お金が足りない
「払えるかのぉ?」
老婆は厭らしい笑みを浮かべて青年と少女を交互に見た。ヒカルは金銭感覚が無い。だが、ティダの表情と言葉から、このヘアオイルがいかに高いのか理解はできた。銅貨八枚。お金を持っていないヒカルは、ティダに買ってもらうつもりでいた。しかし、こんな表情を浮かべている彼女にお願いするのは気が引ける。
「ティダ、帰ろうか?」
ヒカルがそう囁くと、ティダは突然カバンを漁り始めた。そして中から、ジャラジャラとお金を取り出す。
「ティダ?」
ヒカルに一切返事をせず、ティダはお金を並べる。銅でできた円形のコインが六枚、同じく銅でできた長方形の硬貨が一枚。紐に通されたカビィと呼ばれる硬貨の束が十二本と、バラバラのカビィが七枚。老婆はそれを見下ろして、鼻で笑った。
「全然足りぬのぉ、一銅貨六銅銭と百二十七カビィか。全然足りぬ。八銅貨必要じゃ。ちっとも届いておらぬぞ」
「ティダ、諦めようよ、ごめん俺のために」
ヒカルはなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。しかし、ティダは諦めない。
「あの、私から物を買ってくれない?」
「なにぃ?」
「八銅貨になるまで、私が持っている物を全部売るわ。だから、それで何とかして」
「……何を売るかで考えてやろう」
ティダは立ち上がると、カバンの中に手を突っ込んだ。
「ちょ、ティダ。何もそこまでしなくていいよ」
「ヒカルは黙ってて。私はヒカルに買ってあげるって約束したの。それを破るわけにはいかないの」
「だって、高いんだろう。高いなら諦めるからさ」
「嫌だ! いいから見てて」
ティダはそう言うと、カバンからカピカピの茶色い物体を取り出した。
「まずはこれ。キングビートルの干し肉。いくらで買う?」
「そんなもん要らんわ。ワシの歯を見てみぃ!」
老婆は口を開けて笑う。
「こんなボロボロの歯で、どうやって干し肉を食えと? 一カビィにもならんわ」
「そう、ならこれはどう?」
ティダが次に取り出したのは、またしても茶色の物体だった。今度は大きくて丸い。
「なんじゃそれは」
「三年前に私が作った泥団子。乾かして磨いてを繰り返したの。だからほら、綺麗な球体。ツルツルのピカピカ」
「要らぬわ! 一カビィにもならぬわ!」
「分かった。ならこれはどう?」
「次はなんじゃ」
「さっき果物屋で買ったウェルウチの種と皮が入ってるゴミよ」
「そんなもん誰が買うんじゃ!」
「まったく、我儘な老婆ね」
「どっちかというとお主の方が我儘じゃぞ」
「仕方ない……、私のとっておきを見せてあげる……」
ティダはカバンに手を伸ばし、震えながらゆっくりとその中身を見せた。よほど売りたくない物らしい。震える手で、老婆に白くブヨブヨの物体を見せつけた。
「こ、これは!」
老婆が驚く。
「そう、気づいたようね」
ティダは自信満々に微笑んだ。
「キングビートルの、生肉よ」
「なんでそんなもんカバンの中に入れとるんじゃ!」
「いつでも食べられるようによ」
「泥団子と一緒にか?」
「私の大切な物だから当然でしょ」
「バッチィのぉ! 買い取らんぞ! そんなもの買い取らんぞ!」
老婆は全力で首を横に振る。そりゃそうだろう。泥団子やゴミと一緒にカバンへ押し込められた生肉だ。欲しいはずがない。
「ティダ、ちょっと流石に、それはどうかと思う」
ヒカルは引き気味にそう呟いた。しかし、ティダは目を輝かせて振り向く。
「やっぱり? 銅貨と思うわよね!」
「あぁ、違う、違うなぁ。なんか違う意味で捉えてるなぁ、同音異義だなぁ!」
「ほら、お婆さん、ヒカルも言ってるわ。これは銅貨と思うって!」
老婆は首を横に振りながら言い返す。
「ワシもどうかと思うわい!」
「やっぱり!」
ダメだ、会話が噛み合っていない。ヒカルはポケットに手を忍ばせ、中から黒砂糖一つ取り出した。ビニールで個包装されているから、汚れていない。
「あの、すみません。これはいくらですか?」
「はん? なんじゃそれは」
「黒砂糖なんですけど……」
不揃いお徳用パックの黒砂糖。神様から渡されたものだ。正直、使い道は無い。だが、今のヒカルはこれ以外に何も持ち合わせが無いのだ。
「黒砂糖? ヒィーッヒッヒ、お主、何を言っとるか」
老婆は不気味に笑う。まぁ、笑われても仕方がないだろう。これだって、一円の価値にもならないはずだ。もし仮に香水ショップへ立ち寄って、黒砂糖を一つ差し出して換金してほしいなんて頼もうもんなら、きっと警備員を呼ばれてしまうだろう。
ところが、老婆の次の返答はヒカルの予想を裏切った。
「砂糖なんて高価な物、お主が持っとるわけなかろうて!」
「……は?」
キョトンとするヒカルの隣で、ティダがそっと耳打ちする。
「ヒカル、いくらお金が欲しいからって、お婆さんを騙すのはどうかと思うよ?」
「泥団子売りつけようとしたお前に言われたくないんだけれど」
「んー? 何のこと?」
「適当に誤魔化すなよ」
ヒカルはティダに軽くツッコミを入れてから、一歩老婆に近づいた。それから、個包装の袋を破って中から黒砂糖を一つ取り出す。
「あの、もし疑うなら、食べてみますか?」
「……は?」
「マジでこれ、黒砂糖なんで」
「……ワシを騙そうとしておるじゃろ」
老婆の鋭い目が、真っ直ぐヒカルに向けられる。しかし、ヒカルは嘘を一切ついていない。彼は黒砂糖をパキッと半分に割ってから、欠片を老婆に渡した。そしてもう片方をティダに渡す。
「まぁ、食べてみてくださいよ」
彼の言葉に、ティダと老婆は互いに目線を合わせ、そっと口元に運ぶ。恐る恐る口の中に放り込んだ、その瞬間だった。
「甘ぁぁぁぁぁい!」
最初に叫んだのはティダだった。直後、老婆が悶絶する。
「美味ぁぁぁぁぁい!」
それもそうだろう。ティンダル村の甘味は、ウェルウチの自然な優しい甘みが限界だ。それを超える甘未は存在しておらず、彼女たちにとって、甘い刺激というのは普段味わうことのないものなのだ。
これまで経験したことのない強烈な甘さ、それもサトウキビから取れた糖液を凝固させて作った純粋な甘味は、二人の脳を激しく揺さぶった。
「ひ、ひぃぃ、甘い、こんなに甘いものがこの世にあるとは!」
「ヒカルのバカ! なんでこんなに美味しいもの持ってるのに、もっと早く教えてくれなかったの!」
二人はしばらく口の中で黒砂糖を転がし、次第に溶けていく甘さを堪能した。舌から幸せの電気信号が直接脳を殴る。目がチカチカするほどの甘味に、もはや痛みさえ感じていた。
彼女たちの口腔から、完全に黒砂糖が溶けきるまでほんの数十秒。だが、そのわずかな時間さえ、永遠に感じられる快楽だった。




