おばぁが危ない
「おばぁが、危ないッ!」
次の瞬間、彼の体は動いていた。巨大なカブトムシが消えてしまった森の奥に向かって、全速力で駆け出したのだ。
「ちょ、どこ行くの!」
背後で少女が必死に呼び止めているのが分かる。でも、今のヒカルにとって大事なのは、この世界で唯一の家族、新城ウメの存在だった。
「何やってんだ俺は。どうしてちゃんとすぐに追いかけなかったんだ。畜生、どこ行ったか分からねえじゃねえか!」
もし、その凶暴なキングビートルによって祖母が攻撃されていたら。あの巨大で鋭い角によって体を貫かれていたら。頑丈かつ鋭い爪で引き裂かれていたら。そんなことを考えると、不安と恐怖で心が支配されてしまう。
「おばぁ! おばぁどこだ!」
考えてみれば、そもそもヒカルもウメもこの世界に来たばかりだ。ルールも植生も生物の知識も無い。にもかかわらず、一人ぼっちで取り残されることがいかに危険なのか全く考えていなかった。何者かに襲われても、身を守る術が無いのだ。つい先ほどワスレナグサによって記憶を失いかけたヒカルのように、祖母だって未知の存在によって取り返しのつかない事態に巻き込まれる可能性だってある。
「おばぁ! おばぁ!」
山道は非常に険しかった。板根が発達した木々が行く手を阻み、やけにぬかるんだ大地や、巨大な岩、聞いたことも無い生き物の鳴き声がヒカルの足を幾度となく止めた。沖縄に住んでいた時も、こんなに険しいジャングルを突き進んだことは無かった。脳裏にハブの姿が過る。もしこの世界にも危険な毒を持つ生物が居たらどうしよう。そんな不安を必死に振り払って、ヒカルは叫ぶ。
「ねぇ! おばぁ! いるなら返事して! どこねぇ!」
返事はない。しばしの沈黙と、聞きなじみのない鳥の声が、ますます不安を増長させた。
真昼間であるにも関わらず、周囲はやけに薄暗かった。今どこに向かっているのかも分からない。振り返ってみたものの、来た道すら分からなかった。それでも、自分の身長を優に超える草を薙ぎ払いながら、ヒカルはただただ前進する。その先に祖母が居ると信じて。
「おばぁ!」
気が付けば、ヒカルの目には涙が浮かんでいた。恐怖、不安、悲壮、孤独。様々な感情が入り乱れ、そいつが涙腺を刺激する。
「おばぁ、お願い返事してよ……」
異世界にやってきて、一時間もたたないうちに一人ぼっち。神様からは詳しい話を聞くこともできず、この世界で生き抜くための知恵もスキルも持たない。それがいかに心細いことか。ヒカルは必死に祖母を探した。気が付けば太陽が傾き始め、周囲の景色も薄暗さを増していく。時が経つのも忘れて、祖母を探し続けていた。
「おばぁ……」
クタクタの体で、半ば諦めかけながら、ヒカルは巨大な葉っぱを掻き分けた。その瞬間だった。
「あい、ヒカルねぇ?」
聞きなじみのある声が聞こえた。
「おばぁ?」
「ヒカルゥ、こっちよこっち!」
祖母の声だ。間違いない。生まれてから十七年間聞き続けた祖母の声がする。
「おばぁ! どこ! どこに居るば!」
必死に山道を走り回ったせいだろうか、足は疲労で震えていた。恐怖に心を支配されていたせいだろうか、彼の表情は汗と涙で汚れていた。それでも祖母の声が聞こえたという安堵がためだろうか、彼の表情は晴れやかで、満面の笑みを浮かべていた。きっと安心したせいだろうか、彼のお腹が空腹を示す声を発した。
「ヒカルゥ、こっちよぉ!」
「おばぁ!」
