異世界と女の子
植生も気候も、非常に沖縄と似通っている。しかし、あんな巨大なカブトムシは生息していない。人が背中に跨って空を飛ぶだなんて、ありえない。それによく見渡せば、あちこちに生えている植物も見かけないものが多い。毒々しい棘を生やした蔓や、一軒家ほどの太さもある幹、そして、ひそひそと囁き声を放つ真っ赤な花。
「ってか、この植物はいったい何を囁いてるんだ?」
ヒカルがそう思って耳を傾けた瞬間だった。
「ちょっと、あなた何やってるの?」
突然森の中から少女が姿を現したのだ。植物性の繊維を編んだと思しき、和装に似た格好の少女。年齢は十四かそこらだろうか。彼女はまっすぐ伸ばした赤いストレートヘアーを靡かせて、片手にはキノコの入ったバスケットを持っていた。
「自分のしてる事分かってる? なんでそんなことしてるの!」
彼女は必死の形相でヒカルを睨みつけ、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。道中、二、三本花を踏み潰しながら。そんな彼女の瞳は、まるでルビーのように透き通っており、木漏れ日を乱反射させていた。艶やかな褐色の肌と、引き締まった体が着物の隙間からチラリと見える。まだ成長途中のふくよかな柔肌に、思わず生唾を飲む。彼女は長いまつげをピンとこちらに向けて、薄い唇を尖らせた。どうも、怒っているらしいことは分かる。
「な、何って……」
突然現れ、いきなり怒りをぶつけてきた少女に驚きつつ、ヒカルは足元に咲いた手のひらサイズの花々に再び目をやる。
「この花が……」
相変わらず、花々はまるで井戸端会議でもしているかのようにヒソヒソと言葉を紡いでいた。
「あなた、今ワスレナグサの声を聞こうとしてたでしょ。どうして、ねぇ、どうしてなの?」
「ワスレナグサって名前なんだ……、どうしてって言われても。なんて話してるのか気になったって言うか」
そもそもヒカルにとって、この世界は知らないことだらけだ。少々興味を持った、それ以上に返答する言葉が見当たらないのである。そんな彼を、少女はマジマジと見つめた。頭のてっぺんからつま先まで、まるで生鮮食品を吟味する主婦のように、片方の眉だけひそませて。
「あなた、両親は?」
ヒカルはその言葉の意味が分からなかった。ただ、この世界に辿り着いたのは自分と祖母の二人だけだ。元居た世界では、きっと今頃行方不明として捜索されている頃合いだろうか。米軍ヘリのプロペラに巻き込まれて姿を消した二人。今頃ニュースも盛大に報道していることだろう。
「お父さんもお母さんも、この世界にはいないよ」
そう答えたヒカルの顔を見て、少女は申し訳なさそうな顔をした。
「……ごめんなさい、私」
どうやら勘違いさせてしまったらしい。
「あぁ、いや、大丈夫大丈夫。全然、本当に大丈夫だから。こっちの世界にはいないけど、あっちの世界では元気してるって言うか、えっと」
これじゃ、あの世に行った両親のことを健気に話す少年じゃないか。ほら見ろ、少女はますます表情を曇らせてしまった。
「もういい、話さなくていいわ。ごめんなさい、辛いこと聞いちゃって」
「いや、違うんだよ。俺の両親は本当に元気で。いや、むしろ俺が消えちゃったって言うか――」
突然、彼女の表情が険しくなる。
「だからワスレナグサの声を聞こうとしたの!?」
「へ?」
「ダメよそんなこと! 思い出を消したりなんかしないで。きっとこれから、もっと楽しいことだってあるから! 幸せなことだって起こるから!」
彼女はヒカルの手を両手で握り、背伸びして必死に訴える。手に持っていたキノコの入ったバスケットも、もう投げ捨てられていた。
「いや、えっと、その」
突然手を握られて困惑するヒカルを知ってか知らずか、彼女は捲し立てるように続けた。
「どれくらい声を聞いたの? そりゃ、魔王軍が攻めてきて私たち人間は居場所を失いつつあるけど、それでもまだまだ幸せになる権利はあるはずよ。お願い諦めないで」
「魔王軍? 居場所を失う?」
そういえば、神様がそんな話をしていた気がする。
「……あなた、そんなことまで忘れちゃったの?」
少女が、憐れみを込めた目でヒカルを見つめた。心なしか、彼女の瞳には涙が浮かんでいる。
「えっと……?」
何と答えたらいいものか考えあぐねているヒカルから、彼女はそっと手を放して語り始めた。
