり会いにくるとは、少々身勝手すぎないだろうか。
「そうきつい顔をするな。お前にとっても、重要なことのはずだ」
正義の性格上、さして重要でないことを、わざわざ話しにこないことはわかっている。
達也に関係があり、且つ重要なこと・・・。とくれば、一つしかない。もう少しよく考えるべきだったか。
「先日、お前の組に二人、転校生が来たはずだ。知っての通り、内一人は連続通り魔の犯人。そいつは今、教室で授業を受けているだろう。同じ組である以上、接触は避けられない。いつお前に凶刃が向けられるかわからん。気を付けろ」
前置きが無駄に長かったが、正義の言いたいことは、結局、最後の部分である。
つまり、多忙であるにも関わらず、息子に忠告しにきたのだ。恐らく、警視総監専用の机には、大量の報告書が積み上げられているだろう。
「容疑者は二人だぞ。どちらに気を付ければいい?」
「残念だが、それを伝えるわけには行かない。意味がわからないかも知れないが、わかってくれ」
わからないわけでもない。一般にすら後悔していないことを、身内に話すのは問題である。正義が捜査の指揮をとるには、秘密は秘密のままにしておかなければならない。
「まあいい。どの道、あんたがやらなきゃできないことだ。忠告感謝する」
この事件、正義でなければ解決はできない。達也は息子として、父親の腕を信用していた。
これ以上話すことはない。教室に戻ろうと、石段から立ち上がる。
「待て。もう一つ、言っておくことがある」
正義に引き止められ、戻ろうとする足を止める。何だというのか。
「お前にとって、悪とはなんだ?」
「何・・・?」
突然何を言いだすかと思えば・・・。悪とは何かだと?
「覚えておけ。究極の悪は、自分の手を汚さずに、命を狩るものだ」
一方的に言葉を残し、正義は去っていった。
わけのわからない達也は、しばらくその場に立ち尽くした。