たった数時間の別れだったが、まるで数年ぶりの再会が如く、ヒカルは全力で駆けていた。やっと会える。祖母に会える。その安心感に勝るものを、彼は他に知らない。
「おばぁ! やっと見つけた!」
草木を掻き分けて祖母の背中を見つけた。巨大なカブトムシが傍らにうずくまっている。あぁ、祖母の様子から察するに、怪我などはしていないのだろう。ウメはヒカルの声を聞き、ゆっくりと振り返った。手には生肉を持って。ヒカルの方を見て、笑顔でその肉を噛み千切った。
「え、何喰ってるば」
「あい、ヒカルゥやっと来たねぇ。これ、いっぺー(とっても)まーさんどぉ(美味しいよぉ)」
祖母の手には、緑色の血が付着したブヨブヨの肉。その傍らには、息絶えたキングビートル。
「え、もしかしておばぁ、それ食ったの?」
「だーるさ(そうだよ)。でーじ(とっても)まーさんやいびん(おいしいよ)」
「おえぇぇぇえぇ、だってそれ虫やっし」
「だーるよ(そうだよ)?」
「生肉やっし」
「ぬーよ(だから何)?」
「ペットじゃなかったば?」
ヒカルの言葉を聞き、祖母はゆっくりとカブトムシに目を移した。そこには、もうピクリとも動かない巨体が一つ。
「あいえな(びっくり)! タコフル! なんでこんな姿に!」
「イカロスって名前だっただろ! ってかおばぁが殺したんだろ!」
「だってしょうがないさ!」
「何がしょうがないば!」
「いきなり襲ってきたから悪いんど」
「は?」
「だから私、返り討ちにしたわけさ」
「返り討ちにした後食うなよ」
「まーさんどぉ(美味しいよぉ)」
笑顔でそう答える祖母を見て、ヒカルは大きく溜息を吐いた。
「まぁ、美味しいならいいけどさ……」
ヒカルは、やはり久々に祖母の姿を見れたことが何よりもうれしかった。それを思えば、祖母の奇行も許せるもんだ。
「ってかもう二度と俺を置いてどっか飛んでくなよ」
「わっさいびーたん(ごめんなさい)」
「ったく」
やれやれ、といった具合に肩を落としたヒカル。その脇で、もう一口だけ、とカブトムシを食べる祖母。その様子を、生き物が眺めていた。
「なんだお前?」
「美味しそうな飯だなぁ」
そいつは、オオカミのような姿で、人の顔をしていた。人面犬だろうか。
「都市伝説の生き物もこの世界には実在するんだな」
「腹減ってんだ、その飯、食べていいか?」
ヒカルはチラリと祖母を見る。肉を貪るのに必死だ。まるで死肉を貪るゾンビである。
「あー、別に食べていいけど」
「やったー!」
人面犬は笑顔でトタトタと歩み寄ると、祖母の隣で肉を食べ始めた。まるで人間のような平坦な口。狼の姿なのに、顔は人間だからだろうか。全然肉を噛み千切れない。
「固いなこれ、食べれない」
「だー、こうやるわけさ」
祖母は肉に噛みつくと、力いっぱい噛み千切った。
「すごい!」
目をキラキラさせて感動する人面犬。どや顔で生肉を食べる祖母。
「って、野生動物も噛み切れない肉食べてるおばぁの歯茎どうなってるば!」
「私の歯は狼よ!」
「怖いわ!」
ツッコミを入れるヒカルの隣で、犬がプルプル震えている。
「怖い」
「ほら見ろ、犬も怖がってるだろ!」
「ツッコミ、怖い」
「俺かよ!」
そんな会話をしている彼らの耳に、突如悲鳴が聞こえてきた。
「キャ――ッ!」
ヒカルとウメは顔を見合わせる。
「ヒカルゥ、今の声なんね?」
「……もしかして、あの女の子かも!」
二人は立ち上がり、声のした方へ駆け出した。




