異世界のお風呂
「ティ、ティダ……さん?」
ヒカルは薄暗い光の中、数度瞬きを繰り返した。まるでコマ送りのように、ティダは立ち上がり、手に持っていた桶をこちらへ投げつける。スローモーションで近づく桶が、見事ヒカルの顔面に直撃した。
「ギャッ!」
「な、ななな、なんであなたがここに居るのよ! な、何しに来たの! へ、変態!」
「ちが、違う。誤解だ! 俺はただ風呂に入ろうと!」
「私が先に入ってるでしょ! 音聞いて分からないの?」
彼女は小さな胸を左手で隠しながら、凄い勢いでヒカルに近づき、桶を拾ってドアを閉めた。
「出て行って!」
「……はい、ごめんなさい」
ヒカルはその後、ティダが風呂場から出てくるまでの間、自分の服を選択桶で洗うことにした。ジャージや靴下を水で濡らし、固形石鹸を擦りつけて泡立たせる。たわしや洗濯板の使い方は知らないので、両手で衣服を擦り合わせて汗を落とした。
もちろん、下着も洗いたかったので、全裸だ。
腰にはタオルを巻いているので、人に見られても問題はない……はず。
一糸纏わぬ姿ではあったものの、気候のお陰なのか、それとも近くで薪が燃えているためなのか、一切寒いとは思わなかった。むしろ服を着ていない方が過ごしやすいほどだ。
洗い終えた下着やジャージは、手ごろなハンガーに似たものを勝手に拝借して干すことにした。燃える薪の近くに干しておけば、きっとすぐに乾くだろう。ヒカルの着ていたものは全て発汗性に優れている。一時間もすれば着れるはずだ。
「さて、後は待つだけか……」
ヒカルは石畳の地べたに腰掛けて、ティダが出てくるのを待った。
しばらくすると、ドアの開く音が聞こえた。ふと顔を上げると、濡れた赤い髪をタオルで拭きながら、浴衣に似た姿のティダが姿を見せる。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
「ごめん……」
気まずい。ヒカルは彼女と目を合わせないよう気を付けながら、端っこに寄る。そんなヒカルを横目に見ながら、ティダはポツリと呟いた。
「そんなに私の裸が見たかったの?」
「……へ?」
聞き間違いだろうか。目を丸くして顔を上げるも、もうそこにティダの姿は無かった。
ヒカルはその後、人生初の異世界風呂を堪能することにした。石畳でできた風呂場には、二つの大きな水桶がある。片方は火で熱されて湯気を放っている。そしてもう片方は常温の真水だ。最初、風呂の入り方がよく分からなかった彼は、おもむろにお湯を桶に入れて全身にかけた。
「冷た……いや熱ぅぅぅ!」
灼熱だ。体が茹るかと思った。全身の感覚細胞が、熱と冷気を勘違いして、一瞬全身が凍り付いたのかと思った。それほどの刺激。
どうやら、桶にお湯と水を混ぜて自分の好きな温度に調節するらしい。ヒカルは涙目になりつつ、桶で温度を調整しつつお風呂を楽しんだ。
体を洗うための固形石鹸だけが置かれている。髪はどうやって洗うのだろうか。
風呂場を見渡してみたが、固形石鹸以外何も見当たらなかった。仕方がないので、ヒカルは石鹸を手に取り泡立ててから、それで頭皮を洗った。そのまま、全身泡立てていく。
そこでふと、先ほど目にしたティダの姿が脳裏に浮かんだ。褐色の柔肌、筋肉質でありつつも、しなやかな手足。引き締まったくびれと、丸みを帯びたお尻。小さな胸がこちらに迫ってくるあの瞬間を思い出し、目を閉じる。
そういえば、彼女は髪の毛は泡立たせていなかったな……。
お湯で髪の泡を流した瞬間、ヒカルはその理由を思い知ることとなった。
「髪が、ベタベタする……」
そう、まるで溶けたゴムみたいに、髪に粘り気が生まれてしまったのだ。
「え、なにこれ……」
実は、現代日本において、髪をシャンプーなどで洗うようになったのはつい最近のことである。それ以前の日本で、髪の毛の手入れと言えばもっぱら、櫛で髪を梳かすことであった。当時の女性たちは、頭皮の油分などを櫛で髪の毛に移し、皮脂が脂肪酸に変化するのを抑えていたという。頭皮に残り続けた油は化学変化を起こし悪臭の原因となるだけでなく、かゆみや病気の温床でもあった。故に、女性たちは定期的に櫛で髪を梳き、頭皮のケアをしていたのだ。
髪に移った油分は、今でいうワックスやヘアオイルに近い働きをしてくれたという。当時の女性は、簪で髪を結い、綺麗にまとめるのが常であった。櫛で髪を梳くことは、頭皮のケアだけでなく、髪をまとめやすくする効果も果たしていたのである。
そんな女性たちが髪を洗う頻度は月に一度か二度程度。どうしても頭皮がかゆくて仕方なかったり、虱が湧いたりしない限り、基本的に髪を洗うことは無かったのだ。お湯で軽くかけ流す程度。それが普通であった。
そんな日本で初めてシャンプーが登場したのは大正時代から昭和初期にかけてだった。当時はシャンプーという名前ではなく、髪洗い粉。その名の通り、髪を洗うための粉である。その後、より成分を安定させた固形石鹸が日本に広まることとなった。
ティダたちが利用している固形石鹸は、まさに一九三〇年頃の日本で普及したものと酷似していた。液体シャンプーが登場するのは、さらにその三〇年後となる。髪を洗うためだけに開発されたカオーフェザーシャンプーですら、広告キャッチには「5日に1度はシャンプーを」と書かれていた。それほどに、髪を洗う文化というのはつい最近根付いたものなのである。
シャンプーの利用が当然になりつつあった一九七〇年代ですら、毎日百回以上は櫛で髪を梳くことが頭皮ケアとして当然とされていたほどだ。
もちろん、新城ヒカルはそんなことなど全く知らない。当時を経験していた新城ウメは、このお風呂スタイルに一切疑問を持つことなく、ゆったりとした入浴時間を楽しむことが出来た。しかしヒカルは違う。人生初の旧式お風呂に、彼は完全にテンパっていた。




