ちょっとした事故
ティダの兄が使っていたという部屋は、思っていたより広かった。食卓同様、畳の敷かれた部屋には、大きな箪笥が一つ置かれている。中には恐らく兄が使っていたと思しき衣類が綺麗に畳んで収納されていた。寝ることと着替えをすること以外に特別な機能は備えておらず、勉強机とか本棚のようなものは無い。シンプルな部屋だ。きっと、何もない空間だからこそ広く感じられるのかもしれない。
ヒカルは部屋を案内してくれたティルルに礼を伝えると、靴下を脱いで布団に腰を落ち着かせた。
ずっと手にしていたビニール袋に気づき、中から黒砂糖を一つ取って口に入れる。
「おばぁも食べる?」
「あい、いただこうかねぇ」
ウメは大きくあくびをしながら、黒砂糖を一つ受け取って口に含んだ。そのままゴロンと横になる。
布団は思っていたより良くできている。植物の繊維を細かく編んで作った布の中に、綿と小さな穀物をたっぷり詰めたものだ。指先で押すと、かすかな弾力の向こう側でじゃりっと音がする。祖母が愛用している蕎麦枕に似た触り心地だった。
「それにしても、色んなことがあったなぁ」
ヒカルは今日一日で起きた出来事を思い返していた。彼はただ、集落清掃に参加しているだけのはずだったのだ。ところが、気づけば神様を名乗る存在と対面し、異世界へやって来た。この世界のことはいまいちよく分からない。だが、やらなきゃいけないことはハッキリしている。魔王討伐。その言葉を小さく口にしてから、ヒカルはふと思った。
「ってか、なんで俺たちが魔王討伐なんかしなきゃならねぇんだ。いきなり選ばれてこんな世界に送り込まれて、はいそうですか、では戦ってきます。とはならねぇよ普通」
別にこの世界に対して思い入れがあるわけではない。異世界を救いたいと思ったことも無い。
そりゃ、ガキの頃は勇者になって悪い奴らを懲らしめたいとか思ったことはあるけれど。でも、今の彼にとって、割と世界なんかどうでもいい存在だった。
「どうせ俺、ただの引きこもりだしなぁ」
両親も、先生も、友人も、そして神様でさえ、ヒカルには何の期待も寄せていない。その証拠に、祖母は魔法という不思議な力を手に入れたが、ヒカルは何一つ貰えなかった。
「いや、一応もらえたか……」
彼の隣で、袋一杯に詰められたお徳用訳あり黒砂糖がガサッと音を立てた。
「これで、どうやって異世界を生き抜くんだか」
思わず鼻で笑ってしまう。
「あ、そうそう。おばぁ、この世界ではあまりうちなーぐち喋るなよ。何が起こるか分からんからさ」
ふと思い出したように、ヒカルは振り向きそう口にする。
「スピィィィ……」
「なんだ、もう寝たのか」
祖母は幸せそうな表情で寝息を立てていた。
「ま、いいか。風呂入ろっと」
ヒカルは布団から腰を上げ、適当に脱ぎ捨てた靴下を拾う。そっと鼻先に近づけると、何とも言えない悪臭がした。
「うっ、ついでに服も洗わせてもらおう」
彼は祖母を起こさないように、そっと襖をあけて部屋を出た。そのまま忍び足で一度玄関まで立ち寄り、自分の靴を手に取る。愛用のスニーカーだ。黒に白のロゴマーク。派手さは一切なく、機能美だけがそこにはあった。
そっと匂いを嗅いでみる。うん、やっぱり臭い。これも洗おう。
「たしか、風呂場はこっちだったよな」
記憶を頼りに、風呂場と思しき場所を探す。台所の脇を通ると、外に繋がる段差があった。裸足でそっと石畳に降り立つと、ゆっくり前に進む。
外とはいっても、雨を凌ぐための簡易的な屋根はある。大きなたらいの脇に、たわしや洗濯板が置かれていた。どうやらここが洗面所らしい。洗面所のすぐ近くに、蝶番式のドアがあった。そっと開けてみると、小さな穴が開いている。ついでに臭い。これがトイレか。
ヒカルはそっとドアを閉めて、その隣に目をやる。小さな隙間が足元に空いていて、そこから時折火花が散っている。よく見れば、脇にたくさんの薪が置かれていた。夜にもかかわらず明るかったのは、この火のお陰だろう。
ということは、ここがお風呂か。
風呂場は少し段差があって、高く設計されていた。恐らく下で火を起こす都合上、高くしなければならないのだろう。石でできた階段を上がり、トイレ同様のドアを開く。引き戸だ。
薄暗いながらも、松明が部屋を照らしていた。どうやらここは更衣室のようだ。
最初に目に入ったのは、木製の棚と植物を編んで作った籠だ。濡れた体をふくためのタオルと思しき布がたくさん畳んで陳列している。その下には、きっと誰かが脱ぎ捨てたであろう衣服が落ちていた。
ヒカルはそのまま目を滑らせて、部屋の中を確認する。衣服にお湯や湯気がつかないようにする工夫だろう。二十扉になっていて、薪が燃えていた辺りは、ドアの向こう側だった。
「結構金持ちなのかな」
彼はぽつりと呟いた。というのも、家が思っていた以上に広いのだ。台所、リビング、寝室が四つ、外に風呂場とトイレがある。割と贅沢な暮らしをしている気がする。
「ま、生活に余裕がないと、見ず知らずの旅人を家族として迎え入れる心の余裕も無いよなぁ」
ヒカルは勝手に納得しつつ、ジャージを脱いだ。
十六時間の草刈り作業がかなりダメージとして蓄積しているらしい。ふくらはぎや二の腕がビリッと痛んだ。きっと明日には筋肉痛だろう。
ジャージの下に着ている肌着も、汗でベタベタだ。体に張り付いてなかなか脱げない。
痛みを堪えながらなんとか服を脱ぎ、ヒカルは風呂場に通じるドアを開けた。
完全にヒカルの不注意だった。もっと聞こえる音に気を配るべきだった。
「え?」
「キャッ!」
そこには、全身が泡で包まれた美少女が座っていたのだ。