「あそこに生えている植物の名前は、ワスレナグサ。忘れたい記憶を食べてくれる植物なの。でも、おとぎ話に登場するワスレナグサに、いい話は一つもないわ。最後は自分が誰だったのかも忘れて、廃人になる話ばかり」
ちょっと待って、今俺はそんな恐ろしいものの声を聞こうとしていたのか? ヒカルの表情が恐怖一色に染められた。今もなお、真っ赤なワスレナグサたちはひそひそ話を続けている。
「あなた、辛い過去があったのね……、でも生きてればきっといいことあるから。ところで、他に何忘れちゃったの? 家族については覚えているのよね? 言葉も忘れていないみたいだし、帰る場所は?」
ヒカルは首を横に振った。帰る場所はもうない。異世界に飛ばされてきたばかりなのだから。
「そう、覚えていないのね……」
彼女は再び表情を曇らせた。それから、改めてヒカルの格好をジロジロと嘗め回すように確認する。
「見たことない服を着ているわね。もしかして、旅人さんなの?」
そういえば、とヒカルは自分の服を確認した。つい先ほどまで集落清掃をしていたばかりだ。汚れてもいい格好ということで、学校指定の青いジャージを身に着けている。そして片手には黒砂糖が大量に詰まったビニール袋。
「旅人、そう。俺旅人なんだよ。だから、その花のこととかも知らなくて」
「それは絶対嘘、ワスレナグサはかなり有名な植物よ。それを知らずに旅をするなんて自殺行為に等しいわ」
彼女はそう言いつつ、投げ捨てたバスケットを拾って、散らばったキノコを集め始めた。
「きっと、よほどつらい思いをしてきたのね。それで、色んな記憶を全部忘れようとして……、可哀想に」
キノコを集め終わった彼女は、ヒカルの方を向くと、腰に手を当てて胸を張った。
「でも安心しなさい。忘れた記憶は新しく作ればいいのよ! 大丈夫! おとぎ話みたいにはさせないわ! 私が全部教えてあげる。例えばほら、向こうを見て」
彼女の指さす方に目を向けた。鬱蒼と茂る緑の森の、さらに奥。遠いところに巨大な山が見えた。ヒカルは心の中で改めて呟く。ここはやっぱり異世界だ。沖縄にはあんな巨大な山は無い。
「あの山はミール火山。火口には龍が住むって伝説もあるのよ。そして、その龍は様々なお宝を蓄えているらしいわ。お宝の中には、どんな願いも叶えるとされる魔具もあるの。あなた世界を回る旅人さんでしょ。きっとそこに行けば、失った記憶を取り戻す魔具もあるはずよ!」
「それって、龍を倒さなきゃダメなやつ?」
「……まぁ、そうなるわね。でも安心しなさい。今のは気休めに言った話よ。ミール火山に登れなんて言うつもりはないわ。あなたみたいに貧弱な体の男がミールの龍を倒せるとも思えないし」
「んじゃその話しなくてよくね?」
「確かに!」
「確かにじゃねえよ!」
「だってあなた弱そうだもん」
「そんな憐れみを込めた目で言うのやめてくれる?」
そりゃ確かに高校生活三年間帰宅部だけどさ、なんなら二年生くらいから引きこもり生活だったけどさ。とは言えずに口を閉ざすヒカル。一方、少女は尚も自信たっぷりに話を続けた。
「他にも色々あるわよ。例えばこのコウチュウタケっていうキノコ。これはとっても美味しいの。独特な香りがして、蒸し焼きにするとふっくらした食べ応えなんだから。このキノコに、キングビートルの肉を添えた日にはもう最高よ! この料理を食べてるだけで、生きててよかったって思えるはずよ!」
「キングビートル?」
「あなたキングビートルの存在も忘れたの?」
彼女は目を丸くして大袈裟に驚いて見せた。きっと好物なのだろう。キングビートルのことを思い出したのか、よだれを垂らしながら人差し指を立てて解説を始めた。
「キングビートルはこの森に生息している巨大なカブトムシよ。全身の堅い甲殻を剥がすと、中にはとってもジューシーな脂たっぷりお肉が詰まっているの。それを直火で焼くと、もう最高なんだから。まぁ、気性が荒くてすぐ巨大な角で攻撃してくるし、体は金属みたいに固いしで、狩りをするのも一苦労って感じなんだけどね。たまに村の男たちが捕まえてきてくれるのよ。その日は村人皆でパーティーするんだから。あなたもきっと、キングビートルのお肉を食べたら嫌なことなんて全部忘れるはずよ」
「キング……ビートル……」
彼女の言葉を脳裏で反芻しながら、ヒカルは冷や汗をかいた。気性が荒い巨大なカブトムシ、それってもしかして。




