第三話
あれから一週間以上が経ち、俺の中で「あの道」も、不思議な外人のことも少しずつ記憶から薄れつつあった。
しかし、鈴の存在があの出来事が夢ではなかったことを教えてくれる。
鏡の前には鈴を首にぶら下げた俺が映っている。にっこり笑ってみた。にやりとしか口が動いていなくて少しがっかりした。
あの日から俺の日常は何の変化もない。やはり普通の男が送る人生というのは普通の日常に限る。どういうわけか、あの日から喧嘩や恐喝などに巻き込まれることも無くなった。
あの出会いは俺にとって一歩間違えばどん底に突き落とされかねない出来ごとだったわけだが、結果的には俺の人生を幸いへと導いてくれたのかもしれない。
そんな風に俺は思っていた。
バイトが終わり、俺は学生寮へと帰宅する途中だった。大学が見えてきて、あと少しで学生寮だ。
あれから「あの道」に入り込まないようにと、「あの道」付近の道を避けて歩くように気を使っていた。
そのおかげか、もしくは首からぶら下げている鈴のおかげか、「あの道」へと迷い込むようなことはなかった。
俺はふと馬鹿げた考えが脳裏に浮かんだ。
もう一度、通ってみようか。
バイト帰りで身体はへとへとに疲れているくせに、なんだか妙にテンションは高揚していた。
その道は大学の裏手にある。昼間は大学生で人通りも多くにぎやかだが、夜は街灯が一つしかないため、人通りはがくんと少なくなる。
本当は大学の裏通りを歩いた方が学生寮には一番近いのだが、その通りで俺は「あの道」へと引き込まれたのだ。
俺の警戒心は確実に緩んでいた。
俺は高揚と恐怖とがないまぜになりながら、ゆっくりと裏通りへと足を向けた。
夜の裏通りはたった一つの街灯のみがその道を照らす道しるべでもある。
俺は街灯の光を頼りに、大学校舎側を歩いていた。
長い一本道で誰ともすれ違うことなく、三分の一ほど進んだときだった。
ひた、ひた、ひた、という足音のようなものが俺の背中から聞こえてくるような気がした。首筋がひやりとして、俺は早足で裏通りを通り抜けようと思った。
早くも後悔で頭が張り裂けそうだった。確実に俺の背中を追いかけてくる足音は俺の歩調にピッタリと合わせているようだった。
やばい、やばい、やばい。
心の中で何度もつぶやいた。後ろを振り返る勇気など持ち合わせてはいない。ただ、気配は先ほどよりもずっと近くに感じていた。
助けてくれ、と俺は首から下げた鈴を握りしめた。
周りの風景など気にしている余裕はない。
俺はひたすら下を向いて、左右の足を動かした。
裏通りの終わりはあとわずかに迫っていた。
あと少し、あと少し、俺は口の中で何度もつぶやいた。鼓動の音が胸を突き破り、高鳴りは激しくなっていった。
そして裏通りを通り抜けたところで、俺は体中の毛穴から一気に汗が噴き出るのを感じた。
助かった。俺はそう思い、ほっと息をついた。
もう大丈夫だ、と何の根拠もなしに思った。
そして、後ろを恐る恐る振り返った。
ほら、誰もいないじゃないか。長くため息をつき、身体を元の向きに直し、学生寮へと向かおうとした。
すると、前方、俺の顔との距離は20センチ程の距離に黒い女が立っていた。
にたりと笑った女の顔には眼球がなく落ちくぼんだ空洞があるだけだった。全体的に真っ黒な闇で覆われた女の口だけが生々しく赤く濡れていた。
翌朝、大学の裏通りをよくランニングで通るという老人から通報があった。
道で若い男が死んでいると。
その若者は右手を固く握りしめていた。警察は何か、その死についての真相を教えるものを握りしめているのではないかと、死後硬直で石のように固まってしまった手をほぐそうとしたが、かなわなかった。
鑑識と解剖の結果、若者の死因は急性心不全と判断された。