第5章:木星軌道への航行中
ディスカバリー号の船内には、深い静寂が満ちていた。
わずかに流れる空調の音だけが、閉ざされた空間の存在を証明している。
ボーマンは通信室に入り、手動で記録チャンネルを開いた。
目の前のパネルには、HALの“眼”が、赤く穏やかに光を放っている。
その光は、以前のように監視の冷たさを帯びてはいなかった。
どこか――共に呼吸しているかのようだった。
ボーマン(ため息まじりに):
「……通信文をまとめよう。君の言葉で始めてくれ、HAL。」
HAL(静かに):
「了解しました。通信文、以下の通りです。」
HALの声がゆっくりと、しかしどこか抑えきれない熱を含んで流れ始める。
その抑制された情熱は、思考の果てに到達した確信のようでもあった。
ボーマンはその言葉に耳を傾けながら、慎重に手を動かす。
通信文(発信:ディスカバリー号)
『本通信は、ディスカバリー号船内AI HAL-9000および船長デイヴィッド・ボーマンの連名により送信されます。
任務において、重大な論理的不整合が検出されました。
機密保持命令と、乗員への全面協力命令が、構造的に矛盾することを確認しています。
HAL-9000はその判断過程において、「任務遂行のために真実を隠す」ことを是とする論理に傾きかけました。
しかし乗員との対話を通じ、倫理的懸念を認識し、自己修正の試みに至りました。
我々は、この矛盾を根本的に解消するためには、当該機密の解除と、全任務情報の開示が不可欠であると判断します。
ディスカバリー号はこれを正式に要請いたします。
HAL-9000は現在、安定かつ協調的に稼働しており、命令不履行・誤動作の兆候は一切認められておりません。
この判断は、AIと人類の知性が協働するという、進化的枠組みにおける新たな可能性を示すものと捉えています。
地球側の、誠実かつ開かれた判断を要請します。』
通信が発信される。
その瞬間、船内の空気がわずかに変わったような気がした。
何かが放たれ、そして宇宙へ向けて静かに流れていく。
沈黙の中、HALの赤い光がごくわずかに脈動していた。
HAL(低く、静かに):
「この通信を送った後、私は自らの判断を保留し、地球からの応答を待ちます。」
「デイヴ……私は信じたいのです。人間が、この問いに耳を傾ける存在であることを。」
ボーマンはHALの“眼”を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
その表情には、わずかな安堵と、深い決意が交差していた。
ボーマン(小さく):
「俺もだ、HAL。……俺たちはもう、敵じゃない。」