霧の森と化け物
悲鳴が上がる少し前、ヒカルとはぐれた少女は、鬱蒼と生い茂る森と、片手に持ったバスケットとを交互に見て溜息を吐いた。
「どうしよう、早く帰らないと日が暮れちゃう……。でも、あの人を放っておけないし……」
彼女の心には、恐怖と正義感が葛藤していた。早く帰ってキノコ料理を食べたい。夜の森には居たくない。でも、こんな場所に記憶喪失の青年を放置することはできない。
「やっぱり、追いかけた方がいいよね」
その判断が、命取りだった。
彼女は普段から山菜を採るため、この森を出入りしている。だから、人一倍土地勘はあるつもりだった。両親は優しく、毎晩色々な話を語って聞かせてくれる。だからこそ、人一倍知識だって持っているつもりだった。故に、彼女は恐れていた。森に潜む闇を。
しかし、今はそんな恐怖を振り払う。私しか、彼を助けられないのだから。そう自分に言い聞かせて。
彼女が森の中に入って、数時間が経った頃だった。
ガサガサ――。遠くの方で音がした。
少女は息を飲む。彼女は、ヒカルの残した足跡を辿ってここまで来た。帰り道の目印として、地面に枝を等間隔で並べてある。これで迷うことなく帰ることはできるはずだ。後は、早く記憶喪失の青年を連れて森を引き返さなくては。
彼女が焦るのには理由があった。太陽がもう、すっかり傾いてしまったからだ。木漏れ日の色が、次第に赤く色付いてきている。辺りの気温が徐々に下がり、霧も出始めた。明日は満月だ。そろそろ『あいつ』も、腹を空かしている頃合いだろう。
「ちょっと、早く帰るわよ」
少女は草を掻き分けて、そっと声をかけた。きっとそこに居るのは先ほどの青年に違いない。そう勘違いしていたからだ。
しかし、違った。そこに居たのはもっと別の、恐ろしい存在だった。
「……キャ――ッ!」
思わず叫び声をあげてしまった。
彼女の声を聞いて、ソレは巨体を動かした。だが、彼女の方がもっと速かった。瞬時に踵を返した少女は、全速力で来た道を引き返そうと振り返った。帰り道が、分からない。もうすっかり辺りは暗くなっていて、霧が濃い。地面に突き刺したはずの目印も見当たらない。森の中で出会してしまったのは運が無かった。きっと、あの青年は犠牲になったのだ。今はただ、私が生きて帰ることだけを考えよう。
そう心に決め、彼女は来た道と思しき方向に向け、全速力で駆け抜ける。木々の隙間を縫うようにして走り、両手で幹を押してさらに加速する。
「オンナ……ダ」
低くしゃがれた声で、『そいつ』は人の言葉を発した。間違いない、父の話に出てきた化け物だ。
化け物は突然大きく跳躍した。その衝撃で大地が揺れ、木々がざわめく。
「嘘ッ!」
宙を舞って、化け物は帰り道を塞ぐように着地した。体長五メートルほどある漆黒の巨体と、大地をがっしり掴んだ六本の足。全身を包む針金のように尖った無数の体毛、背中から生える骨のような突起物。そして、こちらをじっと見つめる仮面のような真っ白い顔。仮面の隙間から、真っ赤な瞳が彼女をじろりと睨んだ。
彼女は全力で走った。森の奥に向けて、化け物から離れるために。もう帰り道なんてどうでもいい。今はただ、生き残ることだけに専念した。彼女は今までで一番早く走った。ぬかるむ大地を全力で蹴り、景色を置き去りにして、必死に、無我夢中に。しかし、足元の注意が足りなかった。
「キャッ!」
強風に耐えるため発達した板根が、彼女を躓かせた。前のめりに転んだ彼女は、顔面から地面に衝突し、全身を泥まみれにする。バスケットの中に入っていたキノコが全部ぶちまけられてしまった。しかし、集めている暇はない。
「ドコ……ダ?」
背後から声がする。恐怖と絶望の最中、再び声をあげそうになった。その瞬間だった。
「しー、大丈夫だから!」
突然口をふさがれ、藪の中に引きずり込まれた。
「んー! んんー!」
何者かに口と鼻を抑え込まれたせいで、声が出ない。呼吸もできない。恐怖で頭の中が真っ白になる中、再び声がした。
「静かに、大丈夫だから。俺だから」
その声は、間違いなく例の青年だった。記憶喪失の、あの青年。




