餅は餅屋
「いやぁ、酷い目にあった……」
ヒカルは家の外にある洗面所で、髪を軽く濡らし、タオルで拭いてから両手にオイルを塗る。ほんのりと甘い香りがした。確かに、ワスレナグサと同じ匂いだ。あの草、人の記憶を奪うというデメリットこそあれど、こういう時は役に立つらしい。
手櫛で適当に髪の毛を梳かすと、だんだん固かった髪が柔らかくなる。
「おぉ、これはいい……」
もちろん、石鹼カスが付着し、キューティクルにダメージを受けた髪の毛がすぐにサラサラヘアーへ戻るはずはない。多少のくせ毛が残ってしまい、どんなに手櫛で抑えてもいうことを聞かないツンツン頭が完成してしまった。しかし、先ほどみんなに笑われた時に比べればマシだろう。
「こんなもんでいいか」
ヒカルは手を洗ってから瓶の蓋を閉め、室内に戻った。
「あ、ヒカル……、髪の毛、大丈夫そうね」
そこにはティダが立っていた。どうやら気になって様子を見に来てくれていたらしい。
「ありがとう、お陰で何とかなったよ」
「……ん、昨日会ったときより、今の髪形の方が似合ってるよ」
気休めだろうか。彼女はそう言って優しく微笑んだ。
「ありがとう。これ、返すね」
「いや、また必要になるでしょう。あげるよ」
「いやいや、申し訳ないよ。これはティダのだし」
「いいよそれくらい。また買えばいいし」
「……んじゃさ」
ヒカルはふと、手を打った。
「これ売ってる所教えてよ。俺の分は、そこで買うからさ」
「え?」
そんな二人の会話を小耳に挟んだティルルが声を上げる。
「いいじゃない、ティダ。行っておいで。ついでにヒカル君にこの村のこと、教えてあげなさい。まだ村のこと、何も知らないんだから」
「そうねぇ、行ってきなさいヒカルゥ、私はここで、ご両親とゆんた……お喋りしとくからさぁ」
「ほら、お婆さんもそう言ってることだし」
祖母と母が手を振って、二人のデートを促していた。ティダはその意図を組んで頬を赤らめる。だが、彼女なりに勇気を振り絞ったのだろう。少女はヒカルに向き直ると、ハッキリと言った。
「わ、私が案内してあげる」
ヒカルはそんなティダの優しさに、思わず笑みがこぼれる。
「ありがとう、ティダ」
「……うん」
それから二人は、軽く出かける準備を済ませて家を出ることにした。ティダは小さなショルダーバッグに、財布や手鏡、ヘアオイルに櫛などを入れる。一方ヒカルは、特に荷物が無いため、ポケットに黒砂糖を四つほど忍ばせた。後で二人で食べるつもりで、だ。
「じゃ、行ってきます」
ティダの言葉に、ティルルとウメが笑顔で応える。
「行ってらっしゃい」
「気を付けるんだよぉ」
その脇で、ワイダは涙を流しながら畳の掃除をしていた。
ヒカルはティダに連れられて、ティンダル村に繰り出すのだった。
目的地は村一番の商店街らしい。そこには、食材は衣類、美容に関する小物や、生活必需品が売られている。ヒカルのイメージしていたファンタジー世界とは異なり、ダンジョンがあるわけでもなければ、ギルドのような組合があるわけでもないらしい。もちろん冒険者といった職業も存在しないらしく、ティダはヒカルの質問に対して首を傾げて「冒険者ってどうやって御金稼ぐの?」と聞いてきた。
「んー、色んな人の依頼を受けて、成果報酬を貰うみたいな」
「何でも屋ってこと?」
「まぁ、そうかな」
ヒカルの言葉に、ティダは笑う。
「もし仮にそういう仕事があったとしても、誰も頼まないと思うわよ」
「どうして?」
「餅は餅屋にってことよ」
「へ?」
彼女は胸を張って、自慢げに続ける。
「だってそうでしょ、ペット探しの依頼なら、動物の痕跡を追うのが得意なハンターに依頼すればいい。魔物が出て困ってるなら、兵士や門番のお仕事。病気や怪我をして薬草が必要なら、それはお医者さんの領分、もし娯楽が必要なら、紙芝居屋さんがいるし、村の困りごとは村長や役人のお仕事でしょう。皆それぞれ得意分野があって、その道で食べていくためにずっと勉強してきた人たちよ。出自も分からない冒険者って人にお願いするくらいなら、絶対信頼できる職種の人にお願いした方が安全じゃない」
「確かに……」
言われてみればその通りである。しかし、ヒカルはその事実を認めたくはなかった。せっかく異世界に来たというのに、冒険者ギルドが存在しないのは寂しいところがある。
「もしかして、ヒカルはそういう冒険者って職業に憧れて旅人になったの?」
ティダの問いに、ヒカルは首を横に振る。
「違うよ。俺は別になりたい仕事とか、特に無かったから」
「ふーん、それで旅を始めたの?」
「どうだろうね……」
彼は答えを誤魔化した。別に旅人がしたくてこの世界にやって来たわけじゃない。完全に神様の気まぐれだ。それに、実際のところまだ彼はこの世界にやってきて二日目。旅はまだ始まってすらいないのだ。
だが、異世界からやってきましたなんて言っても理解してもらえるはずはない。ワスレナグサの影響で記憶が無くなっているということにして、適当に誤魔化そう。そう思ったのだ。
「覚えてないんだ……」
ティダの表情がほんの少し暗くなった。しまったとヒカルは思う。気を使わせてしまった。




