第一話
ツイてないなぁ、そんな感想が思わず口に出る。生臭い腐臭の中で目覚める朝は、人生の中でトップ3に入る不愉快さだった。
山崎東吾は昔からツイていない。きっと何かに取り憑かれているに違いない。普通に人生を送っているつもりなのに、何故か自分だけ損をしているような気がする。
今日だって、生ゴミのベットで目が覚めるなんてこと、普通の人間ならそうそう無いはずなのだ。なぜ、目覚めのさわやかな朝が生ごみから始まってしまったのか。それは昨日の夜まで時間を巻き戻す必要がある。
友人と夜の9時から居酒屋で飲んでいて、帰宅しようと店を出たのが1時過ぎ。学生寮へと向かう途中、事件は起きた。
俺は普通に道を歩いていた。たぶん向こうもそうなのだろうが、何故かそれは起きてしまったのだ。
しこたま酔っぱらっていたわけでもない。道が狭いわけでもない。ましてや、俺の風体はいたって普通の男子学生だ。なのに、俺は奴らに目をつけられ、恐喝され、ぼこぼこにされた。
こういうとき、何かしら因縁をつけられやすい人間は喧嘩が強いものである。しかし、俺は本当に平凡な男子学生なのだ。喧嘩慣れしたチンピラに勝てるわけがない。心当たりのない喧嘩を吹っ掛けられ、ぼこぼこにされるのは慣れていた。しかし、朝の目覚めが生ごみと一緒なんてことはめったにない。ツイていない俺でも、そこまで殴られることはそうそうないのだ。ゆえに、今日は人生最悪の朝トップ3に入る。
しばらくビルの隙間から見える灰色の空を眺めていた。雨が今にも降り出しそうな、どんよりとした空模様だった。そしてその予感はすぐに的中し、ぽつぽつと滴が頬を打った。
水滴はだんだん大きくなり、あっという間に大雨が降り注いだ。
俺はよろよろと生ごみの中から身を起こした。身体の節々が軋み、立ちあがった瞬間、ぐらりと視界が揺れた。俺はビルの壁を伝い、細い道に出た。
大学の寮の近くのはずなのだが、見たこともない通りだった。
喧嘩を吹っ掛けられたのは大学寮の近くのはずだったのだがと首をかしげながら、大きな通りを目指し、歩き出すと前方から黒いマントをはおった外人風の男がやってくるのが見えた。
こんな田舎では外国人は悪目立ちする。実際、周りの風景と見比べてもその存在は異質であった。
だんだん距離は縮まって、俺と外人はそのまますれ違った。俺は何故か目をそらし、足元を見つめていた。
ちらりと見えた外人の靴は5センチ程の底のある細身のブーツだった。季節はまだ晩夏である。それなのにブーツとは風変わりだなぁと俺は思った。
俺たちはそのまますれ違い、そしてそのまま永遠にすれ違ったままのはずであった。
こつ……こつ……こつ……。ヒールの音はだんだん遠ざかり、ぱたりとやんだ。なんとなく、俺は後ろを振り返った。すると、遠ざかっていったはずの外人がすぐ目の前に立っていた。
俺は情けない声を上げ、その場に腰を抜かししゃがみこんでしまった。
そんな俺を外人は冷たい表情で見下ろした。
よくよく見ると、その外人はかなり細身で華奢な体型であることが分かった。髪は腰まである。薄い金髪の一本一本は細くしなやかだった。なにより印象的なのは瞳である。形のよいアーモンド型の瞳はアメジストのようなきらめきを称え、見る者全てを魅了する不思議な魅力を備えている。
俺はそのまま引き寄せられるようにその瞳を見つめた。
外人は白く細い手をさっと差し出した。俺はその手を呆けた顔で見つめた。すると、外人は低くもなく高くもない声の高さで、手に掴まるように促した。俺は言われるがままにその手を取った。
連れて行かれた場所は、やはり俺が今まで通ったことのない道だった。大学がすぐ近くにあるはずなのに、俺は何故かその風景を全く知らなかった。
赤レンガの壁には緑色の蔓が張り付き、ところどころ白とピンクの花が咲いていた。表札には「皇」とあった。なんと呼ぶのだろうとぼんやり考えていると、外人がドアを開き、中に入るように言った。
中に入ると、そこには通常、玄関があり、靴を脱ぐスペースがあるはずだが、家の仕様もやはりそこに住む人間の生活様式に合わせて作られているらしい。土足のまま外人の背を追って進んでいくと、ドアがぱっと開いた。外人も俺も、そのドアの取っ手には触れていない。まるで勝手に開いたように見えた。俺は瞬間、びくりと身体を竦めたが、ドアの向こうから長い黒髪を垂らした女が出迎えたので、それがすぐに錯覚であったと気付いた。
「おかえりなさいませ」
静かで低い声でそのように言って、黒髪の女はちらりと俺の方を見た。その表情からは何の感情もうかがえない。何を考えているのか分からない。しかし、深く澄んだ黒曜石の瞳が俺の姿を捕えていた。俺はまるで自分の身のうちまでも見透かされているような気がして、思わずごくりと息をのんだ。
「ただいま」
外人の方はそんな二人の様子を気にも留めず、ただいつもの日常風景に挨拶するように黒髪の女に声をかけた。
黒髪の女は流れる所作で外人からマントを受け取り、腕にかけた。
「温かい紅茶がすぐにご用意できますが」
「うん、お願いするよ。……彼の分もね」
「御意」
二人の会話は完全に時代錯誤のような印象を受けた。まるで中世の外国、主人と執事の会話のようだ。彼らの間にはっきりとした主従関係が成立しているということは確かなのだろう。それにしても、俺が知る日常とかけ離れていること甚だしい。
外人は目の前に鎮座する大きなソファにふわりと腰かけ、俺にもその隣の椅子をすすめた。俺はおずおずと薦められるがままに、椅子に腰かけた。
俺たちの間に気まずい沈黙が長く続くことはなかった。黒髪の女は言葉の通り、すぐに紅茶を運んできたからだ。
俺も外人もまずは静かに温かい紅茶を味わった。そうしながら俺は、何故ここに自分が連れてこられたのだろうかと考えていた。
身も知らずの赤の他人である俺を、何故アイツは気にしたのだろう。それとも何かわけがあるのだろうか。紅茶を味わうその時間は会話の空白であったが、思考は複雑に入り乱れ、答えは出せないままである。
半分程、紅茶を飲みほしたところで、外人はティーカップをソーサーにおいた。俺はそれがようやく待ち望んだ会話の糸口であるように思えた。
「……あの……、俺はなんでここに連れてこられたのでしょうか?」
俺はなんとかそこまで言い終えて、何故かほっとしてしまった。なんだか、自分に課せられた義務を遂行し終えたような感じがしたのだ。奴はそんな俺を優しく見つめ、口を開いた。
「随分とお困りのようでしたので」
「え?」
「雨に濡れていらっしゃったようですし、あのまま道を進んでもたぶんあなたが住んでいた家にはお帰りになれなかったでしょうから」
言われた意味が理解できなかった。何を言っているんだ。
俺の怪訝な顔に外人は小さく苦笑した。
「やはり、お気づきでなかったのですね。あれは普通の人間が通る道ではないんですよ」
「どういう意味ですか?」
その時、俺の理解力の稼働率は3割を切っていた。予想もしていないことに対面した時、人間は混乱して物事を上手く考えられなくなるのだ。つまり、俺は今パニックになっている。
「驚くなと言う方が無理なのでしょうね。ですが、落ち着いて聴いてください」
外人はそう言って、俺が迷い込んだあの道について説明を始めた。




